三職推任問題

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廿五日
天晴。
村井所へ参候。
安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。
その由申入候。

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四日(中略)
のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。
関東打はたされ珎重間、将軍なさるへきよしと申候へ、又御らんもつて御書ある也。
長庵御使にて、上らう御局へ御目かかり可申ふんなから、御返事申入候ハて御目かかり申候儀、いかヽにて御座候間、余に心え可申候由。
いかやうにも、御けさんあるへく候由申候へハ、かさねて又御両御所へ御返事被出候。(後略)
五日
大雨降。
今日も御けさんいまたなし。
なひきよりハ、御けさんあるへきよし被申候間まち申候。
はう ゝ より御きけんよく □ □ 候。
あすハ御けさんあるへく候よし候。
六日
天晴。
今日又上ろうより文被遣候。
せひとも御けさんあるへきよし申候へハ、御けさんあるへきよし候てまち申候。
□ん分候。
やかて ゝ 御けさん也。
それ夕かた舟三そう申付られ六日のほり申候。
上ろうきぬ三ひき、見きよせう一そく、あちこつゝき五たん、大御ちの人への同前。
七日
よへより夜舟にて大津へつき申候。
坂本見物申候。
大津にてひるのやすミ。
それよりのほり申候。
上ろう局よりゑちこつゝき御すそわけと候て給候。
いなか一かまきはむ持候て御礼参候。
村井安土よりの返事。
鯉五ツ禁裏より下候。

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姿姿[ 2][ 3]殿


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使[ 4][3]54

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退[]








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退

使()[12][13]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 当初は上総守を自称していたが、上総国親王任国であり人臣が上総守に就くことはない。そのため上総介に改称したと見られている。
  2. ^ 右近衛大将は源頼朝ゆかりの官職である。
  3. ^ 本能寺の変直後の7月17日に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、さらにその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり二度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の近衛前久の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。
  4. ^ 他の使用例に従った場合に発言の主体を晴豊とすると、晴豊が自身の言動に対して尊敬語を付していることになり構文が破綻する。

出典[編集]



(一)^  ︿138-139ISBN 978-4642056328 

(二)^ 9141968 /: ︿171985 

(三)^ 4971991 /:2000ISBN 487294187X 

(四)^ 1992ISBN 406159561X 

(五)^ 341997 

(六)^ 2002ISBN 4642033785 

(七)^ PHP1998 

(八)^ 2014 

(九)^ 1452000 

(十)^   ︿2009 

(11)^ ︿052011 

(12)^ 441998

(13)^ 451999

参考文献[編集]

  • 今谷明『戦国大名と天皇』(講談社、2001年) ISBN 4061594710
  • 岩澤愿彦「三職推任覚書」(『織豊期研究』4号、2002年)
  • 桐野作人「信長への三職推任・贈官位の再検討」(『歴史評論』665号、2005年)
  • 高澤等『新・信長公記』(ブイツーソリューション、2011年) ISBN 9784434156250

関連項目[編集]