久松勝行
松平勝行/久松勝行 | |
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保3年3月26日(1832年4月26日) |
死没 | 明治2年8月5日(1869年9月10日) |
改名 | 松平勝行→久松勝行 |
別名 | 信之助[1]→源三郎[1] |
戒名 | 徳善院慈隣城山大居士 |
墓所 | 東京都豊島区巣鴨の白泉寺 |
官位 | 従五位下豊後守、大蔵少輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 下総多古藩主 |
氏族 | 久松松平家康俊流→久松氏 |
父母 | 父:松平勝権 |
妻 | 本多忠考の娘・栄子[1] |
子 | 勝慈、勝栄、勝定 |
久松 勝行︵ひさまつ かつゆき︶は、江戸時代後期の大名。下総国多古藩7代藩主。幕末・明治維新期の藩主で、版籍奉還により多古藩知事となった。旧名は松平 勝行︵まつだいら かつゆき︶。
生涯[編集]
天保3年︵1832年︶3月26日、6代藩主・松平勝権の長男として誕生した[1]。庶出であったが、天保10年︵1839年︶に嫡子として届けられ、同時に通称を源三郎[注釈 1]に改めている[1]。 嘉永元年︵1848年︶10月7日、父の隠居により家督を継ぐ。同年12月16日に従五位下・豊後守に叙位・任官する。神代徳次郎事件[編集]
嘉永2年︵1849年︶2月15日、初めて領地の多古に入るための半年間の暇を得る[1]。 嘉永2年︵1849年︶7月3日夜、多古藩が幕府から﹁永御預﹂を命じられていた神くま代しろ徳次郎[注釈 2]が、収容されていた多古の屋敷から逃亡した[2][3]。新藩主勝行が初めての国入りから江戸に出府する準備に藩内が追われた隙を狙っての脱出であった[2][3]。 藩領内外での捜索が行われ、江戸家老の高橋勘作が責任を取るという形で切腹するなど藩は対応に追われた[2]。神代は京都で捕縛されたが[2]、事態収拾に要した出費は小藩には莫大であった[2][4]。同年12月19日の幕府の裁許により、神代は死罪、藩主勝行は閉門処分を受け、家中14人に処罰︵中追放2名、軽追放1名、押込11名︶が行われた[4]。 嘉永3年︵1850年︶5月に藩主勝行の閉門は解かれたが、12月に下総国・上総国の領地の大部分を召し上げて[注釈 3]陸奥国楢葉郡・石川郡に代地を与える領地替え処分が行われた[4]。表高に変更はなかったものの[注釈 4]内高にして2000石あまりの減石となった[1][4][注釈 5]。幕末・明治維新期[編集]
安政2年︵1855年︶に大坂加番代を務め翌年交替[1]。安政6年︵1859年︶10月17日に江戸城本丸が火災になった際には一ツ橋門の警衛にあたり、賞詞を受けている[1]。このほか、日光祭礼奉行や辻固めなどの課役を果たしている[1]。 文久2年︵1862年︶閏8月、二条城定番に任じられ[1]、役料3000石を支給され、与力20騎、同心100人を付けられた[1]。二条城定番の職務は翌文久3年︵1863年︶1月に一旦辞職するが[1]、引き続き京都に滞在し、3月の将軍徳川家茂の参内に供奉した[1]。同年6月には二条城勤番となり[1]、八月十八日の政変の際には二条城内の警衛指揮にあたった[1]。 なお、勝行が京都滞在中の文久3年︵1863年︶末には、九十九里地方で真忠組騒動が発生していた。多古藩は幕府から鎮圧を命じられ︵ほかに佐倉藩、一宮藩、および東金に飛び地領があった福島藩に出動が命じられた︶、関東取締出役の指揮下で行動を行った[6]。このことで元治元年︵1864年︶11月に褒詞を受けている[1]。この間の元治元年︵1864年︶7月に大蔵少輔に遷任する[1]。 慶応2年︵1866年︶に京都での務めを辞して江戸に帰還[1]。 慶応3年︵1867年︶10月の大政奉還後、朝廷は11月に大名を京都に召集するが、藩主勝行は病気を理由として参集しなかった[5][7]。口実であるだけでなく、この後の経過からは実際に体調不良であったとも推測される[5]。 慶応4年/明治元年︵1868年︶1月の鳥羽・伏見の戦いを受け、多古藩は新政府に恭順の意を示すとともに、2月24日に藩主勝行は徳川家との訣別を表すため松平姓を元の久松姓に戻し[5]、3月に参内を果たした[5][7]。戊辰戦争時には総野鎮撫府の命を受けて香取郡︵藩領のほか、近隣の旧旗本領を含む︶の警備に当たり、﹁巡邏隊﹂を編成した[5]。7月に旧旗本領の管理は上総安房監察兼県知事︵のちの宮谷県知事︶柴山文平に移管される[7]。10月、勝行は病気のため東京勤番が不可能であるとして帰藩療養が認められた[7]。 翌明治2年︵1869年︶6月25日の版籍奉還で勝行は知藩事となったが[7]、8月5日に38歳で死去した。家督・知藩事は久松勝慈が継いだ。人物[編集]
●勝行は儒学を重んじた人物で、学問を奨励し、父が江戸藩邸に開設した藩校﹁学問所﹂を拡充した[8]。多古藩学問所は藩士子弟のみならず、寺子屋を修了した領民の希望者の入学も認める学校であったが[8]、領民にも門戸を開いたのは勝行である[8]。系譜[編集]
●父‥松平勝権 ●正室‥栄子 - 本多忠考の娘[1]、操善院[9]。 ●子女 ●長男‥久松勝慈 - 家督を相続。﹃人事興信録﹄では、母として正室本多氏︵操善院︶を挙げる[9]。 ●女子‥謹子[注釈 6] - 大代有鄰[注釈 7]の妻[9]。 ●男子‥久松勝栄[注釈 8] ●男子‥久松勝定[注釈 9]補足[編集]
●栄子夫人︵1834年 - 1895年︶は画や俳諧を能くした人物で、画は﹁如雪﹂の号を有し、俳諧は4世夜雪庵近藤金羅に学んだという[1][11]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ ﹁源三郎﹂は家祖松平康俊の通称であり、多古松平家では歴代当主︵勝忠・勝以を除く︶が﹁源三郎﹂を称している。
(二)^ 神代は、中国人船主周藹亭と、長崎の遊女初紫の間に子供が生まれた際に、金銭の受け渡しを仲介して︵一般の日本人は中国人から金品の受領ができないことになっていた︶不正な処理を行い、また生まれた子供の身元を偽って届け、成長後は養子・就業先の斡旋をするなどした。長崎会所の乱脈運営が摘発された際︵これは、長崎会所頭取・高島四郎太夫︵秋帆︶の失脚と連動する動きである︶、神代の行いも明るみに出、﹁唐人屋敷門前で磔になるべきところ﹂減刑された[2]。
(三)^ 房総には、下総国香取郡の多古村、南中村、南並木村、南借当村、井野村の5か村が残った[4]。
(四)^ ﹃角川新版日本史辞典﹄︵角川学芸出版、1996年︶p.1302﹁近世大名配置表﹂では﹁1万2000石﹂のまま廃藩を迎えたと示されている。明治初年に太政官が調査し修史局が編纂した﹃藩制一覧﹄には﹁拝領高壱万弐千石﹂とある[5]。
(五)^ 書籍によっては、嘉永3年︵1850年︶に表高も1万石に減封されたと記すものもある。たとえば﹃日本史広辞典﹄︵山川出版社、1997年︶の﹁多古藩﹂の項目では、1850年に1万石に減封とある。
(六)^ 安政5年︵1858年︶生まれ[9]。
(七)^ 千葉県士族[9]。勝慈の娘の恭子は有鄰の養子となっている[9]。
(八)^ 万延元年︵1860年︶生まれ[9]。
(九)^ 慶応2年︵1866年︶生まれ、別家[9]。1920年︵大正9年︶没[10]。
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrstu“通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>二、多古松平氏歴代”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(二)^ abcdef“通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>七、神代徳次郎逃去事件と陸奥への村替え”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(三)^ ab“地域史編 旧多古町>多古(たこ)>神代徳次郎事件余話”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(四)^ abcde“通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>四、藩財政”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(五)^ abcdef“通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>九、明治維新の多古藩”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(六)^ “通史編 第四章>第三節 久松松平氏と多古藩>八、真忠組騒動への出兵”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(七)^ abcde“地域史編 旧多古町>多古町の誕生”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(八)^ abc“通史編 第四章>第六節 宗教と文化>四、教育・学問”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年2月25日閲覧。
(九)^ abcdefgh“久松勝慈 (初版﹇明治36(1903)年4月﹈の情報)”. ﹃人事興信録﹄データベース. 2022年3月17日閲覧。
(十)^ “地域史編 旧中村>南中(みなみなか)>宗教/神社・寺院>正峰山妙興寺>松平(久松)家墓所”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年3月17日閲覧。
(11)^ “地域史編 旧多古町>多古(たこ)>教育・人物”. 多古町史︵ADEAC所収︶. 2022年3月17日閲覧。