五味國男
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ごみ くにお 五味 國男 | |
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本名 | 小崎 久雄 (こさき ひさお) |
別名義 | 二代目 五味 國太郎 (にだいめ ごみ くにたろう) |
生年月日 | 1898年1月2日 |
没年月日 | 不詳年 |
出生地 | 日本 東京府東京市日本橋区(現在の東京都中央区日本橋) |
身長 | 164.2cm |
職業 | 俳優、映画監督、元子役 |
ジャンル | 新派、劇映画(現代劇、サイレント映画) |
活動期間 | 1900年代 - 1932年 |
著名な家族 |
五味國太郎 (父) 五味國枝 (妹) |
主な作品 | |
『山谷堀』 『愛の扉』 『恋地獄』 |
五味 國男︵ごみ くにお、1898年1月2日 - 没年不詳︶は、日本の俳優、映画監督、元子役である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。新漢字表記五味 国男[1][4][5][6][7][9]。クレジットは五味 國雄︵新漢字表記五味 国雄︶と表記されることもあった[5][6][7]。本名小崎 久雄︵こさき ひさお︶[1][3][4]、父を初代とし、二代目 五味 國太郎︵にだいめ ごみ くにたろう、新漢字表記五味 国太郎︶を名乗ることもあった[3][4]。
人物・来歴[編集]
1898年︵明治31年︶1月2日、東京府東京市日本橋区︵現在の東京都中央区日本橋︶に生まれる[1][2][4]。父は俳優の五味國太郎︵1875年 - 1922年︶、妹はのちに女優の五味國枝︵1905年 - 没年不詳︶になった[1][4]。生年月日については、初期の文献である﹃日本映画年鑑 大正十三・四年﹄には﹁明治三十年一月二日﹂︵1897年1月2日︶[2]、﹃日本映画俳優名鑑 昭和四年版﹄では﹁明治三十年一月元旦﹂︵1897年1月1日︶とされている[3]。 新派の舞台俳優であった父の影響下にあって、幼少時から舞台に立った[1][4]。1911年︵明治44年︶から本格的に舞台を始め[2]、その傍ら、旧制中学校・東京府立第三中学校︵現在の東京都立両国高等学校︶に進学し、卒業している[1][2][3]。1919年︵大正8年︶、父が所属していた国際活映の映画に出演し、1920年︵大正9年︶7月3日に公開された徳富蘆花原作による﹃灰燼﹄︵監督不明︶にも出演した[4]。同年6月、松竹キネマが松竹蒲田撮影所を開所すると同時に入社し、本格的に映画俳優の道を歩む[1][4]。1921年︵大正10年︶8月11日に公開された﹃愛の小唄﹄︵監督田村宇一郎︶では主演している[4][5][6]。 1922年︵大正11年︶4月28日、父の國太郎が大阪での公演中に満47歳で急死する[10]、國男は松竹キネマを退社し、大阪で舞台公演を行った[4]。帝国キネマ演芸が製作・配給し、1923年︵大正12年︶3月1日に公開された﹃愛の扉﹄︵監督中川紫郎︶に出演しており[5][6]、このとき共演した小田照葉︵のちの高岡智照︶と恋愛関係に陥る[11][12]。しかし、間もなく東京に戻り、同年、日活向島撮影所に入社している[5][6]。同年9月1日に起きた関東大震災によって、同撮影所は壊滅し、國男は、再び大阪に戻り、1924年︵大正13年︶にかけて、帝国キネマ演芸芦屋撮影所に所属した[5][6]。 ﹃日本映画年鑑 大正十三・四年﹄では、帝国キネマ演芸の俳優部に分類されており、このとき﹁俳優独立のスタヂオを立てゝ、自分の好むまゝの映画を作つて見たい。資本家と云ふものがゐたらば永久にいゝものは撮れぬ﹂とコメントしている[2]。このコメントは、同年に発表された﹃裸にした映画女優﹄という書物にも引用されており、﹁彼れこそは小いさなシトロハイムである﹂と俳優・監督のエリッヒ・フォン・シュトロハイムになぞらえて絶賛されている[13]。同書によれば、当時、身長五尺四寸二分︵約164.2センチメートル︶、十六貫︵約60キログラム︶であったという[13]。その後、実際に國男は、1925年︵大正14年︶から、大阪映画、ミクニプロダクションといった小プロダクションを興し、映画製作も行っている[1][4][5][6]。東亜キネマに移籍し、甲陽撮影所から京都撮影所︵等持院︶に異動している[5][6]。 1928年︵昭和3年︶、牧野省三のマキノ・プロダクションに移籍、﹃鬼神 前篇﹄︵監督押本七之助︶に主演、同作は同年7月13日︵6月30日[6]︶に公開されている[5][6]。1929年︵昭和4年︶7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、國男は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、阪東三右衛門、市川米十郎、東郷久義、市川幡谷、實川芦雁、桂武男、市川新蔵、津村博、澤田敬之助、岡村義夫らとともに﹁俳優部男優﹂に名を連ねた[14]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、まもなく同社を退社している[5][6]。記録に残る同社での最後の作品は、同年3月8日に公開された ﹃君恋し﹄︵監督川浪良太︶であった[5][6]。同年ころ、父を初代とし﹁二代目 五味 國太郎﹂と名乗り始めるが、映画には、國男の名で出演していた[4][5][6]。 1930年︵昭和5年︶には東京に再度移り、河合映画製作社に移籍した[5][6]。満34歳になった1932年︵昭和7年︶以降の出演歴は不明であり[5][6]、消息は不明である[1][4]。没年不詳。フィルモグラフィ[編集]
クレジットは、特筆以外はすべて﹁出演﹂である[5][6]。公開日の右側には役名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター︵NFC︶、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。国活角筈撮影所[編集]
國活で製作した作品はサイレント映画である[5][6]。 ●﹃灰燼﹄ : 監督不明、原作徳富蘆花、主演藤間林太郎、1920年7月3日公開[2][4]松竹蒲田撮影所[編集]
すべてサイレント映画である[5][6]。 ●﹃鉱山の秘密﹄ : 監督田中欽之、脚本伊藤大輔、撮影ヘンリー小谷、1920年12月15日公開 - 石川の友人法学士野村敬一郎 ●﹃愛の骸﹄ : 監督帰山教正、1921年7月7日大阪公開︵東京公開禁止︶ ●﹃悪夢﹄ : 監督田村宇一郎、原作長岡外史、脚本仲木貞一、1921年7月15日公開 ●﹃法の涙﹄ : 監督・脚本野村芳亭、原作吉岡好郎、1921年8月10日公開 ●﹃愛の小唄﹄ : 監督田村宇一郎、脚本藤田草之助、1921年8月11日公開 - 主演 ●﹃断崖﹄ : 監督牛原虚彦、原作徳田秋声、1921年9月1日公開 ●﹃呪いの金鉱﹄︵﹃呪の金鉱﹄[6]︶ : 監督牛原虚彦、原作中尾鶯夢、脚本伊藤大輔、1921年9月1日公開 ●﹃闇の路﹄ : 監督ヘンリー小谷、1921年11月25日公開 ●﹃母いづこ﹄ : 監督牛原虚彦、原作﹃オーヴァ・ゼ・ヒル﹄より、脚本伊藤大輔、1922年1月10日公開 ●﹃金色夜叉﹄ : 監督・脚本賀古残夢、原作尾崎紅葉、1922年2月1日公開 ●﹃海の極みまで﹄ : 監督賀古残夢、原作吉屋信子、脚本伊藤大輔、1922年2月11日公開 ●﹃山谷堀﹄ : 監督・脚本島津保次郎、原作大明雨香、1922年2月15日公開 ●﹃渡り鳥﹄ : 監督島津保次郎、原作・脚本小田喬、1922年2月21日公開 ●﹃彦根騒動﹄ : 監督不明、製作日活関西撮影所、配給日活、1922年2月28日公開 ●﹃乳姉妹﹄ : 監督池田義臣、原作菊池幽芳、脚本伊藤大輔、1922年4月1日公開帝国キネマ演芸[編集]
サイレント映画である[5][6]。 ●﹃愛の扉﹄ : 監督・原作・脚本中川紫郎、共演小田照葉︵高岡智照︶、1923年3月1日公開 - 主演日活向島撮影所[編集]
すべてサイレント映画である[5][6][8]。 ●﹃兄弟﹄ : 監督・脚本若山治、原作水月八夫、1923年6月8日公開 - 竹村六郎︵﹁五味国雄﹂表記[8]︶ ●﹃紋清殺し﹄ : 監督鈴木謙作、脚本秦哀美、1923年7月13日公開 - 海老原晋一 ●﹃燈籠情話﹄ : 監督・脚本鈴木謙作、原作三遊亭圓朝、1923年8月1日公開 - 源三郎 ●﹃恋地獄﹄ : 監督・脚本長尾史録、共演森静子、製作マキノ映画製作所等持院撮影所、1923年8月30日公開 - 主演 ●﹃夜 第一篇 美しき悪魔﹄ : 監督・脚色溝口健二、原作ジャック・ボイル﹃大盗賊の電報﹄、1923年10月26日公開 - ある青年帝国キネマ芦屋撮影所[編集]
すべてサイレント映画である[5][6]。 ●﹃潜水艇七十号﹄[6] : 監督若山治、共演歌川八重子、1923年11月22日公開 - 主演 ●﹃神は赦すか﹄ : 監督松本英一、脚本伊藤大輔、撮影大森勝、1923年12月6日公開 - 主演 ●﹃若き日の悦び﹄ : 監督松本英一、原作・脚本・撮影大森勝、1923年12月21日公開 ●﹃心中地獄谷﹄ : 監督若山治、脚本伊藤大輔、共演久世小夜子、1924年1月17日公開 - 主演 ●﹃嘆きの曲﹄ : 監督松本泰輔、脚本伊藤大輔、1924年1月19日公開 - 主演 ●﹃足跡﹄ : 監督若山治、原作・脚本伊藤大輔、共演小池春枝、1924年1月23日公開 - 主演 ●﹃仇敵の家﹄ : 監督若山治、脚本内田柳石、1924年2月7日公開 ●﹃金は天下の廻り持ち﹄ : 監督若山治、脚本佐藤樹一郎、共演小池春枝、1924年2月15日公開 - 主演 ●﹃死線を越えて﹄ : 監督若山治、脚本佐藤樹一郎、共演小池春枝、1924年2月22日公開 - 主演 ●﹃千鳥ヶ淵﹄ : 監督・脚本若山治、共演小池春枝、1924年3月6日公開 - 主演 ●﹃恋のマラソン﹄ : 監督若山治、脚本佐藤喜一郎︵佐藤樹一郎︶、1924年6月26日公開 - 主演 ●﹃坩堝の中に﹄ : 監督・脚本伊藤大輔、1924年7月27日公開 - 楊庸の友人・青山欣一 ●﹃金色夜叉﹄ : 監督松本英一、脚本伊藤大輔、1924年製作・公開 ●﹃海の哄笑﹄ : 監督若山治、脚本伊藤大輔、1924年製作・公開 ●﹃恋は悲し三ツの魂﹄ : 監督若山治、共演久世小夜子、1924年製作・公開 - 主演大阪映画ほか[編集]
すべてサイレント映画である[5][6]。 ●﹃旅役者﹄ : 監督不明、1925年製作・公開[4] ●﹃浮浪者﹄ : 監督不明、1925年製作・公開[4] ●﹃明星﹄ : 原作・脚本高木正温、製作・配給大阪映画、1925年製作・公開 - 監督・主演 ●﹃隼の銀次﹄ : 監督不明、製作ミクニプロダクション、配給マキノプロダクション、1926年1月15日公開 - 主演 ●﹃追はれし蛇﹄ : 監督不明、製作天地活動写真、1926年3月15日公開 ●﹃火中の娘﹄ : 監督不明、製作ミクニプロダクション、1926年10月26日公開 - 主演東亜キネマ甲陽撮影所[編集]
すべてサイレント映画である[5][6]。 ●﹃友禅歌舞伎模様﹄ : 監督阪田重則、原作・脚本前田胡四郎、1926年7月8日公開 ●﹃明滅の塔﹄ : 監督竹内俊一、原作相原一魔、脚本竹井諒、1926年9月1日公開 ●﹃愛染草﹄︵﹃愛梁草﹄[6]︶ : 監督根津新、脚本竹井諒、1926年12月22日公開 - 役名不明︵﹁五味国雄﹂表記[6]︶ ●﹃或日の冒険﹄ : 監督井出錦之助、原作・脚本松屋春翠、共演露原桔梗︵若葉信子︶、1926年製作・公開 - 主演 ●﹃悪魔の正体﹄ : 監督・原作・脚本桜庭青蘭、1926年製作・公開 ●﹃世紀病患者﹄ : 監督竹内俊一、原作・脚本竹井諒、1926年製作・公開 - 主演 ●﹃べら棒評判記﹄ : 監督西本武二、原作・脚本松屋春翠、1926年製作・公開 ●﹃果報は寝て待て﹄ : 監督根津新、原作・脚本竹井諒、共演綾小路雅子、1927年1月14日公開 - 主演 ●﹃残された父﹄[6] : 監督根津新、脚本松屋春翠、1927年3月21日公開 - 主演 ●﹃異国の娘﹄ : 監督根津新、原作・脚本竹井白路︵竹井諒︶、共演上村節子、1927年7月8日公開 - 主演 ●﹃夜光珠を繞る女性﹄ : 監督井出錦之助、原作甲賀三郎、脚本内田徳司、製作東亜キネマ京都撮影所、1927年12月1日公開 ●﹃情火奔流す﹄ : 監督永井健、原作・脚本上月吏、共演千種百合子、製作東亜キネマ京都撮影所、1928年1月4日公開 - 主演 ●﹃光に向ふ人々﹄ : 監督米沢正夫、原作・脚本山本三八、製作東亜キネマ京都撮影所、1928年製作・公開 ●﹃巷の人﹄︵﹃巷に人﹄[6]︶ : 監督永井健、原作・脚本内田徳司、製作東亜キネマ京都撮影所、1928年製作・公開 ●﹃子爵家と嗣子﹄ : 監督米沢正夫、原作・脚本内田徳司、製作東亜キネマ京都撮影所、1928年4月1日公開 - 立澤仙八郎、36分尺で現存︵NFC所蔵[9]︶マキノプロダクション御室撮影所[編集]
すべてサイレント映画である[5][6]。 ●﹃鬼神 前篇﹄ : 指揮マキノ省三、監督押本七之助、原作・脚本木下靖、撮影田邊憲治、共演五月信子、1928年7月13日︵6月30日[6]︶公開 - 主演 ●﹃浪人街 第一話 美しき獲物﹄︵﹃浪人街 第一話﹄[6]︶ : 総指揮マキノ省三、監督マキノ正博、原作・脚本山上伊太郎、撮影三木稔、1928年10月20日︵10月13日[6]︶公開 - 金之助 ●﹃つづれ烏羽玉 第一篇﹄ : 監督稲葉蛟児、原作林不忘、脚本物部晋太郎︵稲葉蛟児︶・松本有義、撮影大塚周一、1928年11月1日公開 - 掏模 手扶舎里好 ●﹃京屋の娘﹄ : 指揮マキノ省三、監督吉野二郎、原作・脚本吉村地生、撮影奈子九一郎、1928年11月8日公開 - 富本 ●﹃鞍馬天狗 恐怖時代﹄ : 監督山口哲平、原作大佛次郎、脚本木村富士夫、製作嵐寛寿郎プロダクション、1928年11月30日公開[6] ●﹃君恋し﹄ : 監督川浪良太、原作・脚本陣出達男、撮影松浦しげる、1929年3月8日公開 - 八公河合映画[編集]
すべてサイレント映画である[5][6]。- 『村の異端者』 : 監督村越章二郎、主演五味國枝、1930年10月1日公開
- 『学生時代 近代学士風景 第三篇』 : 監督吉村操、共演琴糸路、1930年10月10日公開 - 主演
- 『清水定吉』(『ピストル強盗清水定吉』[6]) : 監督・脚本丘虹二、1930年10月17日(10月15日)公開
- 『女盗色懺悔』 : 監督吉村操、原作・脚本八尋不二、共演松枝鶴子、1930年11月28日公開 - 主演
- 『仇討呪文』 : 監督・原作・脚本石山稔、1930年12月12日公開 - 主演
- 『青春時代 花の様なお嬢さん 第一篇』(『花のようなお嬢さん』[6]) : 監督吉村操、原作・脚本八尋不二、1931年1月5日(1月10日[6])公開
- 『維新建国 池田屋事変』(『池田屋事変』[6]) : 監督村越章二郎、1931年4月10日公開
- 『白痴の弟殺し 続篇』(『続白痴の弟殺し』[6]) : 監督石橋靖児、1931年5月29日公開
- 『明治の街盗』 : 監督・原作・脚本丘虹二、1931年7月31日公開
- 『事実美談 孝女ヨシエ物語』 : 監督吉村操、1931年8月7日公開
- 『心燃ゆる女性』 : 監督吉村操、1931年11月6日公開
- 『憶ひ起せ乃木将軍』(『想い起せ乃木将軍』[6]) : 監督吉村操、原作・脚本岡田敬、1932年3月18日公開 - 主演
脚注[編集]
(一)^ abcdefghijキネマ旬報社[1979], p.225.
(二)^ abcdefgアサヒ[1925], p.199.
(三)^ abcde映画世界社[1928], p.90.
(四)^ abcdefghijklmnopq五味国男、jlogos.com, エア、2013年6月6日閲覧。
(五)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyz五味国男、日本映画データベース、2013年6月6日閲覧。
(六)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacadaeafagahaiajakalamanaoapaqar五味国男、五味国雄、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月6日閲覧。
(七)^ abc五味国男、allcinema, 2013年6月6日閲覧。
(八)^ abc五味国男、五味国雄、日活データベース、2013年6月6日閲覧。
(九)^ abcd五味國男、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年6月6日閲覧。
(十)^ 世界大百科事典﹃五味国太郎﹄ - コトバンク、2013年6月6日閲覧。
(11)^ 高岡[1984], p.159-178.
(12)^ 渡邉[2010], p.152-154.
(13)^ ab泉沢[1925], p.123-124.
(14)^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録、立命館大学、2013年6月6日閲覧。
(15)^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年6月6日閲覧。
参考文献[編集]
- 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局、東京朝日新聞発行所、1925年
- 『裸にした映画女優』、泉沢悟朗、日本映画研究会、1925年
- 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』、映画世界社、1928年発行
- 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
- 『花喰鳥 下 - 京都祇王寺庵主自伝』、高岡智照、かまくら春秋社、1984年7月 ISBN 4774000183
- 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133
- 『巣鴨撮影所物語 - 天活・国活・河合・大都を駆け抜けた映画人たち』、渡邉武男、西田書店、2010年11月 ISBN 4888665036