五浦海岸
五浦海岸︵いづらかいがん[1]︶は、茨城県北茨城市大津町五浦にある海岸、景勝地。花園花貫県立自然公園に属する。﹁関東の松島﹂の異名を持つ[2]。岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦の一部として国の登録記念物に登録されている[3]。
五浦の日本美術院研究所 (手前から) 木村武山、菱田春草、横山大 観、下村観山︵1909年︶
この活動を記念して茨城県天心記念五浦美術館、茨城大学五浦美術文化研究所が設置された。
また、岡倉天心ゆかりの六角堂観瀾亭が残されていたが、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震︵東日本大震災︶による津波で消失した[6]。翌2012年︵平成24年︶4月17日に、創建当時の設計で再建された。
概要[編集]
大小の入り江、大小の磯、高さ約50mの断崖絶壁など、波による浸食で形成された地形が続く︵海食崖︶。海底油・ガス田の硬成分から形成された炭酸塩コンクリーションが奇岩を成し[4][5]、亀ノ尾層︵珪藻質砂岩、珪藻質砂質頁岩︶、多賀層群などの地層が見られる。崖の上にはクロマツが生えている。 南から﹁小五浦﹂﹁大五浦﹂﹁椿磯﹂﹁中磯﹂﹁端磯﹂の五つの浦︵磯︶を称して五浦という。 陸前浜街道︵国道6号︶を日立から勿来関︵奥州三古関の1つ︶跡に行く道程の途上にある。 日本の渚百選。日本の音風景100選。茨城百景。日本の白砂青松100選。日本の地質百選。岡倉天心と五浦[編集]
26歳で帝国博物館︵現東京国立博物館︶理事・美術部長、27歳で東京美術学校︵現東京芸術大学︶の校長となった岡倉天心は、1898年に日本美術院を設立、1906年この地に移した。横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山などが学び、日本画の創作活動をした。施設・名所[編集]
●茨城大学五浦美術文化研究所 - 岡倉天心の住居跡に設立。1955年に岡倉天心遺跡顕彰会より茨城大学に移管されたもの。旧天心邸︵1904年︶、六角堂︵1905年︶などが残されている。 ●茨城県天心記念五浦美術館 - 1997年1月開館。日本画を中心に所蔵・展示している。端磯の側にある。 ●天心遺跡記念公園 - 1980年一般公開。日本美術院跡地。中磯にある。 ●岡倉天心の墓 - 1913年に染井霊園︵東京都︶から分骨・埋葬されたもの。辞世の句﹁我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影﹂に基づく分骨であるとされる。大五浦の側にある。 ●六角堂 - ボストン美術館中国日本部長の任務を終えてアメリカから帰国後、1905年杜甫︵中国の詩人︶の草堂に倣い建てた観瀾亭のこと。大五浦と小五浦の間の岬にあったが、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震︵東日本大震災︶に伴う津波の直撃を受け、土台部分のみを残して消失︵流出︶した。その後再建され、2012年4月17日に完成式が行われた。 ●忘れじの碑 - 第二次世界大戦時、ここからアメリカ合衆国本土に向けて風船爆弾が飛ばされた。この事実を忘れないため、とする碑。五浦よりやや北、平潟漁港との間にある。 ●大津岬灯台 - 小五浦の南の岬にある。 ●野口雨情記念館 - 北茨城生まれで﹁七つの子﹂﹁赤い靴﹂などで知られる童謡・詩人野口雨情の記念館。五浦海岸の南、JR常磐線磯原駅との間にある。名物[編集]
近辺の名物はアンコウ︵鮟鱇︶料理︵茨城県の冬の風物詩︶。﹁東のあんこう、西のフグ﹂と称される。水戸、大洗海岸、阿字ヶ浦海岸、北茨城一帯︵五浦、平潟、湯の網︶の名物であり、茨城県海岸寄り全般の名物である。温泉[編集]
港[編集]
- 大津港
交通[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
(一)^ 平凡社﹃世界大百科事典﹄﹁五浦海岸﹂コトバンク版。2020年8月10日閲覧。および小学館﹃デジタル大辞泉プラス﹄︵ジャパンナレッジ︶
(二)^ ﹁日研﹂新聞編集委員会 編︵1991︶‥4ページ
(三)^ “岡倉天心旧宅・庭園及び大五浦・小五浦”. 茨城県教育委員会. 2014年9月18日閲覧。
(四)^ ﹁茨城県五浦に幻の巨大油ガス田―天然ガスが築いた世界最大級の層状炭酸塩コンクリーション﹂︻茨城大学︼2020年7月8日付
(五)^ ﹁茨城沖に﹁幻の巨大油ガス田﹂、今も埋蔵? 茨城大と北大が解明﹂︻東京新聞︼2020年8月26日付
(六)^ "被災地文化財300件 あぁ松島、六角堂消失"産経新聞2011年3月26日付朝刊、12版17ページ
参考文献[編集]
- 「日研」新聞編集委員会 編『茨城108景をめぐる』川崎松濤 監修、筑波書林、平成3年9月20日、219pp.