佐藤政養
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(佐藤与之助から転送)
佐藤 政養︵さとう まさやす、文政4年12月︵1821年︶[1] - 明治10年︵1877年︶8月2日[1]︶は、江戸時代末期︵幕末︶から明治初期の蘭学者、鉄道技術者。通称は与之助。号は李山。
経歴[編集]
出羽国飽海郡升川村︵→直世村升川→現・遊佐町直世升川︶の農民佐藤与兵衛の長男[2]。 幼い頃から才気煥発で、1853年︵嘉永6年︶8月に上京し[2]、勝海舟に砲術[2]、伊藤鳳山に漢籍[2]、佐藤恒俊に彫刻をそれぞれ学んだ[2]。1855年︵安政2年︶庄内藩砲術方を命じられ、同年9月長崎海軍伝習所の生徒として長崎に至り[2]、グイド・フルベッキに測量や軍艦操練を学ぶ[2]。同年に庄内藩組外徒士格、江戸幕府軍艦操練所蘭書翻訳方として役付きとなった。 1862年︵文久2年︶に大坂台場詰鉄砲奉行、1864年︵元治元年︶に神戸海軍操練所を司り、14代将軍徳川家茂の大坂港視察に帯同した[2]。また幕閣に神奈川に代わる横浜開港を建議した[2]。 明治維新後は民部省の初代鉄道助となり、日本初の鉄道路線となる新橋 - 横浜間の鉄道敷設に尽力した。また、1870年︵明治3年︶に小野友五郎と共に東海道の調査を行い、中山道の線路敷設を提案した調査報告書を上申、この案が中山道幹線敷設に繋がった。 1876年︵明治9年︶5月、病気により依願免官し、翌1877年︵明治10年︶8月2日に55歳で死去[2]。墓所は東京都港区の青山霊園にある[2]。1928年︵昭和3年︶従四位[2]。 1964年︵昭和39年︶、国鉄吹浦駅前に銅像が建てられた[2]。地元では、鉄道の日である毎年10月14日に顕彰祭を行っている[3]。関係史料[編集]
●参考文献﹃日本国有鉄道百年史2﹄口絵に佐藤の写真と文書が紹介されており、﹁鉄道助佐藤政養が高級技術者として新橋・横浜間および大阪・神戸間の鉄道建設に従事していたとき書き残した意見書類は、当時の鉄道建設事情を知るうえに貴重な資料である。この佐藤政養文書︵8巻︶は、昭和38年鉄道記念物に指定され、現在交通博物館に保存されている﹂と記されている。脚注[編集]
(一)^ ab“佐藤政養とその時代-勝海舟を支えたテクノクラ-ト-の発刊について”. www.town.yuza.yamagata.jp. 遊佐町. 2022年8月25日閲覧。 (二)^ abcdefghijklm“郷土の先人・先覚56︽佐藤 政養︾”. www.shonai-nippo.co.jp. 荘内日報社. 2022年8月25日閲覧。 (三)^ “︻毎年10月14日︼佐藤政養祭︵遊佐四大祭︶”. www.yuzachokai.jp. 遊佐鳥海観光協会. 2022年8月25日閲覧。参考文献[編集]
●﹃日本国有鉄道百年史 第2巻﹄日本国有鉄道、1970年。
●﹃明治過去帳﹄大植四郎(編)、東京美術、1971年︵原著私家版1935年︶。
●﹃洋学史事典﹄日蘭学会(編)、雄松堂出版、1984年。
●﹃新編 庄内人名辞典﹄庄内人名辞典刊行会︵編刊︶、1986年。
●﹃坂本龍馬﹄松浦玲、岩波書店<岩波新書1159>、2008年。
●国内初の鉄道開設に尽力 佐藤政養の功績学ぶ 山形・遊佐 (河北新報 2010年10月16日)
●﹃飽海郡誌. 巻之10﹄︵国立国会図書館デジタル化資料︶
●鉄道史学会編﹃鉄道史人物事典﹄日本経済評論社、2013年、214-215頁
●丸山健夫 ﹃筆算をひろめた男-幕末明治の算数物語﹄ 臨川書店 平成27年︵2015年︶ ISBN 978-4-653-04225-9