佐藤脩 (海軍軍人)
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佐藤 脩 | |
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生誕 | 1886年12月5日 |
死没 | 1974年2月4日(87歳没) |
所属組織 |
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軍歴 |
1907年 - 1937年 1943年 - 1946年 |
最終階級 |
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除隊後 | 日本屑鉄統制株式会社常務取締役 |
佐藤 脩︵さとう おさむ、1886年︵明治19年︶12月5日 - 1974年︵昭和49年︶2月4日︶は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。日本海軍の中華民国専門家である。旧姓古川。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/Japanese_cruiser_Tsushima_1904.jpg/200px-Japanese_cruiser_Tsushima_1904.jpg)
艦長を務めた﹁対馬﹂
横浜市出身。本籍は青森県にあった[1]。横浜一中を経て、海軍兵学校に首席[1][2]入校。1907年︵明治40年︶卒業。席次は172人中26番。佐藤は海兵35期の一人である。1913年︵大正2年︶12月大尉へ進級し、﹁薩摩﹂分隊長。翌年海軍大学校︵以下﹁海大﹂︶専修学生を修了し、航海科専攻士官となる。佐藤は6艦で航海長を務めた。
1919年︵大正8年︶、海大甲種学生に入校︵19期︶。海大同期に草鹿任一、小沢治三郎がいる。1922年︵大正12年︶砲艦・﹁伏見﹂艦長となる︵階級は少佐︶。その後は第一遣外艦隊参謀、軍令部参謀︵三班六課︶、軍令部参謀兼第一遣外艦隊司令部附、軍令部参謀と参謀勤務が多く、﹁長門﹂副長を経て、1928年︵昭和3年︶12月大佐へ進級。第二遣外艦隊所属の﹁対馬﹂艦長に補され、北支警備に従事した。翌年には軍令部に戻り、三班六課長として中華民国情報の責任者となる。なお満州事変勃発に伴い、六課は中華民国専門となり、七課・八課が分離したため一時3つの課長職を兼務している。事変後に軍令部次長の百武源吾が満州視察を行った際は同行した[3]。1932年︵昭和7年︶12月、中華民国公使館︵のち大使館︶附武官となり、緊張状態にある日中間の調整にあたる。在任中に少将へ昇進し、同職を4年務めた。1937年︵昭和12年︶12月、予備役編入。
日本屑鉄統制株式会社の常務を務めていた[4]が、1943年︵昭和18年︶10月に充員召集を受け、北京在勤武官として再び中国での活動に従事。召集解除は1946年︵昭和21年︶12月であった。稚松会会員。
中国通
佐藤は津田静枝、須賀彦次郎らと同様、日本海軍が養成した中国問題の専門家であった。海軍における中国専門家は傍流であった[5]が、佐藤は海大甲種出身という珍しい存在である。少佐時代から中華民国関連の職務にあり、中華民国要人の知己も多かったが、対馬艦長時代には海賊の頭目と称された人物を訪問するなど、様々な階層とつながりがあった。佐藤は蔣介石の信頼を得ており、予備役編入の際は日本海軍の軍人としてただ一人、中華民国最高勲章を授与された[6]。
人物・来歴[編集]
略歴![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c2/Japanese_cruiser_Tsushima_1904.jpg/200px-Japanese_cruiser_Tsushima_1904.jpg)
航海長を務めた艦
●防護巡洋艦‥秋津洲
●装甲巡洋艦‥八雲
●戦艦‥石見・朝日・摂津・香取