元田直
表示
元田 直︵もとだ なおし、1834年4月13日︵天保5年3月5日︶[1][注釈 1] - 1916年︵大正5年︶3月4日[2]︶は、日本の儒学者・法学者・法律家・教育者。東京代言人組合︵現・東京弁護士会︶会長、東京府尋常師範学校校長、東京法学社︵現・法政大学︶の創立者の一人。
略歴・人物[編集]
1834年︵天保5年︶、豊後国杵築藩︵現在の大分県杵築市︶に儒学者元田竹渓の長子として生まれる。維新の際に、藩主の嫡子松平親貴に従って京都に上り、参与広沢真臣に知遇を得て内国事務局書記に任ぜられる[3]。度会府判事に就任し、度会府廃止後に太政官に入り、太政官記録取調掛に任ぜられ、箕作麟祥とともにフランス民法を審議する[4]。 1874年︵明治7年︶に東京神田に法学塾の﹁法律学舎﹂を開設し、フランス法を講授する[5]。この法律学舎が日本における私立法律学校のはじめとされている[6]。 1880年︵明治13年︶、同郷の金丸鉄、薩埵正邦、元田の下にいた伊藤修らが東京法学社を創立する際にその助力をし、法政大学の創立者の一人として数えられている[7]。 1880年︵明治13年︶6月に東京代言人組合の初代会長に就任[5]。また同年11月には長崎上等裁判所判事に任じられる。1887年︵明治20年︶に文部大臣森有礼の懇請により東京府学務課長兼東京府尋常師範学校長に就任し、義務教育の普及発展に貢献する[3]。 1916年︵大正5年︶3月4日、腎臓萎縮症のため死去[2]、82歳。墓所は雑司ヶ谷霊園。著書・口述書[編集]
●﹃東京土産﹄︵鈴木喜右衛門、1871︶[1] ●﹃所得税法俗解﹄︵博成社、1887︶[2] ●﹃南豊詩鈔﹄︵元田直、1900︶[3] ●﹃南豊文集﹄︵弘道館、1913︶[4]家族[編集]
●父の元田竹渓(1800-1880)は杵築藩の藩校学習館教授[8]。幕長戦争に反対して処分されたが、維新後復職[8]。帆足万里の高弟で、竹渓の門人には物集高世、元田肇らがいる[8][9]。 ●枢密顧問官、衆議院議長等を務めた元田肇は婿養子。 ●長男の元田伝 (1867年生)は東京高等師範学校教授。妻の楓は李家隆介の妹。[10] ●四男の太田善男(1880年生)は三重県伊勢市の太田小三郎家の養子となり、 東京帝国大学英文科卒業後、博文館を経て評論家として活躍し、その後、慶応義塾大学予科教授となった[11][12]。義兄︵小三郎の養子︶に太田光凞。 帝大在学中はラフカディオ・ハーンの最後の1年間を受講し、小山内薫、川田順、武林無想庵、上村清延、吉田白甲、高瀬精太と7人で同人雑誌﹃七人﹄を創刊した[13]。英語が非常に得意で、普段は吃音だが英語だと流暢に話せた[13]。小山内薫を通じて小山内の妹八千代に求婚したが無視され、のちに藤田東湖の親戚・喜子と結婚した[13][14][15]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『日本弁護士協会録事』第206号では「天保五年五月五日生る」とする。
出典[編集]
(一)^ 国立公文書館﹁東京府属元田直外四名尋常師範学校長並ニ教頭ニ転任及兼任ノ件﹂明治20年5月24日の添付履歴書の記載﹁大分縣士族/元田 直/天保五年三月五日生﹂に依る。
(二)^ ab﹃日本弁護士協会録事﹄第206号︵日本弁護士協会、1916年︶p.118
(三)^ ab﹃大分県人士録﹄
(四)^ kotobank-元田直とは
(五)^ ab元田 直︵もとだ なおし︶ 杵築市、2020年2月13日閲覧。
(六)^ 学制百年史-三 専門学校の創設
(七)^ 東京法学社の設立とその創立者たち
(八)^ abc元田竹渓コトバンク
(九)^ ﹃代表的人物及事業﹄時事通信社、1913年、p19
(十)^ 元田伝﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
(11)^ 太田光熈﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
(12)^ 太田 善男︵読み︶オオタ ヨシオコトバンク
(13)^ abc﹃葵の女﹄川田順、講談社、昭和34年、p49-53
(14)^ 川田順は﹁東湖の姪と結婚した﹂としている。喜子は1887年生まれ
(15)^ ﹃帝国大学出身名鑑﹄ 校友調査会、1934年、太田善男の項
参考文献[編集]
- 『大分県人士録』(大分県人士録発行所、1914年)
- 小正展也「元田直小伝 -東京府尋常師範学校長就任時までの経歴・活動を中心にー」『東京学芸大学大学史資料室報』第2号、2015年3月
公職 | ||
---|---|---|
先代 和久正辰 |
東京府尋常師範学校長 1887年 - 1890年 |
次代 矢島錦蔵 校長事務心得 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
東京代言人組合会長 1880年 |
次代 目賀田種太郎 |