兪鴻鈞
兪 鴻鈞 | |
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Who's Who in China 5th ed. (1936) | |
プロフィール | |
出生: |
1898年1月4日 (光緒23年12月12日) |
死去: |
1960年(民国49年)6月1日 中華民国 台湾省台北市 |
出身地: |
清 広東省広州府新会県 (現:江門市新会区) |
職業: | ジャーナリスト・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 俞 鴻鈞 |
簡体字: | 俞 鸿钧 |
拼音: | Yú Hóngjūn |
ラテン字: | Yü Hung-chün |
和名表記: | ゆ こうきん |
発音転記: | ユー ホンジュン |
英語名: | O. K. Yul |
兪 鴻鈞︵ゆ こうきん︶は中華民国︵台湾︶の政治家・ジャーナリスト。国民政府における財政部門の要人として知られ、中華民国政府の台湾への移転後には行政院長も務めた。
事績[編集]
日中戦争までの活動[編集]
1915年︵民国4年︶、上海民生中学を卒業し、上海聖ヨハネ大学に進学した。在学中に校報﹃約翰声﹄総編輯を務めている。1919年︵民国7年︶に同大学を卒業後、助教となり、さらに中学部で教鞭を執った。まもなく、﹃大陸晩報﹄の英文記者となっている。 1927年︵民国16年︶、兪鴻鈞は外交部長陳友仁の英文秘書として起用される。しかし、まもなく辞職して上海に戻り、上海市政府で英文秘書となった。このとき、宣伝科科長も兼ね、﹃市政周刊﹄の主編を務めている。後に上海市政府の財政局局長代理、秘書長代理を歴任し、1932年︵民国21年︶4月、正式に秘書長に任ぜられた。1936年︵民国25年︶、上海市長代理となり、翌1937年︵民国26年︶7月、正式に市長に昇進している。 まもなく第二次上海事変が勃発し、兪鴻鈞は上海市長として当事者となり、日本との交渉も行った。上海から撤退した後は、中央信託局常務理事、駐香港弁理外交事務となる。1941年︵民国30年︶6月、財政部政務次長に任ぜられ、8月には外匯管理委員会常務委員も兼任した。1944年︵民国33年︶11月、財政部部長に昇進し、さらに中央銀行経済研究処処長も兼任している。翌1945年︵民国34年︶5月、中国国民党第6期中央執行委員に選出され、7月には中央銀行総裁も兼任した。国共内戦期、台湾時代[編集]
戦争終結後の同年12月、ソ連との間での東北三省における財政問題につき、兪鴻鈞が全権代表を務めた。翌年3月、国際通貨基金︵IMF︶と国際復興開発銀行︵IBRD︶の理事を務めている。同年6月、国民政府最高経済委員会委員となった。1948年︵民国37年︶5月、財政部長を辞任し、中央銀行総裁専任となる。まもなく幣制改革として金円券発行などに取り組んだが、結局は失敗に終わった。同年8月には、経済管制委員会上海区督導員も務めている。翌年1月、総裁から罷免され、中央銀行理事会常務理事に転じた。 国共内戦末期に兪鴻鈞は台湾へ逃れた。1950年︵民国39年︶8月、国民党中央改造委員会財務委員会主任委員に任ぜられる。1952年︵民国41年︶10月、国民党第7期中央委員に選出され、中央財務委員会主任委員となった。1953年︵民国42年︶4月、台湾省政府主席に任命され、さらに経済安定委員会を主管した。翌1954年︵民国43年︶6月、行政院長︵首相︶に昇進している。1957年︵民国46年︶10月、国民党第8期中央常務委員に選出された。1958年︵民国47年︶7月に行政院長を退いた後も、中央銀行総裁や交通銀行・農民銀行の董事長を兼任し、引き続き金融政策に従事した。 1960年︵民国49年︶6月1日、台北市にて病没。享年63。参考文献[編集]
●徐友春主編﹃民国人物大辞典 増訂版﹄河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
●劉国銘主編﹃中国国民党百年人物全書﹄団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
●劉寿林ほか編﹃民国職官年表﹄中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
●東亜問題調査会﹃最新支那要人伝﹄朝日新聞社、1941年。
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