八代宮
八代宮 | |
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所在地 | 熊本県八代市松江城町7-34 |
位置 | 北緯32度30分28秒 東経130度35分58.5秒 / 北緯32.50778度 東経130.599583度座標: 北緯32度30分28秒 東経130度35分58.5秒 / 北緯32.50778度 東経130.599583度 |
主祭神 | 懐良親王 |
社格等 |
旧官幣中社 別表神社 |
創建 | 明治17年(1884年) |
例祭 | 8月3日 |
八代宮︵やつしろぐう︶は、熊本県八代市にある神社である。旧社格は官幣中社。
概要[編集]
後醍醐天皇の皇子で、征西将軍としてこの地で足利軍と戦った懐良親王を主祭神とし、懐良親王歿後に征西将軍職を継いだ良成親王を配祀する。地元では﹁将軍さん﹂の愛称で呼ばれている。建武中興十五社の一社である。 例祭日の8月3日は、八代宮の創建が太政官によって決定された日である。親王が死んだ日を例祭の日とすべきであったが、その日が不明なため創建決定の日をもってした[1]。創建の日でないのは例祭日を創建に先立って定めたためである。歴史[編集]
明治維新以降、南朝の功労者を祀る神社の創建運動が各地で起こり、懐良親王の墓所のある八代の住民からも、懐良親王と良成親王を祀る神社を創建し、鎌倉宮・井伊谷宮と並ぶ官幣中社にしてほしいという請願が何度かなされた。住民である徳富忠七や八代宮創立発起担当人の村上忠三ら[要出典]は、墓所から遠くない松江城︵八代城︶の址に神社を建てることを求めた。これを請けて1880年︵明治13年︶に太政官が熊本県に創立を命じ、懐良親王を祭神とし、良成親王を配祀する神社が八代宮の名で願い通りに造られることとなった[2]。 同地には官有地と民有地があったが、1881年︵明治14年︶に民有地が神社のために寄付されたため、八代城址は全体が神社の境内になった[3]。また神社の前から市街に通じる道路を開くこととした[4]。建設予算は9463円80銭4厘で、寄付金2642円97銭4厘︵寄付金2000円、残りは力役提供を金銭に換算︶と官費6820円83銭で拠出した[5]。 またこの年に、宮内省と内務省は霊代︵神体︶を社殿完成後に新しい鏡で納めることにすることを決めた[6]。社殿が完成してから、明治17年︵1884年︶4月20日に鎮座祭が行われ、霊代が納められた[1]。年表[編集]
交通アクセス[編集]
●JR九州鹿児島本線八代駅からまちバス・みなバス・ゆめバスなどに乗車し﹁八代宮前﹂下車すぐ。 ●同新八代駅からみなバスに乗車し﹁八代宮前﹂下車すぐ。 ●九州自動車道八代インターチェンジから5.5㎞。脚注[編集]
(一)^ ab岡田米夫﹁神宮・神社創建史﹂46頁。
(二)^ 岡田米夫﹁神宮・神社創建史﹂45頁。﹁肥後国八代城址ニ八代宮創立官幣中社ニ列ス﹂、﹃太政類典﹄第4編︵明治13年︶、第38巻、12。
(三)^ ﹁熊本県下八代宮社地ノ内ヘ民有地寄附﹂、﹃太政類典﹄第5編︵明治14年︶第30巻、30。
(四)^ ﹁熊本県下八代宮社前道路開設﹂、﹃太政類典﹄第5編︵明治14年︶第30巻、32。
(五)^ ﹁熊本県下八代宮社殿其他建築并橋梁新架﹂、﹃太政類典﹄第5編︵明治14年︶第30巻、31。
(六)^ ﹁熊本県下八代宮霊代納付﹂、﹃太政類典﹄第5編︵明治14年︶第30巻、29。
参考文献[編集]
- 『太政類典』、国立公文書館デジタルアーカイブにて2011年9月閲覧。
- 岡田米夫「神宮・神社創建史」、松山能夫・編『明治維新神道百年史』第2巻、神道文化会、1966年。
関連図書[編集]
- 安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、63頁
- 白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、340頁
- 鈴木喬『熊本の神社と寺院』熊本日日新聞社、1980年、92-93頁
- 角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典43 熊本県』角川書店、1987年、1092-1093頁