内藤信輝
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内藤信輝 | |
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 天和2年10月27日(1682年11月26日)[1] |
死没 | 享保10年10月25日(1725年11月29日) |
別名 | 弥十郎、信季 |
戒名 | 威徳院心誉玉峰浄眼 |
墓所 | 新潟県村上市羽黒口の光徳寺 |
官位 | 従五位下・豊前守、伊予守、紀伊守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 越後村上藩主 |
氏族 | 内藤家 (信成系) |
父母 |
父:内藤信良、母:不詳 養父:内藤弌信 |
兄弟 | 岡部正敦室、信貞、内藤信朋正室、信輝ら |
妻 |
正室:蜂須賀隆重の三女・菊 側室:武笠氏 |
子 |
ヒサ、トミ、信積、モト、信興、加藤明経正室ら 養女:相馬徳胤正室 |
内藤 信輝︵ないとう のぶてる︶は、江戸時代中期の大名。越後国村上藩の第2代藩主。官位は従五位下・紀伊守。
経歴[編集]
天和2年︵1682年︶、隠居していた元棚倉藩主・内藤信良の三男として棚倉にて誕生した。元禄7年︵1694年︶閏5月21日に14歳で、当時棚倉藩主であった︵のち駿河国田中を経て村上へ転封した︶内藤弌信の養子となり、同28日に徳川綱吉に御目見する。翌元禄8年12月18日に従五位下・豊前守となり、後の宝永6年︵1709年︶9月7日に伊予守に改めた。 享保10年︵1725年︶2月18日に襲封し、19日に紀伊守となる。3月12日に村上に入部したが、同年10月にこの地で卒去した。享年44。 葬地は新潟県村上市の光徳寺であったと伝えられる︵以上﹁寛政譜﹂新訂13巻202︶。現在の墓所も同じ。系譜[編集]
子女は﹁寛政譜﹂は次の2男5女を記す。﹁越後村上 内藤家譜﹂からの記述を付加し、また早世した男子2人を記す﹃村上郷土史﹄所載系図の記述を括弧書きにした︵79および80頁︶。 父母 ●内藤信良︵実父︶ ●内藤弌信︵養父︶ 正室 ●菊 ー 蜂須賀隆重の三女 側室 ●武笠氏 子女 ●男子[2] ●ヒサ[3]、生母は菊︵正室︶ ●トミ[4]、生母は菊︵正室︶ ●内藤信積︵長男︶生母は菊︵正室︶ ●モト[5]、生母は菊︵正室︶ ●円覚院[6]、生母は菊︵正室︶ ●内藤信興︵次男︶生母は武笠氏︵側室︶ ●加藤明経正室離別し水野勝前の正室として再嫁 養女
●相馬徳胤正室 ー 内藤弌信の娘
特記事項[編集]
●生没年および享年は﹁寛政譜﹂および﹁藩翰譜続編﹂︵﹃新編 藩翰譜﹄2巻104頁および128頁の系図が続編部分である︶の記述に拠った。﹁藩翰譜続編﹂は享保10年の冬︵また系図部分に忌日10月25日と記す︶に45歳で卒と記す。従って天和元年生まれとなる。﹁寛政譜﹂は生年、没年月日を明記している。 ●国立公文書館蔵﹁内藤家譜﹂は出生日を天和2壬戌年10月27日と記している。しかし同文書中には天和2年︵1682年︶を﹁辛酉年﹂とする記述もあり︵﹁信良譜﹂︶暦に関する混乱がみられる︵辛酉は天和元・1681年︶。﹃村上郷土史﹄102頁の記述もこれに同じ。 ●生母に関して﹃村上郷土史﹄79頁は﹁側室カツ、小早川氏﹂と記す。﹁寛政譜﹂は﹁某氏﹂、﹁内藤家譜﹂は﹁家女 号 栄寿院﹂としてその出自を明らかにしていない。脚注[編集]
(一)^ ﹃内藤信輝﹄ - コトバンク (二)^ 早世。 (三)^ 早世︵元禄12年︵1699年︶9月生まれ。同13年︵1700年︶7月卒︶ (四)^ 早世︵元禄14年︵1701年︶11月生まれ。宝永6年︵1709年︶1月卒︶ (五)^ 早世。︵正徳元年︵1711年︶11月生まれ。同3年︵1713年︶卒︶ (六)^ 正徳4年︵1714年︶8月生まれ。同月早世。出典[編集]
●﹃新訂寛政重修諸家譜﹄13巻 続群書類従完成会、1984年 ●﹃新編 藩翰譜﹄2巻 新人物往来社、1977年 ●国立公文書館所蔵﹁内藤家譜﹂︵請求番号‥157-0205︶ ●東京大学史料編纂所所蔵﹁越後村上 内藤家譜﹂︵請求番号‥4175-665︶※東京大学史料編纂所データベースから検索・閲覧可能。 ●﹃村上郷土史﹄村上本町教育会、1931年
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