国分青崖
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(国分青厓から転送)
国分 青崖︵こくぶ せいがい、1857年5月27日︵安政4年5月5日︶ - 1944年︵昭和19年︶3月5日︶は、明治・大正・昭和期の漢詩人。本名は高胤︵たかたね︶、号は青崖、青厓とも書いた。別号に太白山人、松州など。字は子美︵しび︶、通称は豁︵とおる︶。
経歴[編集]
仙台の産。父盛久は仙台藩士だった。後年の号﹃青崖﹄は青葉城に、﹃太白山人﹄は太白山に由来している。 藩学の養賢堂で、国分松嶼︵しょうしょ︶に漢学を、落合直亮に国学を、岡鹿門︵千仞︶に漢詩を学んだ。 1878年︵明治11年︶、上京して司法省法学校に入った。その夏の関西旅行中、弊衣破帽のゆえに拘束される珍事があった。翌年、賄征伐︵調理場荒らし︶のいたずらがこじれ、原敬・陸羯南・福本日南・加藤恒忠らと共に退校した。退校仲間とは長く親しくした。 朝野新聞・第1次高知新聞の記者を勤めて後、1889年︵明治22年︶創刊の日本新聞に、陸羯南に招かれて参加した。日清戦争には、遼東半島に派遣された。日本新聞には、漢詩による時事評論﹃評林﹄を連載したが、痛烈な批判が当局を刺激し、日露戦争前、1903年︵明治36年︶11月の﹃檜可斬﹄︵檜斬るべし︶や翌月の﹃植物類﹄は、発禁の処分を受け、その後も度々なので、﹃会社の被った罰金を弁償する﹄と申し出たと言う[1]。 1890年︵明治23年︶、森槐南・本田種竹らと詩社﹃星﹄社を興した。三詩人と呼ばれた。 1906年︵明治39年︶、陸羯南が社長を辞した時、11人の社員と共に政教社へ移り、その﹃日本及日本人﹄誌で﹃評林﹄を続けた。 1923年︵大正12年︶、大東文化学院の創立と共に教授となった。﹃雅文会﹄・﹃詠社﹄・﹃興社﹄・﹃蘭社﹄・﹃樸社﹄・﹃竜社﹄などの詩社にかかわり、﹃昭和詩文﹄誌を主宰した。 1937年︵昭和12年︶、帝国芸術院会員に選ばれた。1930年︵昭和5年︶以来、政教社社長として﹃日本及日本人﹄誌を率いた五百木良三がこの年に没し、青崖が継ぎ、入江種矩主幹、雑賀博愛主筆と共に雑誌を続けた。戦時下の体制に迎合せざるを得なかった。 太平洋戦争︵大東亜戦争︶の敗色が深まる中で没した。享年87。墓は多磨霊園にある。共に眠る妻・国分操子︵1867-1942︶は松本藩士・江崎政国の娘で[2]、歌人・教育者だった[3]。孫に國分正胤。 青崖の詩作は三万首に及んだと想像されているが、詩集は、﹃評林﹄第一集の﹃詩董狐﹄しか出版しなかった。恬淡無欲な人柄だったと言われる。著書[編集]
●﹃詩董狐﹄︵評林第一集︶、明治書院︵1897︶ ●﹃青厓詩存20巻2冊﹄木下彪編、明徳出版社︵1975︶→ CD版﹃日本漢詩4明治・大正時代﹄、六一書房︵2009︶に収録伝記研究[編集]
●木下彪﹃国分青厓と明治大正昭和の漢詩界﹄、研文出版︵2019︶、町泉寿郎・解題脚注[編集]
(一)^ 長谷川如是閑‥﹃ある心の自叙伝﹄、講談社学術文庫︵1984︶p.343 (二)^ 江崎政忠﹃人事興信録﹄第8版 [昭和3(1928)年7月] (三)^ 国分操子 歴史が眠る多磨霊園出典[編集]
外部リンクの情報と- 木下彪:『国分青崖』(『新潮日本文学辞典 増補改訂』、新潮社(1988)p.486)
- 川崎宏:『国分青崖』(『日本近代文学大事典 机上版』、講談社(1984)p.587)
- 『芳野懐古』(角川書店:『日本漢詩鑑賞辞典』(1980)p.536)