國分正胤
國分 正胤︵国分、こくぶ まさたね、1913年︵大正2年︶7月21日[1][2] - 2004年︵平成16年︶7月7日[1][2]︶は、昭和から平成時代の土木工学者。国分青崖の孫。
経歴[編集]
東京府に生まれる[1]。旧制七年制高等学校の旧制東京高等学校を経て、1936年︵昭和11年︶に東京帝国大学工学部土木工学科を卒業し、東京府に出仕する[1][2]。1938年︵昭和13年︶から1945年︵昭和20年︶まで兵役に就く[1]。1943年︵昭和18年︶東京帝国大学助教授を経て、1950年︵昭和25年︶吉田徳次郎の後任として東京大学教授となり[1]、1974年︵昭和49年︶定年退官した[2]。同年、武蔵工業大学教授に転じ1984年︵昭和59年︶まで務め、ついで足利工業大学顧問教授となった[1]。 恩師の吉田徳次郎が逝去した翌年の1961年︵昭和36年︶に土木学会﹁吉田賞﹂を創設[1]。また、同年から1982年︵昭和57年︶まで同会コンクリート委員会委員長を20余年務めコンクリート標準示方書改訂に尽くした[1]。1962年︵昭和37年︶日本ACI︵現日本コンクリート工学会︶発起人に列し、1971年︵昭和46年︶アメリカコンクリート学会名誉会員を経て[1]、1979年︵昭和54年︶から1年間、土木学会第67代会長を務めた[2]。1991年︵平成3年︶﹁混和材料の複合がコンクリートのワーカビリティ・耐久性・強度に及ぼす影響に関する研究﹂で日本学士院賞を受賞した[1]。 ほか、1963年︵昭和38年︶から6年間、東京大学硬式野球部部長を務め、東京六大学野球連盟理事長を歴任した[3]。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 高橋裕、藤井肇男 共著『近代日本土木人物事典: 国土を築いた人々』鹿島出版会、2013年。ISBN 4306094294。