加藤恒忠
加藤 恒忠︵かとう つねただ、安政6年1月22日︵1859年2月24日︶ - 大正12年︵1923年︶3月26日︶は、日本の外交官、政治家。旧姓は大原。号は拓川。衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。三男忠三郎は阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツの養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。
人物[編集]
伊予国︵現・愛媛県松山市︶に伊予松山藩の儒者大原観山の三男として生まれる。父の死後、上京し、1876年︵明治9年︶給費の官吏養成所である司法省法学校︵現在の東京大学法学部︶に入学、フランス語とフランス法を学んだ。1879年1月廃絶していた縁戚の加藤家を興し加藤家戸主になった[1]。同年2月校長の方針に反対し退学、中江兆民の塾に入る。 1883年11月、フランス留学のため出国し、翌1884年1月、パリに到着。1886年、外務省に入りフランス在勤となる。1890年12月、パリを発ち、1891年2月に帰国する。外務省政務局を経て、1892年-1897年にフランス公使館書記、その後、大臣秘書官、人事課長、ベルギー公使などを務める。 1906年︵明治39年︶にジュネーヴで万国赤十字改正会議の全権代表になるが、伊藤博文と対立し、翌年に退職した。大阪新報社長兼主筆、大阪北浜銀行︵現UFJ銀行︶取締役となる。 1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に愛媛県松山市区より出馬して当選。衆議院議員を一期務める。1912年5月27日、貴族院勅選議員となり[2]、交友倶楽部に属し1923年3月27日まで在任[3]。1917年12月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[4]。1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議に参加。シベリア出兵後、1919年8月12日、特命全権大使となりシベリア派遣大使に就任し、錦鶏間祗候は消滅した[5]。1922年︵大正11年︶に第5代松山市長に就任し、松山高等商業学校︵現在の松山大学︶の設立に尽力した[6]。翌1923年、任期途中に食道がんで死去した。勲一等旭日大綬章が追贈された。墓所は松山市の相向寺︵現松山市拓川町︶にある。栄典[編集]
- 位階
- 1891年(明治24年)12月5日 - 正七位[7]
- 1892年(明治25年)11月14日 - 従六位[8]
- 1896年(明治29年)10月30日 - 正六位[9]
- 1898年(明治31年)12月22日 - 従五位[10]
- 1900年(明治33年)12月25日 - 正五位[11]
- 1906年(明治39年)1月31日 - 従四位[12]
- 1908年(明治41年)3月30日 - 正四位[13]
- 1923年(大正12年)3月27日 - 従三位[14]
- 勲章等
- 1898年(明治31年)4月6日 - 勲五等双光旭日章[15]
- 1901年(明治34年)6月27日 - 勲四等瑞宝章[16]
- 1902年(明治35年)12月28日 - 旭日小綬章[17]
- 1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[18]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[19]
- 1916年(大正5年)4月1日 - 旭日重光章[20]
- 1919年(大正8年)12月25日 - 勲一等瑞宝章[21]
- 1923年(大正12年)3月27日 - 旭日大綬章[14]
- 外国勲章佩用允許
- 1888年(明治21年)7月7日 - ベルギー王国:レオポール勲章シュワリエー[22]
- 1892年(明治25年)11月8日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章シュヴァリエ[23]
- 1893年(明治26年)2月13日 - スペイン王国:イサベル・ラ・カトリカ勲章シュワリエ[24]
- 1901年(明治34年)
系譜[編集]
- 加藤家
正岡常尚 ┃ ┏正岡常規(正岡子規) ┣━━━┫ 加藤重孝━━大原有恒 ┃ ┗律 ┃ ┏八重 ┣━━┫ ┏十九郎 ┃ ┗加藤恒忠━✛六十郎 歌原松陽━━━━重 ┗正岡忠三郎 ┃ ┏正岡浩 ┣━━━┫ ┃ ┗正岡明 野上俊夫━━━あや
脚注[編集]
(一)^ ﹃ひとびとの跫音︵下︶﹄8頁に﹁加藤家はかつて松山藩の徒士であったが、江戸末期の弘化三年︵1846年︶に当時の当主の死︵嗣子なし︶によって廃絶しているために明治の族籍では平民であった。平民には士族還付金のようなうまいものはなかった﹂とある。
(二)^ ﹃官報﹄第8680号、明治45年5月28日。
(三)^ ﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、31頁。
(四)^ ﹃官報﹄第1613号、大正6年12月17日。
(五)^ ﹃官報﹄第2107号︵大正8年8月13日︶、﹃官報﹄第2111号︵大正8年8月18日︶。
(六)^ “三恩人”. 松山大学. 2020年12月22日閲覧。
(七)^ ﹃官報﹄第2532号﹁叙任及辞令﹂1891年12月7日。
(八)^ ﹃官報﹄第2816号﹁叙任及辞令﹂1892年11月15日。
(九)^ ﹃官報﹄第4004号﹁叙任及辞令﹂1896年10月31日。
(十)^ ﹃官報﹄第4646号﹁叙任及辞令﹂1898年12月23日。
(11)^ ﹃官報﹄第5247号﹁叙任及辞令﹂1900年12月26日。
(12)^ ﹃官報﹄第6774号﹁叙任及辞令﹂1906年2月1日。
(13)^ ﹃官報﹄第7425号﹁叙任及辞令﹂1908年3月31日。
(14)^ ab﹃官報﹄第3195号﹁叙任及辞令﹂1923年3月28日。
(15)^ ﹃官報﹄第4427号﹁叙任及辞令﹂1898年4月7日。
(16)^ ﹃官報﹄第5395号﹁叙任及辞令﹂1901年6月28日。
(17)^ ﹃官報﹄第5848号﹁叙任及辞令﹂1902年12月29日。
(18)^ ﹃官報﹄第6595号﹁叙任及辞令﹂1905年6月26日。
(19)^ ﹃官報﹄号外﹁叙任及辞令﹂1907年3月31日。
(20)^ ﹃官報﹄第1218号﹁叙任及辞令﹂1916年8月21日。
(21)^ ﹃官報﹄第2220号﹁叙任及辞令﹂1919年12月26日。
(22)^ ﹃官報﹄第1508号﹁叙任及辞令﹂1888年7月10日。
(23)^ ﹃官報﹄第2818号﹁叙任及辞令﹂1892年11月17日。
(24)^ ﹃官報﹄第2886号﹁叙任及辞令﹂1893年2月15日。
(25)^ ab﹃官報﹄第5488号﹁叙任及辞令﹂1901年10月16日。
(26)^ ﹃官報﹄第7200号﹁叙任及辞令﹂1907年7月1日。
(27)^ ﹃官報﹄第7012号﹁叙任及辞令﹂1906年11月12日。