在原安貞
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在原安貞 | |
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時代 | 平安時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
改名 | 安貞王→在原安貞 |
官位 | 正五位下・摂津守 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇 |
氏族 | 在原朝臣 |
父母 | 父:高岳親王 |
兄弟 | 善淵、安貞 |
子 | 載春 |
在原 安貞︵ありわら の やすさだ︶は、平安時代前期の貴族。平城天皇の孫。四品・高岳親王の子。官位は正五位下・摂津守。
経歴[編集]
薬子の変で父・高岳親王が皇太子を廃されると、兄・善淵と共に臣籍降下して在原朝臣姓を与えられる。 天安2年︵858年︶清和天皇の即位に伴い従五位下に叙爵。貞観3年︵861年︶大和権守に任官する。その後は、貞観4年︵862年︶6月に大宰権少弐、次いで翌貞観5年︵862年︶2月に大宰少弐に昇格し、貞観8年︵866年︶には従五位上・肥後守に叙任されるなど、清和朝中盤は九州地方の地方官を歴任した。 この間の貞観7年︵865年︶に父・高岳親王が唐の広州より海路天竺を目指し出発したものの、消息を絶っていた。貞観15年︵873年︶になって安貞は兄の善淵と共に、入唐後長期間消息がなく生死不明となっていた父・高岳親王の封邑の返却を上表するがこの時は許されなかった[1]。 陽成朝に入り、貞観19年︵877年︶摂津守に任ぜられる。元慶2年︵878年︶次侍従に補任され、元慶3年︵879年︶正月に正五位下に叙せられる。同年閏10月に再び父・高岳親王の封邑の返却を上表し、今度は許されている[2]。官歴[編集]
﹃日本三代実録﹄による。- 時期不詳:正六位上
- 天安2年(858年) 11月7日:従五位下
- 貞観3年(861年) 正月13日:大和権守
- 貞観4年(862年) 6月5日:大宰権少弐
- 貞観5年(863年) 2月10日:大宰少弐
- 貞観8年(866年) 正月7日:従五位上。11月29日:肥後守
- 貞観15年(863年) 11月14日:見前肥後守
- 貞観19年(877年) 正月:摂津守[3]
- 元慶2年(878年) 4月2日:次侍従。9月2日:摂津守(本官起之)
- 元慶3年(879年) 正月7日:正五位下