大野慶人
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大野 慶人︵おおの よしと、1938年︿昭和13年﹀7月15日 - 2020年︿令和2年﹀1月8日︶は、舞踏家、演出家、ダンスセラピスト、教育者。大野一雄の次男。1986年以降、大野一雄の全作品を演出している。
ソロ作品﹁花と鳥﹂︵2013年︶はヨーロッパ︵2014年︶ブラジル︵2015年︶中国 (2016年2017年)を巡演。
来歴[編集]
●1938年 東京都に生まれる。同年に父一雄は太平洋戦争に出征する。 ●1939年 北海道函館市に疎開。 ●1940年 千葉県勝浦市に疎開。 ●1945年 秋田県大館市釈迦内村へ疎開、終戦後に勝浦市に戻る。 ●1946年 父一雄が復員。初めて父の顔を知ることになる。神奈川県横浜市に転居。 ●1951年 関東学院中学校在学中に、父に師事してダンスを学び始める。 ●1956年 関東学院高等学校を卒業し、文化学院文学部に入学。 ●1959年 土方巽演出による三島由紀夫原作の﹁禁色﹂で少年役で暗黒舞踏の初舞台を踏む。以後、暗黒舞踏派の公演に出演する。 ●及川廣信のマイム・スタジオにて及川や安堂信也、大野一雄らに学ぶ。及川にクラシックバレエ、パントマイムを学び、後に及川らによるバレエ東京、アルトー館に参加する[1]。 ●1969年 新宿厚生年金会館にて初リサイタル﹁大野慶人DANCE EXPERIENCEの会﹂を開くが以後、舞台活動を中断。 ●1981年 大野一雄のカラカス・ニューヨーク公演に同道。 ●1982年 大野一雄のヨーロッパ公演に同道。1985年以降 [編集]
●1985年 銀座有楽町朝日ホールの舞踏フエスティバル'85 大野一雄舞踏公演﹁死海﹂にて大野一雄との共演でカムバック。リミニ、ジュネーヴで﹁死海﹂公演。三井クローズ・アップ・オブ・ジヤパンのプログラムとして、ジョイス劇場・ニューヨークにて公演。 ●1986年 オーストラリア・アデレード国際演劇祭に参加。 ●サンパウロ、ブエノスアイレス、パリ、ロンドン、ローマ等を巡演。 ●横浜・関内ホールにて﹁死海﹂を公演。 ●福島にて﹁死海﹂公演。 ●1987年 マドリッド演劇祭に参加。 ●シュトゥットガルト世界演劇祭にて、大野一雄舞踏公演﹁睡蓮﹂を演出および共演。 ●銀座セゾン劇場の土方巽追悼公演企画にて﹁睡蓮﹂公演。 ●福島県檜枝岐国際フェスティバルに参加。 ●1988年 ニューヨーク国際芸術フェスティバルにて﹁睡蓮﹂公演。 ●東京国際演劇祭参加作品・大野一雄舞踏公演﹁蟲びらき﹂を演出および共演。 ●池袋西武スタジオ200にて公演。 ●牛窓国際芸術祭で﹁死海﹂公演。 ●1989年 ローマ日本文化会館にて独舞公演。 ●ブダペスト・IMMTフェスティバル、ベルギー・ユーロパリア'89、メキシコ・セルバンティーノフェスティバル参加。 ●イタリアのバーリ、シチリア島、西ベルリンにて公演。 ●1998年 郡司正勝の遺稿を基に、自身のソロ作品﹁ドリアン・グレイの最後の肖像﹂を上演。 ●2010年﹁たしかな朝﹂ヴッパタール舞踊団所属のダンサー︵Julie Anne Stanzas Eddie Martinez︶ との共演 ●2020年1月8日、敗血症のため死去[2]。81歳没。著書[編集]
●﹃大野一雄 魂の糧﹄︵フィルムアート社刊、1999年︶ISBN 978-4845999972 ●﹃花と鳥 舞踏という生き方﹄︵かんた、2006年︶写真集[編集]
●﹃土方巽原作﹁病める舞姫﹂東北歌舞伎計画秋田公演︵写真・谷口雅彦︶﹄NPO土方巽秋田舞踏会 アートディレクション:宮古美智代 2018年脚注[編集]
- ^ Yukihiko Yoshida, trans. Bruce Barid, "Oikawa Hironobu: bringing Decroux and Artaud into Japanese dance practices", The Routledge Companion to Butoh Performance, Routledge, 2018
- ^ “大野慶人が敗血症のため81歳で死去”. ステージナタリー (2020年1月9日). 2020年1月9日閲覧。
関連人物[編集]
外部リンク[編集]
- 大野一雄舞踏研究所公式ウェブサイト
- 舞踏家、大野慶人の稽古場 - artissue - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)