大須観音
大須観音 | |
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本堂 (2021年(令和4年)5月) | |
所在地 | 愛知県名古屋市中区大須2丁目21-47 |
位置 | 北緯35度9分35.13秒 東経136度53分58.23秒 / 北緯35.1597583度 東経136.8995083度座標: 北緯35度9分35.13秒 東経136度53分58.23秒 / 北緯35.1597583度 東経136.8995083度 |
山号 | 北野山 |
院号 | 寶生院 |
宗派 | 真言宗智山派 |
寺格 | 別格本山 |
本尊 | 聖観音 |
創建年 | 元弘3年(1333年) |
開山 | 能信 |
正式名 | 北野山 真福寺 寶生院 |
札所等 |
尾張三十三観音第1番 東海三十六不動尊第10番 尾張八十八か所第21番 名古屋21大師霊場第1番 大名古屋十二支(主管寺) なごや七福神(布袋尊) |
文化財 |
真福寺文庫 〔古事記写本ほか(国宝)、絹本著色仏涅槃図ほか(重要文化財)〕 |
公式サイト | 大須観音 |
法人番号 | 8180005000334 |
大須観音︵おおすかんのん︶は、愛知県名古屋市中区大須にある真言宗智山派の別格本山の寺院。山号は北野山。本尊は聖観音。寺号は北野山真福寺宝生院である。宗教法人としての公称は﹁宝生院﹂︵ほうしょういん︶だが、一般には﹁大須観音﹂の名で知られる。日本三大観音の1つともいわれる観音霊場。なごや七福神の一である布袋像を安置する。寺内に、﹃古事記﹄の最古写本をはじめとする貴重書を多数蔵する﹁真福寺文庫﹂がある。
歴史[編集]
そもそもは建久年間︵1190年 - 1199年︶に建立された尾張国中島郡長庄大須︵現・岐阜県羽島市桑原町大須︶にあった中島観音が発祥であるという[1]。 元亨4年︵1324年︶に後醍醐天皇によりその地に北野天満宮が創建される。元弘3年︵1333年︶に同社の別当寺として僧能信が創建した真福寺とその塔頭宝生院が当寺の始まりである。そして、摂津国四天王寺の観世音菩薩を移して本尊としたとする[WEB 1]。その後、後村上天皇により伽藍が建立され、勅願寺となっている。 3代目住職である任瑜法親王の時には寺領1万石となり、伊勢・美濃・尾張・三河・遠江・信濃6か国の真言宗寺院を末寺としている[WEB 1]。 戦国時代には、織田信長により寺領500石が寄進されている[WEB 1]。 慶長17年︵1612年︶、徳川家康の命令で犬山城主の成瀬正成によって宝生院は本尊や真福寺文庫と共に大須郷から現在地に移転する。 文化12年︵1815年︶には五重塔が建立され、空海が彫った愛染明王像が五重塔内に安置された。1892年︵明治25年︶3月21日には、境内にあった宝生座︵芝居小屋︶裏手からの出火︵大須の大火︶により本堂、五重塔と仁王門を焼失[WEB 2][WEB 3]した。同年4月には大須の大火で焼失した本堂、五重塔、仁王門を再建する為、﹁再建寄附金帳﹂という帳が書かれた。帳の内容には再建のために本堂、五重塔、仁王門の建地割図︵設計図︶が描かれ、本堂、五重塔、仁王門に関する再建内容が5丁で記されていた。大須大火後に本堂と仁王門は再建されたが、五重塔は再建されなかった。 太平洋戦争中の1945年︵昭和20年︶3月19日の名古屋大空襲で2度目の焼失。戦後の1949年︵昭和24年︶に仮の本堂と仁王門が建てられ、大須の人達や関係者から大須のシンボルである大須観音の早期の正式な本堂の再建が期待された。しかし、資金難で再建が大幅に遅れ、1970年︵昭和45年︶に鉄筋コンクリートで再建し現在に至る。また、当初の再建計画では回廊や五重塔も建設予定であったが、建設資金として当てにしていた浄財がなかなか集まらず、建設は中止された。以後、五重塔などの再建は現在にいたるまで立ち消えた状態である。 戦前まで大須観音以上に大須で大いに栄えて賑わっていた寺は、七堂伽藍で有名であった七寺であった。大須観音も七寺も空襲で焼失するが、戦後、七寺の七堂伽藍は再建の期待はあったものの再建されることはなく、現在では大須観音が栄え、大須のシンボル的な寺院となっている。開山能信上人[編集]
開山能信上人︵以下、能信︶は諱を能信、字を浄水、性は桜井にして、正応4年︵1291年︶に伊勢国鈴鹿郡関の郷井後︵現・亀山市井尻町の付近[2]︶で誕生する[3]。正和元年︵1312年︶、癡兀大慧︵仏通禅師︶の入寂に際して禅学と密教の書籍を全て譲り受ける[4]。文保2年︵1318年︶、慈恩院の実清阿闍梨に随って落飾する。嘉暦元年︵1326年︶、安養寺の寂雲に法求す[3]。元弘元年、元徳3年︵1331年︶、後醍醐天皇が能信に帰依する。元弘3年︵1333年︶、後醍醐天皇より北野天満宮別当職を拝し真福寺の開山をなす。正平10年︵1355年︶10月25日、能信が入寂せられる[1]。貫主歴代[編集]
境内[編集]
文化財[編集]
真福寺文庫︵大須文庫︶ - 大須観音にある文庫︵図書館︶。醍醐寺、根来寺と共に日本三経蔵の1つ。あるいは仁和寺、根来寺と共に本朝三文庫の1つと称される。15,000冊もの古典籍を所蔵。書誌学の世界では真福寺本の名称で呼ばれていて、別名では大須本という。国宝の﹃古事記﹄は﹁真福寺本古事記﹂として知られている。同書の現存最古の写本である。
国宝[編集]
●古事記 賢瑜筆3帖 ●漢書食貨志 第四1巻 ●琱玉集︵ちょうぎょくしゅう︶巻第十二、第十四 天平十九年書写奥書2巻 ●翰林学士詩集1巻重要文化財[編集]
典拠‥2000年︵平成12年︶までに指定の国宝・重要文化財については、﹃国宝・重要文化財大全 別巻﹄︵所有者別総合目録・名称総索引・統計資料︶︵毎日新聞社、2000年︶による。
●絹本著色仏涅槃図
●将門記残巻 承徳三年書写奥書1巻
●尾張国解文︵げぶみ︶残巻1巻
●七大寺年表 永万元年書写奥書2巻
●日本霊異記 巻中下2巻
●口遊︵くちずさみ︶ 弘長三年書写奥書1冊
●倭名類聚抄︵抄本︶ 弘安六年円朝書写奥書1冊
●空也誄︵くうやるい︶1巻
●扶桑略記2帖
●古事記上巻抄1巻
●宋刊本 玉篇1冊
●宋刊本 新雕雙金1冊
●宋刊本 大宋僧史略1冊
●宋刊本 広韻 上声1冊
●宋刊本 礼部韻略3冊
●宋刊本 紹聖新添周易神殺暦等残巻1巻[注釈 1]
●本朝文粋︵一括指定︶
●本朝文粋 巻第十二、十四 弘安三年書写並びに正応元年伝授奥書2巻
●本朝文粋 巻第十四 建保五年貞円書写奥書1冊
●熊野三山関連資料︵一括指定︶
●熊野三所権現御記文1巻
●熊野権現蔵王殿造功日記2巻
●熊野三所権現金峯金剛蔵王降下御事1巻
●熊野王子眷属1巻
●往生伝︵一括指定︶
●続本朝往生伝 建長五年乗忍書写奥書1帖
●拾遺往生伝3帖
●後拾遺往生伝 正嘉二年乗智書写奥書3帖
●三外往生記 正嘉二年乗忍書写奥書1帖
●本朝新修往生伝 正嘉二年乗智書写奥書1帖
●往生浄土伝 建長六年乗忍書写奥書3帖
●法花経伝 巻三・四、巻五・六、巻七・八 建長八年乗忍書写奥書3帖
●弘法大師伝記類︵一括指定︶
●弘法大師伝 元暦元年書写奥書2巻
●弘法大師伝 応安八年書写奥書1冊
●弘法大師伝記 貞和二年書写奥書1巻
●弘法大師行化記 貞和二年書写奥書1巻
●高野大師伝1帖
●弘法大師御入定勘決記 貞治三年深恵書写奥書2帖
●弘法大師御入定勘決抄 承安三年書写奥書1冊
●高野口決 貞治六年書写奥書1巻
愛知県指定有形文化財[編集]
●﹁因明三十三過記﹂紙背文書24通 - 鎌倉時代前期。名古屋市指定有形文化財[編集]
●宝生院開山塔[WEB 4] ●宝生院中興開山印雅上人逆修塔[WEB 4]その他[編集]
●算額‥文化12年︵1815年︶4月 - 三矢金左衛門藤楢奉納︵復元︶収蔵札所[編集]
●尾張三十三観音第1番 ●東海三十六不動尊第10番 ●尾張八十八か所第21番 ●名古屋21大師霊場第1番 ●大名古屋十二支︵主管寺︶ ●なごや七福神︵布袋尊︶所在地[編集]
●愛知県名古屋市中区大須2-21-47交通手段[編集]
●名古屋市営地下鉄鶴舞線 大須観音駅下車、徒歩ですぐ。 ●名古屋市営バス中巡回系統 大須観音停留所下車、徒歩ですぐ。 ●名古屋市営バス名駅18系統 大須停留所下車、徒歩。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 書名の「殺」は本来は「煞」(UnicodeはU+715E)。ここでは重要文化財指定名称にしたがう。
出典[編集]
WEB[編集]
文献[編集]
- ^ a b 鈴木快聖・編 1954, p. 62.
- ^ 亀山市教育委員会 1994, p. 4.
- ^ a b 鈴木快聖・編 1954, p. 12.
- ^ 鈴木快聖・編 1954, p. 11.
参考文献[編集]
●﹃尾張名所図会﹄ 第一巻 大須 真福寺、1844年 ●鈴木快聖・編 編﹃大須観音真福寺略史﹄浜島書店、名古屋、1954年5月5日。 NCID BN11426983。OCLC 673621887。全国書誌番号:54012320。 ●亀山市教育委員会﹁糀屋垣内遺跡﹂﹃三重県埋蔵文化財報告100-3﹄三重県埋蔵文化センター、1994年。 ●名古屋市博物館、真福寺大須文庫調査研究会﹃大須観音 いま開かれる、奇跡の文庫﹄大須観音宝生院、名古屋、2012年11月30日。外部リンク[編集]
- 大須観音
- 大須歳時記
- 明治時代の名古屋「大須観音」 - Network2010
- 日本大百科全書(ニッポニカ)『大須観音』 - コトバンク