太宰義人
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太宰義人 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 宮城県 |
生年月日 | 2007年3月19日(61歳没) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 |
栗東・中村好夫(1972 - 1982) 栗東・フリー(1982 - 1983) |
初免許年 | 1972年3月4日 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1983年2月19日 |
重賞勝利 | 2勝 |
通算勝利 | 834戦80勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1983年(1985年開業) |
経歴 | |
所属 | 栗東T.C. |
太宰 義人︵だざい よしひと、1945年6月29日 - 2007年3月19日︶は、宮城県出身の元騎手・元調教師。
騎手の太宰啓介は次男。
略歴[編集]
麻布獣医大学卒業後の1972年、栗東・中村好夫厩舎からデビュー。中央競馬史上数人の大卒騎手の一人であり、太宰は史上初で話題となる。他に大卒で騎手経験を持つ者には、大久保正陽︵立命館大学卒︶[1]、山内研二︵大阪工業大学卒︶、橋口弘次郎︵九州産業大学卒︶[2]、川合達彦︵立命館大卒︶[3]がいる[4]。 3月4日の阪神第10競走5歳以上300万下・トクミドリ︵9頭中7着︶で初騎乗を果たし、6月10日の函館第1競走3歳新馬・タカヨシタイホウで初勝利を挙げる。同馬では2連勝で函館3歳ステークスも制し、デビュー4ヶ月での重賞制覇を達成。函館で重賞勝ちも含む3勝を挙げ、1年目の同年は7勝をマーク。 2年目の1973年は阪神5勝、函館2勝で前年と同じ7勝をマークし、3年目の1974年は障害2勝を含めて自己最多の9勝を挙げ、1976年からは平地での騎乗に専念。 ペースがよく分からなかった[5]時は事あるごとに福永洋一の位置を参考にしてレースをし、成績が上昇[6]。 1980年には鳴尾記念でツキマサルに騎乗し、ヤマニンバリメラ・バンブトンコート・ハシコトブキ・リュウキコウに先着すると同時にリンドプルバンとアタマ差の2着に入る。 フリーとなった1982年には阪神4歳牝馬特別をツキマリーで制して10年ぶりの重賞制覇を挙げ、本番の桜花賞ではリーゼングロスの4着に入るが、同年11月27日の中京第11競走蒲郡特別・ラッキーウルフが最後の勝利となる。 1983年2月19日の京都第11競走斑鳩特別・ツキマサル︵15頭中14着︶が最後の騎乗となり、調教師免許を取得した同年限りで現役を引退。 引退後は1985年に厩舎を開業し、9月7日の阪神第5競走3歳新馬・モガミスーパー︵13頭中8着︶で初出走を果たす。1年目の同年は2着3回と勝利には届かず、2年目の1986年1月26日の京都第5競走障害4歳以上未勝利・ヤマノプルタスで初勝利を挙げる。1986年はヤマノスキーを宝塚記念に送り出してGI初出走を果たすと、秋は朝日チャレンジカップでドウカンヤシマ・ライフタテヤマ、京都大賞典ではスズカコバンの3着に入る。1989年からは弟子の小池隆生がデビューし、同年から1991年にかけてはエイシンウイザードが重賞戦線で活躍。1989年の桜花賞では5着に入り、1990年の阪神牝馬特別ではメインキャスターのクビ差2着、1991年は中山牝馬ステークスでユキノサンライズの2着、スワンステークスではケイエスミラクル・ダイイチルビーの3着と健闘。1996年にはオープニングテーマが朝日杯3歳ステークスでマイネルマックスの2着に入り、1997年の中日スポーツ賞4歳ステークスで唯一の重賞制覇を飾る。1998年には次男の啓介がデビューし、2000年にはエイシンサンルイスがダート短距離重賞戦線で活躍。2006年にはニシノマオが小倉2歳ステークス2着・フェアリーステークス3着に入るなど晩年まで安定して活躍馬を送り出すが、2007年3月17日の中京第6競走4歳以上500万下・ダイゴカムイが最後の勝利、翌18日の阪神第6競走3歳新馬・カノープス︵15頭中5着︶が最後の出走となり、共に騎乗は啓介であった。 2007年3月19日午前5時45分、病気のため、入院先であった滋賀県東近江市の国立滋賀病院で死去。享年61歳[7]。通夜は翌20日午後6時から、告別式は社団法人日本調教師会葬として21日午後1時30分から、いずれも栗東トレセン厚生会館分館で行われた。葬儀委員長は日本調教師会会長であった中村均、喪主は啓介が務めた。管理馬は全馬、野村彰彦厩舎に移籍となった[8]。成績[編集]
騎手成績‥通算834戦80勝 主な騎乗馬 ●タカヨシタイホウ︵1972年函館3歳ステークス︶ ●ツキマリー︵1982年阪神4歳牝馬特別︶ 調教師成績‥通算328勝 主な管理馬 ●オープニングテーマ︵1997年中日スポーツ賞4歳ステークス︶主な厩舎所属者[編集]
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。脚注[編集]
(一)^ 大久保の場合、デビュー後に立命館大学法学部に入学し、夜に通学しながら騎乗を続ける生活を両立させ、学士号を取得している。
(二)^ 地方競馬で騎手活動をした後に中央で調教師となった。
(三)^ 現役時代末期に騎手を続けながら卒業し、卒業翌年に引退した。
(四)^ 現在、中央の競馬学校と地方の教養センターは共に入学上限を20歳以下︵中央は未満︶としているため、日本国外での騎手経験を経るか、現役中に大学に進学して卒業、年齢や経歴に関係なく受験できる地方競馬騎手試験︵通称﹁一発試験﹂︶に合格しない限りは、大卒で騎手になることはできない。
(五)^ 稲垣茂﹃ダメな調教師、ダメな騎手﹄青林堂、2018年11月20日、ISBN 4792606373、p45。
(六)^ ﹃ダメな調教師、ダメな騎手﹄、p46。
(七)^ 太宰義人調教師が死去 - 競馬ニュース - netkeiba.com
(八)^ 太宰義人調教師、死去 | ニュース | 競馬ブック
(九)^ 騎手引退後に移籍した。川合も太宰と同じく大学卒業の騎手であった。