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1
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1.1
紀州藩での儒学教育の開始
1.2
講堂
1.3
城内・評定所での講釈
1.4
学習館
1.5
学習館文武場
2
関連項目
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この項目では、
紀州藩
の
藩校
について説明しています。
佐土原藩
の藩校については「
宮崎市立佐土原小学校
」をご覧ください。
学
習
館
︵
が
く
し
ゅ
う
か
ん
︶
は
、
江
戸
時
代
後
期
に
紀
伊
国
紀
州
藩
に
設
け
ら
れ
た
藩
校
。
現
存
は
し
て
お
ら
ず
、
株
式
会
社
世
界
一
統
和
歌
山
本
社
の
敷
地
内
に
碑
が
建
て
ら
れ
て
い
る
。
沿
革
[
編
集
]
紀
州
藩
で
の
儒
学
教
育
の
開
始
[
編
集
]
徳
川
頼
宣
が
登
用
し
た
那
波
活
所
に
よ
り
、
寛
永
12
年
︵
1
6
3
5
年
︶
以
降
に
は
紀
州
藩
で
の
家
臣
に
対
す
る
儒
学
教
育
が
始
ま
っ
て
い
る
。
し
か
し
、
好
学
者
が
儒
者
の
家
に
出
向
い
て
教
え
を
乞
う
と
い
う
形
式
で
あ
っ
た
。
講
堂
[
編
集
]
正
徳
3
年
︵
1
7
1
3
年
︶
、
徳
川
吉
宗
が
一
般
的
な
儒
学
振
興
の
た
め
に
湊
に
講
堂
を
開
設
し
た
。
仁
斎
学
者
・
蔭
山
東
門
や
朱
子
学
者
・
祇
園
南
海
が
講
義
を
行
い
、
庶
民
を
含
め
て
1
7
0
~
1
8
0
人
が
聴
衆
と
し
て
訪
れ
た
と
い
う
。
﹃
紀
州
政
事
草
﹄
や
﹃
紀
州
政
事
鏡
﹄
も
講
堂
に
つ
い
て
記
し
て
い
る
が
、
一
般
的
に
偽
書
と
さ
れ
内
容
に
信
頼
性
が
な
い
た
め
、
詳
細
は
不
明
で
あ
る
。
そ
の
後
、
講
堂
は
荒
廃
し
た
と
い
う
。
城
内
・
評
定
所
で
の
講
釈
[
編
集
]
安
永
5
年
︵
1
7
7
6
年
︶
、
徳
川
治
貞
は
藩
政
改
革
に
際
し
、
家
臣
団
に
思
想
的
統
制
を
行
う
た
め
に
和
歌
山
城
内
と
評
定
所
で
の
学
問
講
釈
を
触
れ
出
し
、
仁
斎
学
者
・
伊
藤
蘭
嵎
や
朱
子
学
者
・
祇
園
餐
霞
な
ど
の
講
釈
日
割
を
定
め
た
。
学
問
に
精
進
し
た
者
に
は
褒
美
が
下
さ
れ
る
よ
う
に
な
っ
て
い
た
が
、
天
明
の
大
飢
饉
に
よ
り
治
貞
の
藩
政
改
革
は
挫
折
し
、
講
堂
の
復
興
は
な
ら
な
か
っ
た
。
学
習
館
[
編
集
]
寛
政
2
年
︵
1
7
9
0
年
︶
、
徳
川
治
寶
は
藩
政
改
革
の
一
環
と
し
て
、
湊
の
講
堂
の
増
改
築
に
着
手
し
、
翌
寛
政
3
年
︵
1
7
9
1
年
︶
に
完
成
し
学
習
館
に
改
名
し
た
。
試
験
は
こ
の
頃
か
ら
始
ま
っ
た
ら
し
い
が
、
詳
細
は
不
明
で
あ
る
。
寛
政
4
年
︵
1
7
9
2
年
︶
、
国
学
者
・
本
居
宣
長
が
登
用
さ
れ
、
以
後
も
宣
長
の
子
孫
に
は
禄
が
与
え
ら
れ
て
講
釈
が
行
わ
れ
た
。
し
か
し
、
そ
れ
は
御
前
講
義
に
す
ぎ
な
か
っ
た
。
寛
政
5
年
︵
1
7
9
3
年
︶
、
学
習
館
規
則
を
定
め
、
藩
学
を
朱
子
学
を
含
ん
だ
広
い
定
義
の
宋
学
に
決
定
し
た
。
実
際
、
学
習
館
に
は
力
の
あ
る
朱
子
学
者
は
呼
ば
れ
ず
、
徂
徠
学
者
・
菊
池
衝
岳
や
折
衷
学
者
・
山
本
東
籬
、
折
衷
学
者
・
仁
井
田
南
陽
ら
が
重
用
さ
れ
た
。
同
年
、
江
戸
に
明
教
館
が
開
設
さ
れ
た
。
享
和
3
年
︵
1
8
0
3
年
︶
、
学
習
館
の
試
験
規
則
を
改
定
し
、
学
問
御
試
規
則
を
制
定
し
た
。
無
役
の
下
級
家
臣
を
成
績
次
第
で
役
付
に
す
る
こ
と
な
ど
が
定
め
ら
れ
て
お
り
、
家
臣
に
対
す
る
儒
学
奨
励
と
思
想
統
制
が
目
的
で
あ
っ
た
。
文
化
元
年
︵
1
8
0
4
年
︶
、
伊
勢
国
松
坂
に
松
坂
学
問
所
を
開
設
し
た
。
学
習
館
文
武
場
[
編
集
]
安
政
3
年
︵
1
8
5
6
年
︶
、
海
防
強
化
の
た
め
に
和
歌
山
城
の
南
隣
に
岡
山
文
武
場
が
開
設
さ
れ
た
。
慶
応
2
年
︵
1
8
6
6
年
︶
、
徳
川
茂
承
が
行
っ
た
軍
制
改
革
に
伴
い
藩
校
改
革
も
行
わ
れ
、
学
習
館
を
岡
山
文
武
場
へ
移
転
さ
せ
て
全
体
を
学
習
館
文
武
場
と
称
し
た
。
修
業
年
齢
を
従
来
の
30
歳
か
ら
50
歳
へ
引
き
上
げ
る
な
ど
を
行
っ
た
た
め
、
2
0
0
~
6
0
0
人
だ
っ
た
生
徒
数
が
数
倍
に
な
っ
た
と
い
う
。
ま
た
、
特
筆
す
べ
き
点
は
漢
文
の
素
読
試
験
に
限
り
、
百
姓
や
町
人
も
参
加
で
き
る
よ
う
に
な
っ
た
こ
と
で
あ
る
。
関連項目
[
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紀州藩
藩校
医学館
明教館
松坂学問所
徳川頼宣
徳川吉宗
徳川治貞
徳川治寶
徳川茂承
この項目は、
日本の歴史
に関連した
書きかけの項目
です。
この項目を加筆・訂正
などしてくださる
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(
P:日本
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P:歴史
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P:歴史学
/
PJ日本史
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