安東昌喬
生誕 | 1880年5月28日 |
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死没 | 1956年4月7日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1902年 - 1931年 |
最終階級 | 海軍中将 |
安東 昌喬︵あんどう まさたか、1880年︵明治13年︶5月28日 - 1956年︵昭和31年︶4月7日︶は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
経歴[編集]
岐阜県士族安東吉右衛門の五男として生れる。札幌中学校を経て、1900年12月、海軍兵学校︵28期︶を卒業し、1902年12月、海軍少尉任官。日露戦争では第15艇隊付として出征し、日本海海戦では﹁常磐﹂分隊長であった。砲術練習所で学んだ後、呉海兵団分隊長、﹁筑波﹂分隊長、﹁卯月﹂艦長、﹁日進﹂砲術長、呉鎮守府参謀などを経て、1911年5月、海軍大学校︵甲種9期︶を首席で卒業した。詳細は「海軍大学校卒業生一覧#甲種9期」を参照
イギリス駐在、﹁香取﹂砲術長、軍令部参謀、軍令部第1班第1課部員などを歴任。第一次世界大戦では、第2特務艦隊参謀として地中海に派遣され活動した。さらに海大教官、﹁霧島﹂艦長、第2艦隊参謀長などを経て、1924年12月、海軍少将に進級。軍令部参謀︵第2班長)を経て、霞ヶ浦海軍航空隊司令となり、将官という地位にありながら操縦技術を習得し陣頭指揮を行った[1]。なお当時の副長は山本五十六である。1928年12月、海軍中将となり、海軍航空本部長などを歴任。1931年12月、予備役に編入された。