安藤信昭
安藤信昭 あんどう のぶあき | |
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生年月日 | 1890年3月2日 |
出生地 | 東京府東京市 |
没年月日 | 1976年12月16日(86歳没) |
出身校 | 東京府立園芸学校 |
前職 | 宮内省侍従職 |
所属政党 | 研究会 |
貴族院議員 | |
選挙区 | 子爵議員 |
在任期間 | 1932年7月10日 - 1947年5月2日 |
安藤 信昭︵あんどう のぶあき、1890年︿明治23年﹀3月2日[1] - 1976年︿昭和51年﹀12月16日[1][2]︶は、日本の華族︵子爵︶。貴族院議員、旧磐城平藩主安藤家15代当主。旧姓名は有馬頼篤[1]。有馬頼寧は実兄[3]。
生涯[編集]
伯爵有馬頼万︵筑後久留米藩主家当主︶の二男[1][4]として東京に生まれる。 子爵安藤信篤︵磐城平藩主家当主︶の養子となり[1]、1915年︵大正4年︶6月、信篤が隠居し家督を相続し[1]、同年7月10日、子爵を襲爵した[1][5]。同年9月3日、皇族・閑院宮載仁親王の第1王女である恭子女王︵ゆきこじょおう︶と結婚した[6]。 1915年︵大正4年︶東京府立園芸学校︵現‥東京都立園芸高等学校︶を卒業[2]。1921年︵大正10年︶に侍従補となり[2]、以後、侍従や式部官を歴任[2][4]。昭和天皇の即位の礼に際して大礼使典儀官も務めた[2]。 1932年︵昭和7年︶7月10日に貴族院議員︵子爵議員︶となり[7]、研究会に所属して1947年︵昭和22年︶5月2日の貴族院廃止まで議員を務めた[2]。この間、内務省委員、内閣委員に在任した[2]。 また、日本赤十字社協賛員[4]、同社篤志看護婦会顧問[4]、横浜生命保険会社の取締役も務めている[2]。墓所は多磨霊園。プロ野球経営[編集]
実兄の有馬頼寧とともに、草創期の日本プロ野球に深く関わった[要出典]。1936年1月17日、有馬頼寧と協力し、旧・西武鉄道︵現在の西武鉄道とは別会社︶を運営母体としてプロ野球チームの東京セネタースを結成、頼寧がオーナー、信昭が理事長となる[要出典]。同年2月5日結成された社団法人日本職業野球連盟︵後の日本野球機構︶では、初代副総裁のひとりに就任している[注釈 1][要出典]。家系[編集]
父母 ●父‥有馬頼万 ●母‥豊子︵戸田忠友の娘︶[3] ●養父‥安藤信篤 兄弟姉妹 ●異母姉‥禎子︵奥平昌恭夫人︶[3] ●異母兄‥有馬頼寧[3] ●同母弟‥松田正之︵松田正久継嗣︶[3] ●同母妹‥久米︵稲田昌植夫人︶[3] 妻 ●恭子︵ゆきこ、1896年-1992年。閑院宮載仁親王長女︶[1] 子女 ﹃平成新修旧華族家系大成 上巻﹄は、実子3男4女を載せる[1]。長男・信敬︵のぶゆき、1917年 - 1936年︶は早世しており[1]、二男・信和[1]が霞会館︵旧華族会館︶の会員となっている[要出典]。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
●人事興信所﹃人事興信録﹄︵8版︶人事興信所、1928年。 ●貴族院事務局﹃貴族院要覧︵丙︶﹄︵昭和21年12月増訂︶貴族院事務局、1947年。doi:10.11501/1653722。 ●衆議院、参議院﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。 ●霞会館﹃平成新修旧華族家系大成﹄ 上巻、吉川弘文館、1996年。外部リンク[編集]
●安藤信昭 - 歴史が眠る多磨霊園日本の爵位 | ||
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先代 安藤信篤 |
子爵 (磐城平)安藤家第3代 1915年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |