富士谷成章
人物情報 | |
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生誕 |
元文3年??月??日(1738年??月??日) 日本・京都 |
死没 |
安永8年10月2日(1779年11月9日) 日本・京都 |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 富士谷鶴 |
両親 | 父:皆川成慶 |
子供 | 富士谷御杖 |
学問 | |
時代 | 江戸時代中期 |
学派 | 富士谷派 |
研究分野 | 国学 |
主な業績 |
網羅的な品詞分類 活用体系の整理 |
主要な作品 |
『挿頭抄』 『脚結抄』 |
影響を受けた人物 |
皆川淇園 有栖川宮職仁親王 |
影響を与えた人物 | 山田孝雄 |
主な受賞歴 | 贈正五位 |
富士谷 成章︵ふじたに なりあきら、元文3年︵1738年︶ - 安永8年10月2日︵1779年11月9日︶︶は、江戸時代中期の国学者[1]。 通称は専︵千︶右衛門。字は仲達。号は咸章、北辺。
人物[編集]
元文3年︵1738年︶に皆川成慶︵春洞︶の次男として京都に生まれる。幼少の頃より異才ぶりを発揮する[注 1]。宝暦7年︵1757年︶柳河藩京都留守居富士谷家の養子となる[注 2]。 漢学は兄の皆川淇園に学ぶ。国学に転じた後も、兄の漢学に対しては深い理解を示し、漢学者たちとも交流した[注 3]。 和歌は有栖川宮職仁親王に学び、詠歌においても卓越した才能を発揮した[2]。歌集に﹃北辺成章家集﹄、詩集に﹃吟候社詩稿﹄がある。特に和歌の変遷を示した著書﹃六運略図﹄、﹃北辺七体七百首﹄は、成章の死後に本居宣長に賞賛された[注 4]。 安永8年に死去。上品蓮台寺に葬られた[2]。昭和3年︵1928年︶、正五位を追贈された[3]。業績[編集]
国語学者として日本語の品詞分類に功績を残した。成章は言葉を人体に見立て、意味の上から﹁名﹂=名詞、﹁装︵よそひ︶﹂=動詞・形容詞などの用言、﹁挿頭︵かざし︶﹂=副詞・接続詞・感動詞、﹁脚結︵あゆひ︶﹂=助動詞・助詞の4種に分類している[1][4]。ここには漢学の影響も指摘されるが、成章の独自性によるところが大きい[4]。 この4種のうち、﹁挿頭﹂と﹁脚結﹂を焦点に解説した語学書が、﹃挿頭抄﹄︵かざししょう、明和4年︿1769年﹀︶と﹃脚結抄﹄︵あゆひしょう、安永8年︿1779年﹀︶である。これらは文法研究における画期的な成果であり、明治以降において山田孝雄などの国語学者に多大な影響を与えた[5]。 ﹃挿頭抄﹄は3巻からなり、書名の通り﹁挿頭﹂を焦点に俗語訳と証歌を示しながら、語義や用法などを詳説する[4]。収録語は五十音順に掲載されており、いわゆる歌語辞典の性格を強く帯びている[4]。 ﹃脚結抄﹄は5巻6冊からなり、書名の通り﹁脚結﹂を焦点に俗語訳と証歌を示しながら、語法や活用について詳説する[4]。収録語は意味や接続、活用の有無から﹁属﹂﹁家﹂﹁倫﹂﹁身﹂﹁隊﹂に分類され、それに準じて排列されている[4]。巻頭の﹁おほむね﹂には用言の分類と活用体系のほか[4]、本居春庭﹃詞八衢﹄に先立つ活用表﹁装図﹂が掲載されている[6]。 成章の学問は長男の富士谷御杖が継承した。著作[編集]
- 『挿頭抄』(1769年)
- 『脚結抄』(1778年)
- 『北辺成章家』
- 『吟候社詩稿』