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小口 忠太︵おぐち ちゅうた、1875年1月6日 - 1945年7月23日︶は、日本の医師、医学者。
長野県小県郡上田町︵現上田市︶生まれ。1889年︵明治22年︶長谷川泰の済生学舎︵のちの日本医学校、日本医学専門学校を経て日本医科大学︶に入門し、3年で医師免状を下付された。さらに東京帝国大学の選科生として河本重次郎に学び、修了後は軍医として1894年︵明治27年︶には日清戦争、1905年︵明治38年︶には日露戦争に従軍。陸軍軍医学校教官、陸軍医務局御用掛となる。
その後は東京第一衛戍病院に勤務。その間、﹁小口病﹂として学会に認められた特異な眼病患の最初の研究が成された。南満医学堂︵満洲医科大学︶教授となり、色盲、トラコーマの研究で名声を高めた。
1919年︵大正8年︶愛知県立医学専門学校︵現名古屋大学医学部︶に教授として招かれ、旧制愛知医科大学に改組後には学長を務めた他、国際眼科学会理事などを歴任した。1933年︵昭和8年︶日本学士院賞受賞。
小口病[編集]
1907年、小口によって報告された先天停止性夜盲の一型。常染色体劣性遺伝を呈する。先天停止性夜盲と言われるように、他の障害を伴わない夜盲が症状である。夜間でも十分な明かりのある現代社会では、気づかずに生活していることもしばしばある。特徴ははげた金箔様などといわれる特徴的な眼底の色調。これは3-4時間の暗順応にて正常の色調に戻る。この現象は水尾―中村現象と呼ばれている。
●﹁戦役衛生史眼損傷篇﹂
●﹃近世眼科屈折篇﹄半田屋医籍、1910年。
●﹃最新色盲検査表﹄半田屋出版部、1934年。
主要論文[編集]
●小口忠太、﹁涙小管菌石の1症例について﹂ 日眼会誌 7, 505-519, 1903, NAID 10016369381
●小口忠太、﹁夜盲症ノ一種ニ就テ﹂ 日眼会誌 11, 123-134, 1907, NAID 10029689388
●小口忠太、﹁色盲及其の検査法に就いて (付、予の色神検査表)﹂ 日眼会誌 14, 790, 1911, NAID 10015586399
参考文献[編集]
●栗屋忍 ﹃日本眼科の歴史 明治編﹄日本眼科学会、1997年。
●須田哲造﹃日本眼科を支えた明治の人々﹄日本眼科学会、1997年。
名古屋大学総長(愛知医科大学長:1926年 - 1927年) |
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名古屋帝国大学総長 |
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名古屋大学総長 ※1949-1992学長 |
- 第2代 田村春吉 1947-1949
- 事務取扱 生源寺順 1949
- 第3代 勝沼精蔵 1949-1959
- 第4代 松坂佐一 1959-1963
- 第5代 篠原卯吉 1963-1969
- 事務取扱/第6代 芦田淳 1969/1969-1975
- 第7代 石塚直隆 1975-1981
- 第8代 飯島宗一 1981-1987
- 第9代 早川幸男 1987-1992
- 事務取扱 松尾稔 1992
- 第10代 加藤延夫 1992-1998
- 第11代 松尾稔 1998-2004
- 第12代 平野眞一 2004-2009
- 第13代 濵口道成 2009-2015
- 第14代 松尾清一 2015-2022
- 第15代 杉山直 2022-
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前身諸学校・大学長 |
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- 水野敏雄 1945-1946
- 事務取扱/校長 松原益太 1946/1946-1952
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| 名古屋医科大学長 |
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愛知県立医学専門学校長 |
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愛知医科大学長 |
- 山崎正董 1920-1926
- 小口忠太 1926-1927
- 学長/事務取扱 藤井静英 1927-1931/1931-1932
- 事務取扱 田村春吉 1932-1933
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名古屋医科大学長 |
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