岐阜高島屋
岐阜髙島屋 Gifu Takashimaya | |
---|---|
金華橋通りから見た岐阜髙島屋(2020年4月) | |
地図 | |
店舗概要 | |
所在地 |
〒500-8525 岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目25番地[1] |
座標 | 北緯35度25分6.4秒 東経136度45分27.6秒 / 北緯35.418444度 東経136.757667度座標: 北緯35度25分6.4秒 東経136度45分27.6秒 / 北緯35.418444度 東経136.757667度 |
開業日 | 1977年(昭和52年)9月23日[2] |
建物名称 | 平和ビル[3] |
土地所有者 |
株式会社平和ビル(敷地4,120m2のうち955.53 m2) など[3] |
施設所有者 | 株式会社平和ビル[3] |
施設管理者 | 髙島屋ファシリティーズ[広報 1] |
敷地面積 | 4,120 m²[3] |
建築面積 | 3,112 m²[3] (建蔽率76%) |
延床面積 | 35,850 m²[3] |
商業施設面積 |
16,870 m2[2] ↓ 26,117 m²[広報 2] |
営業時間 | 10:00 - 19:00 |
商圏人口 | 100万人(開業当時[1]) |
最寄駅 | 岐阜駅・名鉄岐阜駅 |
最寄バス停 |
岐阜バス 柳ヶ瀬、金華橋通り柳ヶ瀬 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 |
日本 〒500-8525 岐阜県岐阜市日ノ出町2丁目25番地 北緯35度25分6.4秒 東経136度45分27.6秒 / 北緯35.418444度 東経136.757667度 |
設立 | 1974年(昭和49年)8月28日 |
業種 | 小売業 |
法人番号 | 7200001006713 |
事業内容 | 百貨店事業 |
代表者 | 𣘺本逸郎(代表取締役) |
資本金 | 5000万円(2023年2月期) |
売上高 | 61億9100万円(2023年2月期)[4] |
営業利益 | 8,800万円(2023年2月期) |
経常利益 | 9,300万円(2023年2月期) |
純利益 | △3,100万円(2023年2月期) |
純資産 | 19億9600万円(2023年2月期) |
総資産 | 64億9000万円(2023年2月期) |
従業員数 | 177人(2023年8月末時点) |
決算期 | 2月末日 |
主要株主 | 株式会社髙島屋100% |
外部リンク | 岐阜タカシマヤ |
特記事項:上記は『連結子会社における店舗の営業終了および同社の解散に関するお知らせ』[広報 2]による。 |
平和ビル[3] | |
---|---|
情報 | |
用途 | 商業施設 |
建築主 | 柳ヶ瀬市街地再開発組合[3] |
管理運営 | 株式会社平和ビル[3] |
構造形式 | 鉄骨鉄筋コンクリート造[3] |
敷地面積 |
4,120 m² [3] ※株式会社平和ビル保有分は955.53 m2[3] |
建築面積 | 3,112 m² [3] |
延床面積 |
35,850 m² [3] ※全床を株式会社平和ビルが取得[5]。 |
状態 | 完成 |
階数 | 地上14階・地下1階[3][注釈 1]。 |
高さ | 56.35 m[7] |
竣工 | 1977年(昭和52年)9月22日[3] |
岐阜髙島屋︵ぎふたかしまや︶は、岐阜県岐阜市日ノ出町にある百貨店。大手百貨店・株式会社髙島屋の連結子会社である株式会社岐阜髙島屋が運営している。
概要[編集]
出店まで[編集]
当時、岐阜市最大の繁華街であった柳ヶ瀬地区︵柳ヶ瀬市街地再開発地区︶の再開発の発端は、1969年5月10日に旧防災建築街区造成法により﹁柳ヶ瀬第三防災建築街区﹂︵面積5.4300ha︶の指定を受けたことによる[8]。 これ以後、旧岐阜劇場など[9]地区内周辺に映画館などを保有する地権者だった[8]岐阜土地興業が[10]中心となって建物の共同建築化の計画が進められた[8]。当初は東西2つのブロックが別個の組織で話し合いを進めていたが、ビル経営の採算上から大規模ビルを建築することに計画を変更し、2ブロックを合併して1つの工区の組合として進めることとなった[8]。具体的な着手は1973年︵昭和48年︶で、防災建築街区造成事業として出発し、同年8月22日に権利者によるビル保有会社﹁株式会社平和ビル﹂を設立登記し[11]、1974年︵昭和49年︶5月23日に地鎮祭を行った[12]。 ビル建設当初は西武百貨店の出店の話もあったが[13]、同年8月に[14]ヤナゲンが70%・髙島屋が30%を出資して資本金1億円で﹁株式会社 ヤナゲン高島屋﹂を設立[9]。 1975年︵昭和50年︶11月12日に高度利用地区指定と[12]都市計画決定により﹁柳ヶ瀬防災建築街区造成組合﹂︵日ノ出町・金町︶の事業を継承する﹁柳ヶ瀬第一種市街地再開発事業﹂へ事業を切り替え[3]、1976年︵昭和51年︶3月27日に﹁柳ヶ瀬市街地再開発組合﹂を設立認可︵3月30日公告︶[3]、同年4月30日に﹁柳ヶ瀬市街地再開発組合﹂を創立した︵6月30日公示︶[3]。 同年7月19日に﹁株式会社 ヤナゲン高島屋﹂が売り場面積約20,767m2で届け出を行ったが[15]、開店が遅れた影響もありヤナゲンは同年10月に出店を断念した[10][15]。その後、髙島屋はビルの建設を進めていた岐阜土地興業との共同での出店に切り替え[10]、同社と折半出資の﹁岐阜髙島屋﹂となり[16]、同年10月8日に同社を平和ビルのキーテナントに正式に決定した[3]。 なお、当初の計画では18,000m2を岐阜髙島屋が占有し、3,000m2をその他の一般事業者が使用、残りをパブリックスペースに割り当てる予定だった[17]。お膝元の岐阜柳ケ瀬商店街振興組合連合会は客足の繋がりを期待して岐阜髙島屋の要望した18,000m2の売り場面積を了承したが[17]、駅前商店街を中心とする岐阜市商店街振興組合のクレームにより売り場面積は16,000m2に減らされている[18]。 1977年︵昭和52年︶9月22日に竣工し[3]、翌9月23日に﹁岐阜髙島屋﹂が開店した[1][13]。当時の﹃岐阜日日新聞﹄︵現‥岐阜新聞︶は﹁当日はファンファーレが鳴り、千個の風船が飛び、3個のくす玉が割られ、開店前に並んだ千人がなだれ込んだ。初日は12万人の来場があり、売上高は1億5千万円に上った。﹂と報じている[13]。開店当初[編集]
開店当時は、1階と2階には天井高7.2mの吹き抜け構造のピロティとなっていて、周囲に幅4mの小川がある公開空地﹁バラの広場﹂があり、美術展やコンサート、地元芸能など様々な催事を行う場所としていた[1]。﹁バラの広場﹂は一般公募による命名である[1]。再開発ビルが2つのブロックに跨って建設されたため、ブロック間の市道は廃止されたが、廃道となった道路機能はピロティ構造によってそのままの位置で通路として確保されていた[8]。また、廃道敷と同面積をビル東側に交換取得して、既存道路を拡幅する形で幅12mの歩行者用通路を確保している。これら通路と道路の間の約1,500m2が総合設計制度による公開空地となっていた[8]。 当初は、本格的な都市百貨店を標榜して開業し、岐阜市外を含む広域からの集客を目指していた[2]。ところが、開業初年度から休日こそ買い物客でにぎわうものの平日は閑散とした状態に陥った[19]。そのため、当店は高級品を販売する店舗というイメージの修正を図り、エスカレーター付近でワゴンセールを始めたほか、商品を高く積み上げる陳列方法も導入し、下駄ばきで来てほしいとアピールしたほか、外商担当者を当初の5名から30名に増強して、売上の確保を目指した[20]。 岐阜市内の大型店の合計売上高も、前年同期比で約26%の伸びにとどまって、同じ柳ヶ瀬地区に店を構えていた当時の地域一番店だった岐阜近鉄百貨店は前年同期比で約11%減と二桁落ち込むことになった[19]。また、当店への来店客が店内のレストランで飲食してしまったことから近隣の飲食店の売上も伸びず[19]、少し離れた徹明通や真砂町・昭和町などの衣料品店・宝飾店などでは売上不振から飲食店などへ転業する店舗が相次ぐことになった[20]。慢性的な経営悪化[編集]
最盛期となった1991年︵平成3年︶には売上高約249億円を上げたが[21]、ブランド品目当てなどの理由で[22]2000年︵平成12年︶3月15日に開店した[広報 3]同じ髙島屋系の﹁ジェイアール名古屋タカシマヤ﹂などに行く客が増えたり[22]、郊外型の商業施設との競合も激化したことから[21]、2000年代には売上高が200億円を割り込むことになった[23]。 1999年︵平成11年︶4月26日、近鉄百貨店傘下の株式会社京都近鉄百貨店が岐阜近鉄百貨店の閉鎖を決めた際、柳ヶ瀬地区の集客力低下もあり、当店に関しても閉鎖のうわさが出るような有様だった[24]。 ﹁︵初代︶岐阜髙島屋﹂は期間損益では黒字を計上していたが[25]、大幅な債務超過に陥っていた[26]。髙島屋は地方都市で展開する子会社百貨店に対して無利息または低利で融資を行っており、グループ経営の足枷となっていた[25]。髙島屋はバブル崩壊後の消費不況での生き残りと新宿髙島屋出店を成功させるため、子会社の合併による財務体質の強化を目論み[27]、1995年︵平成7年︶9月1日に横浜髙島屋、岐阜髙島屋、泉北髙島屋、岡山髙島屋、米子髙島屋の5社を吸収合併して[28]横浜髙島屋以外の4社が抱えていた累積損失約177億円の一掃を図った[27]。これにより﹁岐阜髙島屋﹂は﹁髙島屋岐阜店﹂となった[29]。 2004年︵平成16年︶4月1日[30]、髙島屋は経営合理化を目指して髙島屋岐阜店を完全子会社の﹁︵2代目︶岐阜髙島屋﹂として分社化した[23]。同年5月12日に都市再生特別措置法に基づく都市再生緊急整備地域として﹁岐阜駅北・柳ヶ瀬通周辺地域﹂が指定され[31]、同年10月22日に岐阜髙島屋が入居する平和ビルに対して都市再生特別地区︵日ノ出町2丁目地区︶の都市計画決定が告示され、特例措置適用により容積率が高度利用地区内の800%から最高限度1,000%に緩和された[32]。これにより、同社は2005年︵平成17年︶に公開空地﹁バラの広場﹂を店舗へ転換する改築を実施して[23]売り場面積を18,787m2から20,390m2に増床させ、同年10月1日にリニューアルオープンした[33]。また、衆楽館跡地に建設された岐阜髙島屋別館へ2006年︵平成18年︶12月1日に[広報 4]無印良品を入居させるなどの対策を打ち[23]、いったんは売上高を200億円台に回復させた[23]。しかし、その後も若い人の百貨店離れや既存客の高齢化などの影響で再び売上が漸減傾向となっていった[23]。 2018年︵平成30年︶7月1日に﹁ふるさと納税特産品贈呈に関する協定﹂を締結[広報 5]。同年11月2日に岐阜県・岐阜市・岐阜商工会議所と株式会社岐阜髙島屋の間で地域活性化に関する包括連携協定を締結し[広報 6]、古田肇岐阜県知事がテナント招致にも協力するなど地元政財界の支援・協力も受けた[23]。また、採算確保のための複数回の家賃減額交渉により[23]、大家側は採算が取れない水準まで家賃減額を行って支援をした[34]。 ヤナゲンが2019年︵令和元年︶8月31日をもって大垣本店を閉店し[35]、以降は岐阜県内で唯一の百貨店となった[36]。 だが、2019年︵令和元年︶から2023年︵令和5年︶にかけて従業員を約50人削減したものの[23]、2023年︵令和5年︶2月期には︵従来基準の︶売上高が約131億5700万円を確保したものの純利益は3100万円の赤字に転落し[広報 2]、2024年︵令和6年︶2月期も赤字の継続が見込まれる状態となった[23]。 また、建設から46年を経て設備の老朽化が進み、その更新投資に約32億円の投資が必要と見込まれたが、採算ラインを割り込む水準まで家賃減額を行っていたことから、大家側は現状の家賃のままでの更新投資は困難として交渉が決裂した[34]。その結果、2023年︵令和5年︶10月13日に2024年︵令和6年︶7月31日で閉店し、法人の岐阜髙島屋も同年8月31日で解散すると発表した[広報 2]。閉店によって岐阜県は山形県、徳島県、島根県に次いで国内4番目の百貨店がない都道府県となる予定である[37]。アクセス[編集]
最寄バス停は岐阜バス﹁柳ヶ瀬﹂または﹁金華橋通り柳ヶ瀬﹂[広報 7]。 JR岐阜駅・名鉄岐阜駅から徒歩約15分[広報 7]。歴史[編集]
●1969年︵昭和44年︶ ●5月10日 - ﹁柳ヶ瀬第三防災建築街区﹂の指定を受ける[12]。 ●1973年︵昭和48年︶ ●2月7日 - ﹁柳ヶ瀬防災建築街区造成組合﹂総会、理事長選出[要出典][11][注釈 2]。 ●8月22日 - ﹁株式会社平和ビル﹂を設立登記[12]。 ●1974年︵昭和49年︶ ●5月23日 - 地鎮祭[12]。 ●8月28日[広報 2] - ヤナゲンが70%・髙島屋が30%を出資して資本金1億円で﹁株式会社 ヤナゲン髙島屋﹂を設立[9]。 ●1975年︵昭和50年︶11月12日 - 高度利用地区指定と[12]都市計画決定を受ける[3]。 ●1976年︵昭和51年︶ ●3月27日 - ﹁柳ヶ瀬市街地再開発組合﹂設立を許可[3]。 ●4月30日 - ﹁柳ヶ瀬市街地再開発組合﹂設立[3]。 ●7月19日 - ﹁株式会社 ヤナゲン髙島屋﹂が売場面積約20,767m2で届出[15]。 ●9月22日 - 権利変換手続開始の登記[3]。 ●10月 - ヤナゲンが出店を断念[10]。 ●10月8日 - キーテナントを﹁株式会社岐阜髙島屋﹂に決定[3]。 ●12月21日 - 上棟式[3]。 ●1977年︵昭和52年︶ ●8月31日 - ボイラー火入式、定礎式、点灯式[3]。 ●9月22日 - ﹁平和ビル﹂が竣工[3] ●9月23日 - 開店[13]。 ●1995年︵平成7年︶9月1日 - 髙島屋に吸収合併される[28]。 ●2003年︵平成15年︶ - 閉店時刻を午後6時30分から午後7時に変更[38]。 ●2004年︵平成16年︶ ●4月1日 - 完全子会社の﹁︵2代目︶岐阜髙島屋﹂として分社化[30]。 ●10月22日 - 都市再生特別地区︵日ノ出町2丁目地区︶を都市計画決定[32]。 ●2005年︵平成17年︶10月1日 - 増床リニューアルオープン[33]。 ●2006年︵平成18年︶12月1日 - 岐阜髙島屋別館に無印良品が入居[広報 4]。 ●2018年︵平成30年︶ ●7月1日 - ﹁ふるさと納税特産品贈呈に関する協定﹂を締結[広報 5]。 ●11月2日 - 岐阜県・岐阜市・岐阜商工会議所と株式会社岐阜髙島屋の間で地域活性化に関する包括連携協定を締結[広報 6]。 ●2023年︵令和5年︶10月13日 - 岐阜髙島屋の営業終了と株式会社岐阜髙島屋の解散を発表[広報 2]。 ●2024年︵令和6年︶ ●7月31日 - 岐阜髙島屋の閉店予定日[広報 2]。 ●8月31日 - 株式会社岐阜髙島屋の解散予定日[広報 2]。事業概要[編集]
●地区の名称‥柳ヶ瀬市街地再開発地区 ●事業の名称‥柳ヶ瀬地区第一種市街地再開発事業 ●所在地‥岐阜市日ノ出町二丁目、金町三丁目 ●施行者‥柳ヶ瀬市街地再開発組合︵柳ヶ瀬防災建築街区造成組合︵日ノ出町・金町︶の事業を継承︶ ●都市計画決定日‥1975年︵昭和50年︶11月12日 ●組合設立許可日‥1976年︵昭和51年︶3月27日 ●事業年度‥1975年度︵昭和50年度︶ - 1977年度︵昭和52年度︶ ●総事業費‥約83億円 ●地区面積‥6,100m3 ●敷地面積‥4,120m3 ●建築面積‥3,112m3 ●延床面積‥35,850m3 ●建ぺい率‥75% ●容積率‥870%︵高度利用地区及び総合設計制度により容積率の割増を適用︶ ●建物構造‥鉄骨鉄筋コンクリート造 ●階数‥地下1階、地上11階、塔屋3階付 ●建物概要‥東西68.50m×南北43.00m×高さ56.35m ※ 上記は建設当時のデータ。﹃都市再開発﹄30-31頁[3]及び﹃岐阜市の都市計画﹄47,49頁[6]による。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ abcde﹁会員店訪問“くつろぎながらショッピング”岐阜髙島屋を訪ねて﹂﹃日本百貨店協会会報﹄、日本百貨店協会、1977年10月5日、16-17頁、doi:10.11501/2246457。
(二)^ abc﹃岐阜市史 史料編 現代﹄510頁
(三)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaabacad池戸常男 1982, p. 31
(四)^ 2023年2月期の売上高は﹁収益認識に関する会計基準﹂︵企業会計基準第29号2020年3月31日︶等の適用による。従来基準で算出した数値は131億5700万円。
(五)^ 池戸常男 1982, p. 31-32
(六)^ ab﹁IV都市計画決定の概要﹂﹃岐阜市の都市計画﹄岐阜市 都市建設部 都市計画課、2024年1月、47,49頁。
(七)^ 池戸常男 1982, p. 31, 断面図
(八)^ abcdef池戸常男 1982, p. 29
(九)^ abc﹁業界展望 流通業界の新しい動きと問題点を探る﹂﹃商店界﹄1974年11月号、誠文堂新光社、1974年11月、46-51頁、doi:10.11501/2250285。
(十)^ abcd﹁日本流通列島縦断全報告 いま一番注目されている地元流通企業﹂﹃激流﹄1977年1月号、国際商業出版、1977年1月、11-41頁、doi:10.11501/2834674。
(11)^ ab池戸常男 1982, p. 29-30
(12)^ abcdef池戸常男 1982, p. 30
(13)^ abcd﹁﹁岐阜高島屋﹂市民の思い出詰まった百貨店 時代に合わせた店づくり﹂﹃岐阜新聞﹄、2023年1月16日。2023年1月16日閲覧。オリジナルの2023年1月16日時点におけるアーカイブ。
(14)^ 藤史郎﹁完全自由化はスタートしたが早くも懸念される流通業界の不安度―通産省の思惑どおり巨大流通外資を事前チェックできるか﹂﹃月刊経済﹄1975年8月号、月刊経済社、1975年8月1日、26-29頁、doi:10.11501/2672893。
(15)^ abc﹁52年岐阜県産業動向見通し﹂﹃経済月報﹄1976年12月号、十六銀行企画調査部、1976年12月25日、40頁、doi:10.11501/2665965。
(16)^ ﹁一兆円目標を着実に進める 高島屋グループ﹂﹃産業新潮﹄1977年5月号、産業新潮社、1977年4月、142-146頁、doi:10.11501/2704639。
(17)^ ab﹁現代﹁国盗り考﹂―岐阜高島屋めぐるその差6000平方メートルの大攻防﹂﹃中部財界﹄第20巻第10号、中部財界社、1977年6月15日、74-75頁、doi:10.11501/2773767。
(18)^ ﹁駅前への対抗意識で燃える柳ケ瀬“秋の陣”―﹁岐阜高島屋﹂9月23日オープン!!﹂﹃中部財界﹄第20巻第16号、中部財界社、1977年9月15日、72-73頁、doi:10.11501/2773773。
(19)^ abc﹃岐阜市史 史料編 現代﹄511頁
(20)^ ab﹃岐阜市史 史料編 現代﹄512頁
(21)^ ab﹁岐阜高島屋 来夏閉店 県内に百貨店なし 中部初﹂﹃中日新聞﹄中日新聞社、2023年10月14日、朝刊︵岐阜県版︶、1面。
(22)^ ab長屋文太﹁岐阜高島屋 閉店へ 人口減の傾向 変わらない 村田社長 一問一答﹂﹃中日新聞﹄、2023年10月14日、7面。
(23)^ abcdefghij長屋文太、中川耕平、池内琢﹁閉店ショック 岐阜高島屋 ︵上︶ 経営悪化 万策尽き苦渋の選択﹂﹃中日新聞﹄中日新聞社、2023年10月14日、14面。
(24)^ ﹁岐阜 岐阜近鉄百貨店閉鎖決定 柳ケ瀬に、市民に衝撃 郊外店と競合し打撃 相次ぐ進出 深刻な空洞化証明﹂﹃中日新聞﹄中日新聞社、1999年4月27日、朝刊︵岐阜県版︶。
(25)^ ab﹁高島屋未来への道②﹂﹃Yano news︵ヤノニュース︶﹄1992年12月20日号、矢野経済研究所、1992年12月20日、48頁、doi:10.11501/2828905。
(26)^ ﹁日債研格付け 経営体質改善を推進―百貨店6社、据え置き﹂﹃日経公社債情報﹄第957号、日経公社債研究所、1994年11月21日、24-26頁、doi:10.11501/2837242。
(27)^ ab﹁﹁新宿出店を成功させよ﹂髙島屋“大合併戦略”のターゲット﹂﹃DECIDE﹇決断﹈﹄1995年2月号、サバイバル出版、1995年2月、48-49頁、doi:10.11501/2863775。
(28)^ ab﹁SCスクラップ 髙島屋、子会社吸収﹂﹃ショッピングセンター﹄1995年10月号、日本ショッピングセンター協会、1995年10月1日、83-84頁、doi:10.11501/2838236。
(29)^ ﹁販売不振が続く大手百貨店の行方﹂﹃証券調査月報﹄1998年5月号、岡三経済研究所、1998年5月1日、5-6頁、doi:10.11501/2883407。
(30)^ ab﹁大規模小売店舗の変更の届出に関する件﹂﹃岐阜県公報﹄第1545号、岐阜県、2004年5月14日、418-419頁。
(31)^ ﹁都市再生緊急整備地域を定める政令の一部を改正する政令︵政令第175号︶﹂﹃官報﹄号外第97号、独立行政法人国立印刷局、2004年5月12日、62頁。
(32)^ ab“岐阜駅北・柳ヶ瀬通周辺地域<30ha>”. 都市再生緊急整備地域及び特定都市再生緊急整備地域の一覧. 内閣官房・内閣府総合サイト 地方創生 (2023年4月1日). 2023年10月24日閲覧。
(33)^ ab﹁大規模小売店舗の変更の届出に関する件﹂﹃岐阜県公報﹄第1669号、岐阜県、2005年8月5日、602-603頁。
(34)^ ab池内琢、長屋文太、稲垣達成﹁来年7月末 岐阜高島屋閉店 更新費巡りビル側と決裂 ﹁家主が持つものだ﹂高島屋 ﹁家賃以前の状態に﹂オーナー﹂、中日新聞社、2023年10月14日。
(35)^ ﹁半世紀 歴史に幕 ヤナゲン大垣本店 愛された 市唯一の百貨店﹂﹃中日新聞﹄中日新聞社、2019年9月1日、32面。
(36)^ ﹁街からハレの場が… 岐阜高島屋 閉店発表に落胆の声﹂﹃中日新聞﹄中日新聞社、2023年10月14日、28面。
(37)^ ﹁高島屋、岐阜店を24年7月に閉店 岐阜は4番目ゼロ県に﹂﹃日本経済新聞﹄日本経済新聞社、2023年10月13日。2023年10月23日閲覧。オリジナルの2023年10月22日時点におけるアーカイブ。
(38)^ ﹁大規模小売店舗の変更の届出に関する件﹂﹃岐阜県公報﹄第1422号、岐阜県、2003年2月25日、112頁。
広報資料・プレスリリースなど一次資料[編集]
(一)^ ﹁関係会社の状況﹂﹃有価証券報告書﹄第157期、株式会社髙島屋、2023年5月25日、8頁。
(二)^ abcdefgh﹃連結子会社における店舗の営業終了および同社の解散に関するお知らせ﹄︵プレスリリース︶株式会社髙島屋、2023年10月13日。
(三)^ “会社概要”. 株式会社 ジェイアール東海高島屋. 2023年10月25日閲覧。
(四)^ ab﹃新規出店のお知らせ﹄︵プレスリリース︶株式会社良品計画、2006年11月24日。
(五)^ ab“個別連携協定等一覧”. 岐阜市役所 政策調整課 (2024年9月14日). 2023年10月25日閲覧。
(六)^ ab“包括連携協定先一覧”. 岐阜市役所 政策調整課 (2024年9月14日). 2023年10月25日閲覧。
(七)^ ab“岐阜タカシマヤ アクセス”. 株式会社岐阜髙島屋. 2023年10月25日閲覧。