庵原軌道
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庵原軌道 | |
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概要 | |
現況 | 廃止 |
起終点 |
起点:江尻駅 終点:庵原金谷駅 |
駅数 | 10駅 |
運営 | |
開業 | 1913年12月16日 |
廃止 | 1916年7月17日 |
所有者 | 庵原軌道 |
路線諸元 | |
路線総延長 | 5.5 km (3.4 mi) |
軌間 | 762 mm (2 ft 6 in) |
電化 | 全線非電化 |
庵原軌道 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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路線総延長 | 5.5 km | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
軌間 | 762 mm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
停車場・施設・接続路線(廃止当時) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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庵原軌道(いはらきどう)は、かつて静岡県庵原郡辻村(現・静岡市清水区)の東海道本線江尻駅(現・清水駅)から、庵原郡庵原村金谷(現・静岡市清水区庵原町)の庵原金谷駅を結んでいた軽便鉄道である。
概要
[編集]
1909年︵明治42年︶、庵原郡庵原村出身の衆議院議員で製紙会社社長の西ヶ谷可吉[注釈 1]は﹁村発展のためには鉄道建設が必要である﹂として[1]、西ヶ谷を始めとする庵原村、袖師村、安倍郡清水町︵いずれも現在の静岡市清水区︶の有志らが発起人となり、同年12月13日付で庵原軌道敷設特許申請を鉄道院に届け出た[1]。翌1910年︵明治43年︶4月20日に敷設免許がおり、庵原軌道株式会社が設立。初代社長に西ヶ谷が就任した[2]。当初は馬車鉄道︵軌間610mm︶を計画していたが、1911年︵明治44年︶10月14日付で動力を蒸気に、軌間を762mmに変更を行っている[2]。
1913年︵大正2年︶12月16日、鉄道院東海道本線江尻停車場の西側を起点に、西久保までの区間が開通。翌1914年︵大正3年︶5月22日に庵原金谷まで開通した。本来はこの先、伊佐布︵いざぶ、現・清水区伊佐布︶まで路線を計画していたが、道路拡張工事が必要なことや、費用面などに阻まれ断念している[2]。
開業当初は物珍しさから乗客が多かったものの、次第に減少し空席が目立つようになった。その頃、辻村から清見寺︵現・清水区興津清見寺町︶へ至る路線も計画していたが、土地や家屋の買収ならびに移転交渉に手間取り、工事になかなか着手することができなかった[2]。さらに、社長の西ヶ谷が別の事業で多額の負債を抱えてしまい[3]、資金繰りが困難なほど経営は行き詰まった。その上、給料の支払いも滞り、従業員の服装は冬場でも夏服という有様であった[2]。そして再三にわたる給料遅延から、1915年︵大正4年︶5月12日には運転休止に追い込まれる。従業員は全て休業し、製茶で賃金を得ていたという[2]。同年5月28日には運転を再開するが、翌1916年︵大正5年︶3月14日に再び運転休止になる。乗客・貨物ともに減少する一方であり、累積赤字の増加から結局、同年6月2日をもって会社は解散。同年7月17日に全線廃止された[4]。開業から廃線までは僅か2年半であり、同じく静岡県に存在した光明電気鉄道よりも短命であった。
路線データ
[編集]廃止時点
歴史
[編集]- 1909年(明治42年)12月13日 庵原軌道敷設特許願を申請(庵原郡辻村 - 同郡庵原村伊佐布間)[5]
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年)3月28日 工事施工認可[2]
- 1912年(大正元年)9月10日 工事開始[2]
- 1913年(大正2年)12月16日 江尻 - 西久保間開業
- 1914年(大正3年)5月22日 西久保 - 庵原金谷間開業
- 1915年(大正4年)
- 5月12日 運転休止
- 5月28日 運転再開
- 1916年(大正5年)
- 3月14日 再び運転休止
- 6月2日 会社解散
- 7月17日 全線廃止
- 9月30日 軌道特許失効[6]
駅一覧
[編集]廃止時点、山崎 (1993) および今尾 (2008) による
江尻駅 - 辻学校前駅 - 辻町駅 - 秋葉前駅 - 西久保駅 - 神明前駅[注釈 2] - 庵原役場前駅 - 庵原郵便局前駅 - 庵原新田駅 - 庵原金谷駅
接続路線
[編集]事業者名は廃止時点のもの
運行概要
[編集]車両
[編集]機関車
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1 - 3︵形式不詳︶
1911年10月、ドイツ・コッペル社で製造された4t4輪連結︵車輪配置 0-4-0︶タンク式蒸気機関車︵製造番号 4788 - 4790︶[7]。同社の日本国内向け機関車としては最小で、コッペル製品としても一番小さかった。廃止後、2両︵車番不明︶が開業を控えている宮城県の城南軌道へ譲渡され[3][注釈 4]、同社の1・2号となった。しかし、性能面や取扱に問題があったためか、早期に廃車された模様である[8]。
客車
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甲型
車番不詳。1913年4月に大日本軌道で製造された4輪貫通式ボギー客車。1両のみ製造。シングルルーフの開放型デッキ構造。定員34人︵座席26人︶[8]。
乙型
車番不詳。1913年4月に大日本軌道で製造された4輪貫通式ボギー客車。2両製造。甲型と同じ構造だが、車体長はやや短い。 定員26人︵座席20人︶[8]。
貨車
[編集]その他
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●上記の計画路線の他に、辻村の秋葉前から分岐し北街道に沿って、静岡市︵現・葵区︶宮ケ崎町の浅間神社へと結ぶ路線も計画されていた。しかし、既に大日本軌道静岡支社︵現・静岡鉄道静岡清水線︶が1908年︵明治41年︶に鷹匠町︵現・新静岡︶ - 辻村︵現・新清水︶間を開業させており、既存路線と並行する必要が無いという理由で当局から却下された[2]。
●廃止からかなりの年月が経過しており、現在では軌道跡とされる道路が名残として残っている以外に、遺構を見つけることはできない[9]。
●現在はしずてつジャストライン庵原線︵241 清水駅前 - 上伊佐布︶が当路線とほぼ同じルートを通っている。
脚注
[編集]注釈
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(一)^ 報徳社社長、静岡県議会議員、庵原製紙会社重役、静岡農工銀行取締役、江尻貯蓄銀行取締役、地方森林会議員︵略歴は﹃静岡県静岡安倍庵原馨典人物誌﹄国立国会図書館デジタルコレクションより︶。第6回衆議院議員総選挙にて静岡県2区補欠当選。
(二)^ 山崎 (1993)では内容の一部が﹁明神前﹂と記されているが、誤表記と思われる。
(三)^ 東海道本線江尻駅は現在の清水駅よりも約350m静岡寄りに位置していたが、1926年︵大正15年︶7月14日に現在地に移設されている。
(四)^ 静岡新聞社編﹃静岡県鉄道物語﹄︵1982年︶では大日本軌道の中古で、廃止後に安倍鉄道へ譲渡されたとあるが、これは誤り。
出典
[編集]参考文献
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●静岡新聞社 編﹃今は昔 しずおか懐かし鉄道﹄静新新書、2006年、109-114頁。ISBN 4-7838-0324-2。
●山崎寛﹁失われた鉄道・軌道を訪ねて︹67︺庵原軌道﹂﹃鉄道ピクトリアル﹄通巻572号、電気車研究会、1993年3月、pp.110-114。
●今尾恵介︵監修︶﹃日本鉄道旅行地図帳﹄ 7東海、新潮社、2008年、30頁。ISBN 978-4-10-790025-8。