倭・倭人関連の中国文献

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後漢書東夷伝から転送)


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『論衡』[編集]





 


  


    
   




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『山海経』[編集]





  
 


 




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『漢書』[編集]







 

   

西  







  








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『後漢書』[編集]





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使







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使

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使

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「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」[注釈 1]

『魏志』倭人伝[編集]


  


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 西  
 西4

『晋書』[編集]

晋書』武帝紀 太康10年(289年)条

「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」

この絶遠の東夷に倭人が含まれていると見ることがある。倭人については東夷伝と武帝紀、倭国については安帝紀に書かれている。

邪馬台国についての直接の記述は無いが、魏の時代の倭人や卑弥呼については書かれている。また266年の「倭人」の朝貢は日本書紀神功皇后紀に『晋起居注』(現存しない)から引用された「倭の女王」の記事と年次が一致し、その前の文帝(司馬昭)の時代(255~265年)にも何度もやって来たと東夷伝にあるので、この女王は台与と考えられている。

266年「11月に倭人が方物を献じた」に続いて、「円丘・方丘を南北郊に併せ、二至の祀りを二郊に合わせた」と解釈した記事を、あえて連続したものと見てとって「晋書武帝紀に東夷の前方後円墳のおこりが記されている」と即断した新説が提示されているが、依然として懸念が残されている。

『宋書』[編集]





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西


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『南斉書』[編集]


   

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『梁書』[編集]

梁書について。

『北史』[編集]

北史について。

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『南史』[編集]

南史について。

『南史』倭国伝[編集]



『隋書』[編集]


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『隋書』東夷傳[編集]

「九夷所居、與中夏懸隔、然天性柔順」
九夷(中国の東に住む諸民族)が居る所は、中華から遠くにあり、(九夷の)天性は柔順である。

『旧唐書』[編集]

旧唐書には日本について『倭国』と『日本国』の条がある。「日本」の名称に関して次の記述がある。

倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 ~

日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地 其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉|『舊唐書』 東夷伝 倭國[7][8]

日本国は倭国の別種なり。 その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名とす。 或いはいわく、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。 或いはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたり。其の人、入朝する者、多くは自ら矜大(尊大)、実(真実)をもって対(こた)えず。故に中国、焉(これ)を疑う。

『新唐書』[編集]

北宋時代に再編纂された『新唐書』においては、古の倭奴が、高句麗滅亡後、倭の悪名を嫌って日本と改名したとの理解に対して、「日本という小国を倭があわし(併合し)その号(日本の名)を冒(名のる)」し、日本と改めたと説明したが、疑いを持たれた、という記述がある。

『通典』[編集]

通典について。

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1986
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注釈[編集]

  1. ^ 『三国志』「魏書」「烏桓鮮卑東夷伝」鮮卑に「後檀石槐乃案行烏侯秦水 廣袤數百里 停不流 中有魚而不能得 聞汙人善捕魚 於是檀石槐東撃汗國 得千餘家 徙置烏侯秦水上 使捕魚以助糧 至于今 烏侯秦水上有汙人數百戸」とあり裴松之の注釈で汙人を倭人とする
  2. ^ 後漢の末に遼東太守であった公孫氏が勢力を伸ばし、204年(後漢建安9年)楽浪郡の南に建てたのが帯方郡である。

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(一)^  (202332). 4 | NHK | WEB. NHK. 2023627

(二)^  1998 ISBN 400430559431

(三)^ ''    201182320119252011823

(四)^    NAVER201182320119258使

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(六)^ [1]

(七)^  - 2017521

(八)^       - 200517 < 

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