扶桑
扶桑︵ふそう、扶木・扶桑木・扶桑樹とも︶は、中国伝説で東方の果てにあるとされる巨木である。
その巨木の生えている土地は扶桑国と呼ばれる。後世、扶桑・扶桑国は、中国における日本の異称となったが、それを受けて日本でも自国を扶桑国と呼ぶことがある。例えば﹃扶桑略記﹄は平安時代の私撰歴史書の一つである。
扶桑図
︵下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある︶ — ﹃山海経﹄海経第4巻 第9海外東經[2] 大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏
︵大荒︵辺境︶の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里︵130m︶、その葉はカラシナに似る。温源谷︵= 湯谷 ?︶という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている︶ — ﹃山海経﹄海経巻9 第14大荒東經[3] 烏が乗る10の太陽という話は、三足烏の神話と共通である。 黒歯国の位置については﹃山海経﹄には﹁青丘国﹂の北というのみだが、﹃梁書﹄に 其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至
︵南に身長3~4尺︵70~90cm、1尺≒23cm︶の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く︶ — ﹃梁書﹄卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳[4] 東夷条 倭 とあり、日本から南に4000余里︵1700km余︶ということになる。が、魏志倭人伝をみると 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
︵女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く︶ — ﹃三国志﹄魏書東夷伝[5]倭人条︵魏志倭人伝[6]︶ とあり、4000余里︵1700km余︶というのは邪馬台国から侏儒国までの距離で、そこからさらに東南へ船で1年かかるのが黒歯国である。﹃梁書﹄は魏志倭人伝を要約する際に編集ミスを起こしているのがわかる。
︵﹁海外経﹂によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、︵そこの海水は︶湯のように熱い︶ — ﹃史記﹄巻114司馬相如列傳 第57﹁湯谷﹂の注 と、﹁海外経﹂︵﹃山海経﹄海外4書︶などから引用されている。
︵東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて増城に戯る︶ — ﹃宋書﹄巻22志第12樂志四[10] 載及 白紵舞 歌詩三篇之二 と、対句で崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの﹁︵白︶紵﹂︵カラムシ︶というのは呉に産する織物である。
︵扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年︶、扶桑国から来たと言う者の話を記す。︵中略︶ 永元元年︵499年︶、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。 ﹁扶桑国は大漢国の東二万余里︵8700km余︶、中国の東方にある。﹁扶桑の木﹂が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。 南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。 国王の名は乙祁。貴人︵﹁祁貴人﹂が王の名の可能性あり︶の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。 牛の角は非常に長く、20斛︵540kg、1斛≒57kg︶以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅︵青銅か︶はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。 結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。 親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。︵先王が死んで?︶王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。 かつては仏教はなかったが、大明2年︵458年︶、罽賓国︵ガンダーラ・カシミール近辺︶から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した﹂ また慧深はこうも言った。﹁扶桑の東1000余里︵430km︶に女国があり、︵以下略、一部意訳︶︶ — ﹃梁書﹄巻54列伝第48諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國[11]
︵疑はくはこれ北東に當たるかや、誤ちもつて日本とす。而して、扶桑の日本の別號なるは當たらず︶ — ﹃和漢三才図会﹄巻之十四 外夷人物﹁扶桑﹂ と、日本説を否定している[17]。
概説[編集]
古くは﹃山海経﹄に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木や建木などが共に記述として残されている。 古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア﹁仙境=蓬萊山・崑崙山﹂にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹﹁扶桑樹﹂にあやかろうとした。﹁蓬莱山﹂と﹁扶桑樹﹂は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った﹁壺型の蓬莱山﹂が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る﹁巨大な扶桑樹﹂がそびえる。古代の人々は﹁蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい﹂と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬を募らせてきたという[1]。 のち、﹃梁書﹄が出て以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく﹁その国では扶桑の木が多い﹂という話に代替されており、この場合の﹁扶桑﹂とは実在のどの植物のことかをめぐって一つの論点となる︵後述︶。 国号としての﹁扶桑国﹂は、尊称とする説[注 1][要出典]がある。文献[編集]
山海経[編集]
﹃山海経﹄によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝︵下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある︶ — ﹃山海経﹄海経第4巻 第9海外東經[2] 大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏
︵大荒︵辺境︶の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里︵130m︶、その葉はカラシナに似る。温源谷︵= 湯谷 ?︶という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏を載せている︶ — ﹃山海経﹄海経巻9 第14大荒東經[3] 烏が乗る10の太陽という話は、三足烏の神話と共通である。 黒歯国の位置については﹃山海経﹄には﹁青丘国﹂の北というのみだが、﹃梁書﹄に 其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至
︵南に身長3~4尺︵70~90cm、1尺≒23cm︶の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く︶ — ﹃梁書﹄卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳[4] 東夷条 倭 とあり、日本から南に4000余里︵1700km余︶ということになる。が、魏志倭人伝をみると 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
︵女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く︶ — ﹃三国志﹄魏書東夷伝[5]倭人条︵魏志倭人伝[6]︶ とあり、4000余里︵1700km余︶というのは邪馬台国から侏儒国までの距離で、そこからさらに東南へ船で1年かかるのが黒歯国である。﹃梁書﹄は魏志倭人伝を要約する際に編集ミスを起こしているのがわかる。
淮南子[編集]
﹃淮南子﹄には多くの扶桑︵榑桑︶に関する言及が見られる。 日出于暘谷、浴于咸池、拂于扶桑、是謂晨明。登于扶桑、爰始將行、是謂朏明。 — 天文訓[7] 暘谷榑桑在東方。 — 墬形訓[8] 朝發榑桑、日入落棠。 — 覽冥訓[9]説文解字[編集]
叒、日初出東方湯谷所登榑桑。叒木也。象形。 — 巻6、叒部 榑、榑桑、神木。日所出也。从木尃声。 — 巻6、木部史記正義[編集]
張守節﹃史記正義﹄では、 海外經云 湯谷在黑齒北 上有扶桑木 水中十日所浴 張揖云 日所出也 許慎云 熱如湯︵﹁海外経﹂によると、黒歯の北に湯谷があり、その上に扶桑木があり、水中で10の太陽が水浴びをする。張揖によると、そこが日の出の場所である。許慎によると、︵そこの海水は︶湯のように熱い︶ — ﹃史記﹄巻114司馬相如列傳 第57﹁湯谷﹂の注 と、﹁海外経﹂︵﹃山海経﹄海外4書︶などから引用されている。
宋書[編集]
﹃宋書﹄巻22志第12楽4︵楽志︶﹁白紵舞﹂歌の1つで 東造扶桑游紫庭 西至崑崙戯増城︵東、扶桑に造りて紫庭に游び、西、崑崙に至りて増城に戯る︶ — ﹃宋書﹄巻22志第12樂志四[10] 載及 白紵舞 歌詩三篇之二 と、対句で崑崙と対にされ地名のように扱われている。タイトルの﹁︵白︶紵﹂︵カラムシ︶というのは呉に産する織物である。
梁書[編集]
﹃梁書﹄によると、僧慧深︵けいしん︶が永元元年︵499年︶に扶桑という国から梁へやってきたという。扶桑の所在地については、倭国の東北7000余里︵3000km余、漢代の里 ≒ 434m、以下換算にはこの値を使う︶に文身国が、その東5000余里︵2200km余︶に大漢国があり、大漢国の東2万余里︵8700km余︶に扶桑がある。ただし、倭国・文身国・大漢国までについては地の文で事実として書かれているが、扶桑についてはその位置も含め、慧深の証言という形で書かれている。また、地の文の大漢国と慧深の言う大漢国が同じものかもはっきりしない。 扶桑國、在昔未聞也。普通中、有道人稱自彼而至、其言元本尤悉、故扞録焉。︵中略︶扶桑國者、齊永元元年、其國有沙門慧深來至荊州、説云﹁扶桑在大漢國東二萬餘里、地在中国之東、其土多扶桑木、故以爲名。扶桑葉似桐、而初生如笋、國人食之、實如梨而赤、績其皮爲布以爲衣、亦以爲綿。作板屋。無城郭。有文字、以扶桑皮爲紙。無兵甲、不攻戦。其國法、有南北獄。若犯徑者入南獄、重罪者入北獄。有赦則赦南獄、不赦北獄。在北獄者、男女相配、生男八歳爲奴、生女九歳爲婢。犯罪之身、至死不出。貴人有罪、國乃大曾、坐罪人於坑、對之宴飮、分訣若死別焉。以灰繞之、其一重則一身屏退、二重則及子孫、三重則及七世。名國王爲乙祁、貴人第一者爲大對盧、第二者爲小對盧、第三者爲納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色随年改易、甲乙年青、丙丁年赤、戊己年黄、庚辛年白、壬癸年黒。有牛角甚長、以角載物、至勝二十斛。車有馬車、牛車。鹿車。國人養鹿、如中國畜牛。以乳爲酪。有桑梨、徑年不壊。多蒲桃。其地無鐡有銅、不貴金銀。市無租估。其婚姻、壻往女家門外作屋、農夕灑掃、徑年而女不悦、即驅之、相悦乃成婚。婚禮大低與中國同。親喪、七日不食、祖父母喪、五日不食、兄弟伯叔姑姉妹、三日不食。設靈爲神像、朝夕拜奠、不制縗絰。嗣王立、三年不視國事。其俗舊無佛法、宋大明二年、罽賓國嘗有比丘五人游行至其國、流通佛法、經像、教令出家、風俗遂改。﹂慧深又云﹁扶桑東千餘里有女國︵以下略︶︵扶桑国の話は以前はなかったが、普通年間 (520年–527年︶、扶桑国から来たと言う者の話を記す。︵中略︶ 永元元年︵499年︶、扶桑国の僧慧深が荊州に来て言った。 ﹁扶桑国は大漢国の東二万余里︵8700km余︶、中国の東方にある。﹁扶桑の木﹂が多いことからその名がある。扶桑の葉は桐に似て、生え始めはタケノコのようで、扶桑国人は食用にする。実は梨のようで赤く、その皮を績いで布にして衣類や綿にしたり屋根を葺いたりする。文字はあり、扶桑の皮でできた紙に書く。城郭はなく、兵士や武装はなく、戦争をしかけない。 南北2つの監獄があり、軽罪の者は南獄、重罪の者は北獄に入る。南獄には恩赦があるが北獄にはない。北獄では男女を番わせ、生まれた男児は8歳・女児は9歳で奴婢とし、罪人自身は一生出られない。貴人が有罪となれば、穴の中に座らせ、酒宴を開いて処刑し、その上に灰を撒く。初犯なら当人が責を受けるだけだが、再犯なら子と孫、三犯なら7世に及ぶ。 国王の名は乙祁。貴人︵﹁祁貴人﹂が王の名の可能性あり︶の第1位は大対盧、第2位は小対盧、第3位は納咄沙と呼ぶ。国王が行くときには鼓笛を従える。その衣の色は年により変わり、甲乙年は青、丙丁年は赤、戊己年は黄、庚辛年は白、壬癸年は黒である。 牛の角は非常に長く、20斛︵540kg、1斛≒57kg︶以上を運ぶ。馬車、牛車にくわえ、鹿車がある。中国人が牛を飼うように、扶桑国人は鹿を飼い、乳から乳製品を作る。桑、梨、フトモモがある。鉄はないが銅︵青銅か︶はあり、金銀はふんだんにある。市場では税金がかからない。 結婚するときは、婿が女の家へ行き、門外に建物を作り朝夕掃除する。女が喜ばなかったら取り壊し、喜べば成婚となる。結婚式は中国とほぼ同じである。 親の喪には7日間絶食する。祖父母は5日間、兄弟姉妹おじおばは3日間である。死者の霊を神像とし、朝夕拝む。︵先王が死んで?︶王の跡継ぎが立ったときには、3年間国事に関わらなかった。 かつては仏教はなかったが、大明2年︵458年︶、罽賓国︵ガンダーラ・カシミール近辺︶から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した﹂ また慧深はこうも言った。﹁扶桑の東1000余里︵430km︶に女国があり、︵以下略、一部意訳︶︶ — ﹃梁書﹄巻54列伝第48諸夷 海南 東夷 西北諸戎 扶桑國[11]
植物の比定[編集]
扶桑の木を実際のクワのこととみなす場合もあるが、﹃梁書﹄の扶桑の木の説明では実際のクワとは異なっているので、これを実在の様々な植物の特徴を繋ぎあわせた架空植物とする説や、後述の扶桑国メキシコ説の場合ではトウモロコシもしくはリュウゼツランとする説がある。また愛媛県伊予市の森海岸に露出している郡中層にはメタセコイア等の多くの化石植物が含まれているが、この化石植物群は古くから扶桑木と呼ばれている[12]。他にもハイビスカス︵ブッソウゲの栽培種、中国南部原産︶の別名を扶桑ともいう。地理の比定[編集]
日本の別名とする説[編集]
日本の別称として用いた例としては、1094年の史書﹃扶桑略記﹄のタイトルの用例が見られるが、それ以前にも多くあり、最古の用例は貞観元年︵859年︶の例がある。日本をわざわざ扶桑という別名で呼ぶのは、外交関係ないし対外的に中国を意識した漢詩や仏教関係で使われることが多かった。 室町時代に作成された行基図︵地図︶には、﹃日本扶桑国之図﹄というタイトルが付されている[13]。 平田篤胤は、その著﹃大扶桑國考﹄で、国王を意味するという﹁乙祁﹂を仁賢天皇の名とし、中国の伝説に表れる扶桑は日本のことだったとする説を唱えた[要文献特定詳細情報][注 2]。現代では宝賀寿男[注 3]や大和岩雄[14]も同様に日本の別名とする説である。関西説[編集]
赤松文之祐[15]やいき一郎[16]の説では、倭の五王の倭国は今の九州にあったとして、それとは別勢力である扶桑国は関西・近畿地方にあったとしている。関東説[編集]
荻生徂徠は1736年の著書﹃南留別志﹄において、﹁上総はかんつふさ、下総は下津房なり、安房もふさといふ字を用ゆ、古の扶桑国なるべしとみえたり﹂と断じ、扶桑国は房総半島とした[要文献特定詳細情報]。その他の日本国内説[編集]
九州説、東海地方説︵前田豊は三河説、何新は富士山説︶、東北地方説、北海道説、樺太説がある。日本以外とする説[編集]
北畠親房は﹁東海の中に扶桑の木あり。日の出所なり、と見えたり。東にあれば、よそへていへるか。此国に彼木ありといふ事聞えねば、たしかなる名にはあらざるべし﹂︵﹃神皇正統記﹄︶といい、日本と扶桑国は本来は別々の国としていた。 また1712年の類書﹃和漢三才図会﹄も﹁扶桑﹂の項で、﹃三才図会﹄からの引用︵﹃梁書﹄の要約︶の後、注釈で 疑ハクハ是當ルカ二北東ニ一乎誤チ以爲二日本ト一而扶桑ノ爲ル二日本ノ別號一者不レ當タラ︵疑はくはこれ北東に當たるかや、誤ちもつて日本とす。而して、扶桑の日本の別號なるは當たらず︶ — ﹃和漢三才図会﹄巻之十四 外夷人物﹁扶桑﹂ と、日本説を否定している[17]。
北米︵カナダ西部︶説[編集]
フランス人東洋学者のジョゼフ・ド・ギーニュは1761年、﹃梁書﹄に書かれた距離から扶桑は太平洋の対岸だと考え、文身国は蝦夷地︵北海道、千島列島、樺太︶、大漢国はカムチャッカ、扶桑はカリフォルニアだとした。それを受け、18世紀のいくつかの地図では、カリフォルニアの北方、現在のブリティッシュコロンビア州︵カナダ西海岸︶あたりに扶桑と書かれている。-
1753年フランスの地図。Fou‐sang と書かれている。
-
1792年フランスの地図。Fousang と書かれている。
中米(メキシコ)説[編集]
ドイツ人東洋学者のカール・フリードリヒ・ノイマンは1841年、ド・ギーニュ説を修正して道程をやや伸ばし、大漢国をアラスカ、扶桑国をメキシコとした[18]。
フィクション[編集]
日本をモチーフにした架空の国名・地名として使われることがある。 ●戦国霊異伝︵テーブルトークRPG︶ - 戦国時代の日本に似た和風ファンタジー世界︵国家︶﹁扶桑﹂が舞台。 ●扶桑武侠傳︵テーブルトークRPG︶ - 中国風の文化が根付いた架空の日本列島﹁扶桑﹂が舞台。 ●ストライクウィッチーズ︵テレビアニメ、メディアミックス作品︶- 大日本帝国をモチーフにした﹁扶桑皇国﹂が登場する。 ●小説﹁日本﹂人民共和国︵井沢元彦の小説︶ - パラレルワールドで日本が現実とは異なる戦後史をたどって成立した﹁扶桑人民共和国﹂が舞台。 また、現実世界でも扶桑社や三菱ふそうトラック・バスなど、これを元にした名称が存在する。なお、愛知県には﹁扶桑町﹂が存在するが、これは﹁桑によって扶養される町﹂であることから付けられたものであり、本伝承とは無関係である。脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ 岡本健一﹃蓬莱山と扶桑樹 : 日本文化の古層の探究﹄思文閣出版、2008年8月。ISBN 9784784214006。
(二)^ 郭璞序 (中国語), 山海經/海外東經, ウィキソースより閲覧。
(三)^ 郭璞序 (中国語), 山海經/大荒東經, ウィキソースより閲覧。
(四)^ 姚思廉 (中国語), 梁書/卷54, ウィキソースより閲覧。
(五)^ 陳壽 (中国語), 三國志/卷30, ウィキソースより閲覧。
(六)^ 魏志倭人伝﹃魏志倭人伝﹄。ウィキソースより閲覧。
(七)^ 劉安 (中国語), 淮南子/天文訓, ウィキソースより閲覧。
(八)^ 劉安 (中国語), 淮南子/墬形訓, ウィキソースより閲覧。
(九)^ 劉安 (中国語), 淮南子/覽冥訓, ウィキソースより閲覧。
(十)^ 沈約 (中国語), 宋書/卷22, ウィキソースより閲覧。
(11)^ 姚思廉 (中国語), 梁書/卷54#.E6.89.B6.E6.A1.91.E5.9C.8B, ウィキソースより閲覧。
(12)^ “︻県指定文化財︼扶桑木(珪化木)<天然記念物>”. 伊予市. 2023年2月11日閲覧。
(13)^ ﹁最古級の日本全図、室町初期作か﹂﹃YOMIURI ONLINE﹄読売新聞社、2018年6月15日。オリジナルの2018年6月16日時点におけるアーカイブ。
(14)^ 大和岩雄﹃﹁日本﹂国はいつできたか : 日本国号の誕生﹄六興出版︿ロッコウブックス﹀、1985年7月。
(15)^ 赤松文之祐﹁扶桑国論--日本古代史への挑戦﹂﹃現代の眼﹄ 18巻、4号、1977年4月、266 - 276頁。
(16)^ いき一郎﹃扶桑国は関西にあった : 中国正史の倭国九州説﹄葦書房、1995年8月。ISBN 4751206079。
(17)^ “和漢三才圖會 巻之十四 外夷人物”. 近代デジタルライブラリー. 2011年11月6日閲覧。
(18)^ 高橋竜雄﹃大日本国号考﹄同文館、1900年、61-64頁。
外部リンク[編集]
- 扶桑国探検 原田実 - ウェイバックマシン(2002年6月9日アーカイブ分) - 原田実によるweb
- 壱岐一郎 (2000-03-31). “『日本書紀』のメディア定着批判 : 6世紀の中国記録「扶桑国」をめぐって Media Portrayals of the "Nihon-Shoki" : Debate over the Sixth Century Chinese Records of "Fu-sang Guo"”. 沖縄大学人文学部紀要 1: 19-28. NAID 110000038146.
- 宝賀寿男 扶桑国の歴史的地理的な位置づけ - ウェイバックマシン(2005年4月15日アーカイブ分)