朝融王妃知子女王
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朝融王妃 知子女王 | |
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久邇宮妃 | |
続柄 | 伏見宮博恭王第3王女子 |
全名 | 知子(ともこ) |
身位 | 女王・王妃 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1907年5月18日 日本・東京府東京市麹町区 (現:東京都千代田区紀尾井町)伏見若宮邸 |
死去 |
1947年6月28日(40歳没) 日本・東京都 |
埋葬 |
1947年7月5日 日本・東京都文京区、豊島岡墓地 |
配偶者 | 久邇宮朝融王 |
子女 |
久邇正子(正子女王) 島津朝子(朝子女王) 久邇邦昭(邦昭王) 酒井通子(通子女王) 木下英子(英子女王) 久邇朝建(朝建王) 古河典子(典子女王) 久邇朝宏(朝宏王) |
父親 | 伏見宮博恭王 |
母親 | 博恭王妃経子 |
朝融王妃 知子女王︵あさあきらおうひ ともこじょおう、1907年︿明治40年﹀5月18日 - 1947年︿昭和22年﹀6月28日︶は、日本の皇族。伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子。久邇宮朝融王の妃。香淳皇后の義姉。
生涯[編集]
1907年︵明治40年︶5月18日午前10時45分、伏見宮博恭王と同妃経子の第3王女子︵第6子︶として誕生。15分先に生まれた敦子女王︵清棲幸保伯爵夫人︶とは一卵性の双生児姉妹である。なお、後から生まれたほうを兄または姉とする風習もあるが、出生順通り、先に生まれた敦子女王が姉である[1]。双生児であることは誕生当初から公表され[2]、2人は引き離されることなく、ともに養育された。1925年︵大正14年︶に結婚し、朝融王妃となる。1947年︵昭和22年︶、皇籍離脱の約4か月前に40歳で薨去。栄典[編集]
●1925年︵大正14年︶1月21日 - 勲二等宝冠章[3] ●1935年︵昭和10年︶2月8日 - 勲一等宝冠章[4] ●1940年︵昭和15年︶8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[5]血縁[編集]
●父‥伏見宮博恭王 ●母‥徳川経子︵徳川慶喜9女︶ ●兄弟‥博義王 - 恭子女王 - 博忠王 - 博信王 - 敦子女王 - 知子女王 - 博英王 ●夫‥久邇宮朝融王 ●子‥ ●第1王女‥正子女王︵1926年 - ︶ - 龍田徳彦伯爵に降嫁。後、離婚。 ●第2王女‥朝子女王︵1927年 - 1964年︶ - 島津齊視男爵と結婚。 ●第1王子‥邦昭王︵1929年 - ︶ ●第3王女‥通子女王︵1933年 - ︶ - 酒井省吾と結婚。 ●第4王女‥英子女王︵1937年 - ︶ - 木下雄三と結婚。 ●第2王子‥朝建王︵1940年 - ︶ - 西村俊一長女の櫻子と結婚。 ●第5王女‥典子女王︵1941年 - ︶ - 古河潤之助男爵と結婚。 ●第3王子‥朝宏王︵1944年 - ︶ - 宮澤吉弘長女の澄子と結婚。脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 久邇宮家御家族の写真アルバム (日本語)
- 伏見宮家御家族の写真アルバム (日本語)