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●父は木下衛門、母は米子[1]。
●弟の木下真弘︵梅里、1823-1897︶は明治時代に官吏となって教部省や内閣修史局に勤めた[1]。
●次弟の木下助之は初代熊本県議会議長・玉名郡長経て衆議院議員[1]。
●長男の木下重三(1843-1925)が家督を継いだ。
●次男の木下広次(1851-1910)は京都帝国大学初代総長。妻は叔父・助之の娘ツネ。子に木下正雄︵東京工業大学教授︶、木下道雄、トネ︵鈴木貫太郎の弟・鈴木三郎妻︶。
●三男の木下哲三郎︵1853-1907︶は司法省法学校でフランス法学を学び、司法官となった。大津事件の裁判では大審院判事を務めた。長女のムメは東京帝大工科大学教授で建築学者の柴田畦作の妻[2][3]。
●長女の鶴は井上毅の後妻となり、その長女は井上匡四郎と、三女は山田正三と結婚した。
関連資料[編集]
●鈴木喬編﹃熊本の人物﹄熊本日日新聞社、1982年、182-183頁
●熊本日日新聞編纂・発行﹃熊本県大百科事典﹄、1982年、197頁
●熊本教育振興会編﹃肥後の人物ものがたり﹄熊本教育振興会、1988年、122頁