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初代桂 文治郎︵かつら ぶんじろう、1878年 - 1948年6月2日︶は、上方噺家。本名: 飯田 竹治郎。
大阪市中央区高津の銀細工職人の家に長男として生まれる。
3代目桂文三の芸に憧れ、18歳で稽古屋通いをはじめ、その後に落語家を志す。
3代目笑福亭松鶴門下に入り笑福亭松葉を名乗る。
後に一座を組み地方廻りに転じたが、やがて2代目桂梅枝門下に移り枝吉。
梅枝の死後、5代目林家正三門下に移り正朝と、師匠を転々とする。
最後に2代目桂文團治門下となり、桂小圓治となる。
1912年に上京した際、東京に三遊亭小圓治がいたので紛らわしいため、文治郎に改名。
美声の持ち主で、若年時から稽古屋通いをしており、文治郎となる以前は専ら音曲師として活躍していた。その後、三友派内で軽視されていることに不満を持ち、草創期の吉本興業・花月派に移籍。素噺に転じて以降は、中堅所として人気を得た。
﹃立ち切れ線香﹄を演じた際、お茶屋のおかみさんからただで宣伝してくれると感謝された。
また1928年の昭和天皇の御大典記念観兵式で秩父宮、高松宮、賀陽宮の前で﹃義太夫息子﹄を演じ﹁私ら下々のものはカカアのこと、いや妻のことをオイと申します…﹂とやって、彼らに大うけし、後にそれを自慢をしていた。
﹃親子茶屋﹄﹃立ち切れ線香﹄﹃仕込みの大砲﹄﹃百年目﹄などの茶屋噺で人気を集め、他にも﹃欲の熊鷹﹄﹃軒付け﹄﹃お文さん﹄などが十八番だった。晩年は新世界花見小路で料亭﹁十郎﹂を営みながら寄席に出ていた。
- 月亭春松(編)『落語系圖』[要文献特定詳細情報] - 表記が「文次郎」となっているが、誤植か。
- 諸芸懇話会・大阪芸能懇話会(共編)『古今東西落語家事典』平凡社、1989年)
- 『笑根系図』(私刊)、1961年
- 『古今東西噺家紳士録』[要文献特定詳細情報]