植田平太郎
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うえた へいたろう 植田 平太郎 | |
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生誕 |
1877年(明治10年)8月14日 愛媛県香川郡池西村 |
死没 | 1949年(昭和24年)7月25日 |
国籍 | 日本 |
著名な実績 | 昭和天覧試合3回出場 |
流派 |
天真正伝神道流剣術 無双神伝英信流抜刀術 無双神伝抜刀術兵法 |
肩書き | 大日本武徳会剣道範士、居合術教士 |
子供 | 植田一 |
植田 平太郎︵うえた へいたろう、1877年︿明治10年﹀8月14日[1] - 1949年︿昭和24年﹀7月25日[1]︶は、日本の剣道家。流派は天真正伝神道流剣術、無双神伝英信流抜刀術、無双神伝抜刀術兵法。称号は大日本武徳会剣道範士、居合術教士。
昭和天覧試合3回出場。大日本武徳会香川支部、香川県警察部、高松監獄署、高松高等商業学校、高松商業学校、高松第一中学校の剣道師範を務めた。
生涯[編集]
青年期[編集]
愛媛県香川郡池西村︵現香川県高松市︶生まれ。父与佐衛門は天真正伝神道流剣術に堪能で、農業のかたわら自宅に道場を開いていた。平太郎は14歳から与佐衛門に天真正伝神道流剣術を学び、30歳のとき皆伝を授かった。また、16歳から叔父の酒井親時に宅間当流柔術を学んだ。 1896年︵明治29年︶から四国一円を武者修行する。1905年︵明治38年︶1月、京都の大日本武徳会本部講習生となり、同年5月に帰郷した。試合記録[編集]
●1907年︵明治40年︶10月、高知県で開かれた剣道大会で27人を勝ち抜き優勝。全国に名前が広まったという。 ●1929年︵昭和4年︶5月、御大礼記念天覧武道大会に指定選士として出場。リーグ戦で堀田徳次郎、中野宗助、橋本統陽を破り決勝トーナメントに進出し、準々決勝で堀正平を破る。準決勝で持田盛二に一本先取するも敗れた。 ●1934年︵昭和9年︶5月、皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会特選試合︵模範試合︶に出場し、大島治喜太との試合を披露した。 ●1936年︵昭和11年︶8月、若手の実力者中倉清が香川に来訪したので、中倉に一週間稽古を付けた。 ●1940年︵昭和15年︶6月、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会特選試合︵模範試合︶に出場し、渡辺栄との試合を披露した。居合[編集]
1919年︵大正8年︶、高知の細川義昌に入門して無双神伝英信流抜刀術︵居合︶を学ぶ。同門には中山博道がいた。1923年︵大正12年︶、細川から免許皆伝を授かった。無双神伝抜刀術兵法17代目を継承し、1949年︵昭和24年︶7月25日、尾形郷一貫心に18代宗家を紹統允可した。死後[編集]
1974年︵昭和49年︶2月23日、香川県知事金子正則が祭主となり、﹁植田平太郎之命﹂︵ウエダヘイタロウノミコト︶として香川県善通寺市讃岐宮に祀られた。香川県では現在も﹁植田平太郎範士杯﹂争奪剣道大会が開かれている。 三男の植田一は全日本剣道選手権大会準優勝などの実績を残し、範士九段まで昇段した。段位称号[編集]
- 1911年(明治44年)、大日本武徳会剣道精錬証
- 1919年(大正8年)6月、大日本武徳会剣道教士
- 1923年(大正12年)、無双神伝英信流抜刀術免許皆伝
- 1930年(昭和5年)5月、大日本武徳会剣道範士
- 1931年(昭和6年)5月、大日本武徳会居合術教士[2]
脚注[編集]
- ^ a b 『剣道事典 技術と文化の歴史』336頁。
- ^ 『武道範士教士錬士名鑑. 昭和12年』 - 国立国会図書館デジタルコレクション