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橘 正遠︵たちばな の まさとお︶は、南北朝時代の軍事官僚。建武の新政で武者所に務めた。軍記物﹃太平記﹄では、彼をモデルにしたと思われる和田 正遠︵わだ まさとお︶、もしくは和田 正隆︵わだ まさたか︶、通称五郎︵ごろう︶という武将が、楠木正成の配下として登場し、正成の弟正季と並ぶ片腕として活躍する。
元弘の乱で鎌倉幕府に勝利した後醍醐天皇が、元弘3年/正慶2年︵1333年︶6月に建武の新政を開始すると、復活した︵事実上の新設︶軍事政務機構である武者所の官僚に抜擢される︵﹃建武記﹄︶。全六番のうち所属は五番で、楠木正成と同じである。武者所全65名のうち、彼のみ無位無官であり、かなり異様な存在である。
表には﹁橘正遠﹂とあるのみだが、多くの人物が本姓で記されているため、正遠は一応楠木氏︵もしくはその同族の河内和田氏︶の人と見ていいとは考えられる。同族では楠木正家が常陸国︵茨城県︶という遠方に派遣される一方で、橘正遠は中央政権での勤務に選ばれているから、正遠は史実でも正成の片腕的存在だったのだろう。
なお、﹃尊卑分脈﹄所収﹃橘氏系図﹄では、楠木正成の父の名前も橘正遠︵楠木正遠︶とされるが、正成父との関係は不明。正成父は家系図によって名前が大きく違う。
大正3年︵1914年︶11月19日、贈正四位[5]。
﹃太平記﹄[編集]
軍記物﹃太平記﹄での初登場は、巻3﹁赤坂城軍の事﹂︵流布本︶で、楠木正成の挙兵に当初より従い、元弘元年︵1331年︶9月11月ごろより始まった赤坂城の戦いに参戦。正成の弟楠木正季と共に300余騎を従えて城の側の山にひそみ、時期を見計らって正季と共に遊撃兵を二手に分け、赤坂城に引きつけられた敵を、側面から奇襲して蹴散らすという武功をあげる。
その後、楠木正成が元弘の乱に勝ち鎌倉幕府が崩壊すると、後醍醐天皇が建武の新政を開始するが、天皇と足利尊氏との対立から延元の乱が発生してしまう。
そして、戦局は二転三転したが、後醍醐天皇側不利の状況で開戦した建武3年/延元元年5月25日︵1336年7月4日︶の湊川の戦いで、正成は700余騎が73騎になるまで奮戦したが、ついに覚悟を決めて弟の正季や腹心の武将たちと共に自害した︵流布本巻16﹁正成兄弟の討死の事﹂︶。正成と共に殉死した武将の中に﹁和田五郎正隆︵わだごろうまさたか︶﹂という名前があり、徳川光圀﹃大日本史﹄はこれを正遠と同人物であるとしている。
- ^ 妻木忠太 編『維新後大年表』有朋堂書店、p.423(1925)