正岡容
正岡 容︵まさおか いるる、1904年︵明治37年︶12月20日 - 1958年︵昭和33年︶12月7日︶は、日本の作家、落語・寄席研究家。歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎の座付作者ともいわれた。前名は平井 蓉︵ひらい いるる︶。
詩人の平井功(1907〜32)は実弟。翻訳家の平井イサクはその子で、正岡にとっては甥にあたる。
来歴[編集]
東京市神田区︵現在の東京都千代田区神田︶生まれ、医師平井成の長男。3歳の時、浅草花川戸に住む大叔父・正岡藤蔵家にあずけられる[1]。そのまま育てられて1910年︵明治43年︶12月27日、正岡家の養子に入る[1][2]。 京華中学校在学中、短歌を吉井勇、戯曲を久保田万太郎、川柳を阪井久良伎に学び、それぞれの弟子を自称する。1922年︵大正11年︶ 、日本大学芸術科選科入学[1]。歌集﹃新堀端﹄、小説紀行集﹃東海道宿場しぐれ﹄を発表。1923年︵大正12年︶、﹃文藝春秋﹄に発表した小説﹃江戸再来記﹄が芥川龍之介に絶賛されたのを機に文筆活動に入り、大学は中退する。8月、﹃東邦芸術﹄の同人となる[1]。 同年9月、関東大震災に遭遇し関西へ放浪の旅へ。1925年︵大正14年︶の秋に三代目三遊亭圓馬夫妻の紹介で石橋幸子と結婚し、大阪市に居住。圓馬に師事して﹁文士落語﹂﹁漫談﹂で各所に出演し活躍し、文筆でも﹃新小説﹄に﹁明治開花期の落語について﹂を発表するなど執筆量も増加した。のち、記者時代の真杉静枝と恋に落ちて情死を図ったが未遂に終わる。北村兼子とともに、掛け合い漫談をレコードに吹きこんだこともある。 1929年︵昭和4年︶、大阪で知った女性と小田原に移住。翌年、名古屋で﹁文芸落語発表会﹂を開催。この頃、まだ次郎時代の二代目玉川勝太郎に﹁蛇園村の切込﹂︵﹃天保水滸伝﹄︶の台本を提供[3]。以後、勝太郎とは二人会を開くなど、親交を深める[4]。 1931年︵昭和6年︶、東京市滝野川区西ケ原に移転。1933年︵昭和8年︶、名を蓉から容に改める。1935年︵昭和10年︶、西尾チカと結婚し、小岩で所帯を持つ。この年、小島政二郎に入門して小説を再修業[1]。1937年︵昭和12年︶、勝太郎に﹁平手造酒の最後﹂﹁笹川の花会﹂︵﹃天保水滸伝﹄︶などの台本を提供[5][6]。﹁〽利根の川風袂に入れて﹂で始まる外題付けは勝太郎の名調子もあって全国津々浦々に広まった。 1941年︵昭和16年︶、舞踏家の花園歌子と結婚し、大塚巣鴨に転居。太平洋戦争の直前、雑誌﹃日の出﹄に発表した﹃圓太郎馬車﹄が古川緑波主演により舞台化、1941年(昭和16年)4月に有楽座で上演される。 その後も、江戸期の戯作本の研究から明治大正期の寄席芸能に関する論文やエッセイ、自作の落語の台本を精力的に発表する。浪曲でも初代相模太郎に﹃灰神楽三太郎﹄の台本を提供したのをはじめ、複数の台本を提供している。また﹃圓太郎馬車﹄に引き続いて﹃日の出﹄に発表した﹃浪花節更紗﹄は吉川繁吉︵後の桃中軒雲右衛門︶が梅車の妻おはまと駆け落ちの際、捨てられた弟子・後の木村重松に材を取った短編小説である。 1945年︵昭和20年︶、東京大空襲により自宅が全焼し、その年の11月、阪井久良伎の紹介により市川市に移住、1953年︵昭和28年︶10月まで住んだ。この間、﹃天保水滸伝﹄の舞台である下総一帯を頻繁に訪れている[1][7]。 1958年︵昭和33年︶12月7日、頚動脈破裂のため慶應義塾大学病院で死去。死の数日前に詠んだ辞世の歌に﹁打ち出しの 太鼓聞えぬ 真打は まだ二三席 やりたけれども﹂。墓所は台東区玉林寺、戒名は﹁嘯風院文彩容堂居士﹂[1]。人物[編集]
喜怒哀楽が激しく、賑やかな人柄と、類のない独特の笑い方から﹁ジャズ﹂という綽名があった。無類の酒好きでわがままな性格、酒癖の悪さも有名だった。妻は体調と世間体を気にして酒に水を混ぜていたが、本人も﹁増量﹂のためサイダーをよく混ぜていたという。機嫌が良い時は自分が所蔵する演芸レコードを弟子に聴かせ[8]、機嫌が悪い時は弟子を破門したり、友人と絶交したりすることは日常茶飯事だったが、しかしすぐに心変わりして仲直りした。桂米朝とは親密な仲で、関西が拠点だったためか破門したことは一度もなく、何かあることに手紙を送るほどだった。 大阪から東京に戻る際、小田原に在住していた売れない噺家ふたりと共同生活し、原稿を東京に送って暮らしていた。だが貧窮極まり、飼っていた3匹の犬が次々に餓死したほどだった。そのためか、戦後は猫を何匹も飼っていたが、食事中に猫が物をほしがると、自分が食べているものを手に吐いてそれをやるほどの気の遣いようだった。正岡の懐事情が改善することはついになく、楽屋に出入りして﹁センセイ﹂と呼ばれるようになっても、陰では﹁セコ正﹂とよばれるほどの倹約家だった。 大正末から昭和初期にかけて、自身で落語を十数枚のSPレコードに吹き込んでいる。そのレコードを愛好していつも聞いていた大阪のカフェーの女を、一時妻にしていたこともある。 その性格から文壇では孤立した存在だったが、若い時分からの寄席通であり、落語、講談、浪曲などの大衆芸能の啓蒙に努めた。特に戦中戦後の重苦しい時勢の中で、精力的に著述や研究会などを行い、当時の知識人や学生に寄席の魅力を広めた功績は大きい。 東京生まれだが、大阪にも長く住んでいたため東西の芸能には精通しており、五代目笑福亭松鶴、四代目桂米團治らと上方落語の復興を推進。上方落語を東京へ紹介するとともに、吉本興業の林正之助には漫才偏重方針を批判する書簡を送った。なお、米朝の落語界入りも正岡の強い勧めによるものである。また、自著﹃初代桂春團治研究﹄︵1942年︶で、当時邪道とされていた初代桂春團治の芸をいち早く評価している。交友[編集]
作家としては、永井荷風、岡本綺堂、吉井勇らの影響を受けており、大泉黒石、稲垣足穂、徳川夢声らと交友があった。また弟子には小沢昭一、大西信行、永井啓夫、三代目桂米朝、鶯春亭梅橋[9]、初代金原亭馬の助[9]、都筑道夫、加藤武、小島貞二などがいる。五代目古今亭今輔の﹃お婆さん落語﹄の台本を書いた﹁鈴木みちを﹂は京華中学校時代の同級生[10]。 正岡は永井荷風を崇拝していたが、その永井がしばしば正岡宅を訪れるようになり、正岡は驚喜した。しかし永井は、実は妻の花園歌子が目当てだったという。 三代目三遊亭圓馬に師事して親子のように交流。多くの演目を物にしており、高座にも上がっている。 安藤鶴夫とはライバルで、犬猿の仲だった。ある雑誌の座談会の帰途、酔って安藤に暴力をふるったこともある。正岡の死後、安藤が﹃巷談本牧亭﹄で直木賞を受賞したとき、正岡の弟子たちは﹁先生が生きておられたら、荒れて荒れてたいへんだったろうなあ﹂と安堵したほどだったという。 玉川太郎︵初代玉川勝太郎の弟子。のちの小金井太郎︶という浪曲師を評価していて、自分の貸家の二階を彼にまた貸ししていた。だが正岡は家賃滞納で、玉川には内緒で夜逃げ同然の引越をした。玉川は怒りのあまり酒に酔って、引越し先に刃物を持って乗り込む大騒ぎになっている。 その弟弟子の玉川次郎︵のちの二代目玉川勝太郎︶には﹃天保水滸伝﹄をはじめ多くの浪曲台本を提供した。勝太郎が昭和29年に書いたコラムによれば﹁それから彼は僕のために﹁西部戦線異常なし﹂だとか﹁切られお富﹂だとかたくさんの台本を書いてくれ、大トランクいっぱいになっている﹂[11]。また昭和19年に刊行された﹃雲右衛門以後﹄の扉絵は勝太郎が描いており、正岡はあとがきで﹁私の多難な小説道修業に多くの友情を注いで呉れてゐたそのころの厚誼を記念し度く玉川勝太郎君には、扉絵を描いて貰った﹂[12]とその思いを綴っている。 三代目三遊亭圓歌は弟子ではないが、死後記念碑を建てる際に資金の寄付を行なったので記念碑には弟子らと共に彼の名が刻まれている。圓歌自身も正岡の弟子だと公言している。評価[編集]
●あんなに寄席というもののすきなひとを、わたしは知らない。その点、わたしなんか、正岡容の、百分の一、千分の一、といっていいだろう。文学もむろん好きだったけれど、やっぱり寄席を愛して上の、あくまで、そういう市井の文学を愛した気配がある。寄席の楽しさを、寄席の抒情を、正岡容くらい、正直な感傷的なことばで、たたえ、書いた人もほかにはない。︵安藤鶴夫︶[13]
●正岡容を大きく評価したいのは、戦中戦後にかけて、学生層を含めて若い人々に、また、いわゆるインテリ層へ、寄席、落語への興味をもたせたこと・・・戦後間もない各大学の落語研究会は、多かれ少なかれ、みな正岡容の影響を受けている。落語はもとより、講談、浪曲、寄席演芸の味わい方をいろんな文章で示し、これらを読んだ読者の足を実際に寄席に運ばせた。これは凄いことである。︵三代目桂米朝︶
●安藤鶴夫ことアンツルさんの強烈な好き嫌いが正岡にはなく、正岡容の芸と芸人に対するふところの深さが・・・若者たちまで受け入れて﹁むかしの寄席にも三語楼や小勝がいたよ﹂と、やさしく笑顔で話しかけてくれる正岡はとっつきのいい先生で、この人ならなんでも訊ける安心感が嬉しかった。︵大西信行︶
●崩れ行く江戸市井の芸能のために先生がつくされた業績はまことに大きく尊いものといわなけらばならない。︵永井啓夫︶