浅原六朗
浅原 六朗 | |
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1930年刊行『霧の夜の客間』近影 | |
ペンネーム | 浅原 鏡村 |
誕生 |
1895年2月22日 長野県北安曇郡池田町村 |
死没 |
1977年10月22日(82歳没) 長野県北佐久郡軽井沢町 |
職業 | 小説家、作詞家、俳人、大学教授 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 早稲田大学英文科卒業 |
文学活動 | モダニズム、人間俳句 |
代表作 | 「てるてる坊主」 |
主な受賞歴 | 児童文化功労者(1965年) |
デビュー作 | 『鳥籠』(1918年) |
浅原 六朗︵あさはら ろくろう、1895年2月22日 - 1977年10月22日︶は、日本の小説家、作詞家、俳人、大学教授。
代表作は﹁ある自殺階級者﹂﹁H子との交渉﹂﹁混血児ジヨオジ﹂など。童謡﹁てるてる坊主﹂の作詞者、浅原鏡村としても知られる。
1982年︵昭和57年︶3月27日 てるてる坊主の館浅原六朗文学記念館が竣工。同年6月1日に開館となった[1][2]。館内には浅原六朗の蔵書・ノートに書かれた青春日記・交友のあった作家たちの書簡及び写真、自筆の書や筆記用具なども展示されている。また、隣接する池田町文化財資料館にも﹁町ゆかりの文学者﹂として紹介されており[3]、長野県池田町を代表する文学者である。
てるてる坊主の館浅原六朗文学記念館︵正面玄関天井︶
てるてる坊主の館浅原六朗文学記念館︵外観︶
また、町役場の屋上で鳴らされていたサイレンも、﹁てるてる坊主﹂のメロディーに替わった[4]。
来歴[編集]
長野県北安曇郡池田町村の酒造業﹁飯田屋﹂の四男として生まれる。父の慈朗が牧師をしていた福島県石城郡平町︵現・いわき市︶へ移る。1919年早稲田大学英文科卒。実業之日本社に入社。1928年に退社し、作家に専念する。 1930年、新興芸術派倶楽部の結成に参加[5]、モダニズム文学の作家として活躍。のち久野豊彦と新社会派を称する。その後、通俗小説、少年読み物を書く。1934年日本大学藝術学部講師、のち教授。1968年帝京大学文学部教授。 ﹁てるてる坊主﹂などの童謡を浅原鏡村の名で作詞した。また大正末期から昭和の初めにかけて、プロレタリア文学の台頭に反対する新興芸術派の有力な働き手として、モダニズム文学運動の一翼をになった[6]。 晩年は横光利一の勧めで俳句も始め、﹁人間俳句﹂を提唱、﹁俳句と人間の会﹂を主宰した[7]。 1977年、長野県軽井沢町の病院で脳血栓で死去[7]。年譜[編集]
●1895年︵明治28年︶- 2月22日、長野県北安曇郡池田町一丁目、造り酒屋﹁飯田屋﹂の長男として生まれる。父慈朗、母たき。[8] ●1900年︵明治33年︶- 父が事業に失敗、家の没落により一家上京。六郎のみ旧八坂村の丸山徳弥(叔母の家)に引き取られる。 ●1908年︵明治41年︶- 福島県平町で牧師をしていた父の許に移りミッションスクールに入学。 ●1916年︵大正5年︶- 早稲田大学文学部英文学科に入学。 ●1918年︵大正7年︶- 英文学科3年在学中、雑誌﹁大観﹂に小説﹁鳥籠﹂を処女作として発表。 ●1919年︵大正8年︶- 早稲田大学文学部英文学科卒業。実業之日本社へ入社。﹁少女の友﹂の主筆となる。深井貞子と結婚。牧野真一らと同人誌﹁十三人﹂を創刊。童謡﹁てるてる坊主﹂を作詞。 ●1921年︵大正10年︶- 童謡﹁てるてる坊主﹂を雑誌﹁少女の友﹂に”鏡村”のペンネームで発表。 ●1924年︵大正13年︶- 父慈朗死去。[9] ●1925年︵大正14年︶- 中村武羅夫が発刊した﹁不同調﹂同人となる。 ●1927年︵昭和2年︶- 小説﹁ある自殺階級者﹂を雑誌﹁新潮﹂に発表、出世作となる。 ●1928年︵昭和3年︶- 実業之日本社を退社。作家活動に入る。 ●1933年︵昭和8年︶- 小説﹁混血児ジョオジ﹂を発表。軽井沢千ヶ滝に山荘を建てる。 ●1934年︵昭和9年︶- 日本大学芸術科の教鞭をとる。 ●1944年︵昭和19年︶- 戦争を倦み筆を折ることを決意。中央林間に疎開。 ●1947年︵昭和22年︶- 3月8日、妻貞子急逝。﹁金色の柩車﹂発表。12月22日、賀川豊彦の媒酌で共立女子大学助教授大倉かつと再婚。 ●1956年︵昭和31年︶- 森脇文庫から﹁名作への招待︵全8巻︶﹂を、河出書房から﹁世界名作物語﹂︵雑誌婦人生活へ約7年間連載したものをまとめ︶を発刊。 ●1957年︵昭和32年︶- ﹁現代日本文学全集﹂︵筑摩書房刊︶に﹁混血児ジョオジ﹂載る。 ●1961年︵昭和36年︶- 松本市城山公園に﹁てるてる坊主﹂の歌碑建立。発起人は下中弥三郎︵平凡社社長︶、西條八十︵詩人︶、増田義彦︵実業之日本社社長︶、山本茂実︵作家︶の各氏。 ●1962年︵昭和37年︶- 池田町﹁向陽会﹂により、童謡碑建立が具体化する。 ●1963年︵昭和38年︶- 池田町下蓮田祖先の墓地に﹁浅原家祖先の墓﹂の墓碑建立。同年9月22日、池田町八幡神社境内において童謡碑﹁てるてる坊主﹂の除幕式が行われる。 ●1964年︵昭和39年︶- 句集﹁紅鱒群﹂発刊。同年3月池田小学校校歌作詞。 ●1968年︵昭和43年︶- 冬樹社より﹁世界名作選集︵全6巻︶﹂発刊。女子聖学院短大教授に就任。 ●1972年︵昭和47年︶- 第二句集﹁欣求鈔﹂発刊。 ●1977年︵昭和52年︶- 10月22日、脳血栓のため軽井沢町立病院で急逝。 ●1982年︵昭和57年︶- 3月27日、浅原六郎文学記念館竣工。6月1日、開館。著書[編集]
編著[編集]
●名作への招待 第1-8集 森脇文庫 1956-1957 ●世界名作物語 第1 1956 (河出新書) ●世界名作選集 ダイジェスト版 第1-6 冬樹社 1965-1966脚注[編集]
参考[編集]
- 「浅原六朗選集」第3巻の主要著作年譜(p520~)、年譜(p528~)