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牧野 貞喜︵まきの さだはる︶は、常陸笠間藩の第3代藩主。成貞系牧野家6代。
宝暦8年︵1758年︶8月6日、第2代藩主・牧野貞長の長男として生まれる。宝暦14年︵1764年︶1月11日に貞喜と名乗る。安永3年︵1774年︶に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。寛政4年︵1792年︶3月21日、父の隠居で家督を継ぎ、3月22日に備中守に遷任する。寛政5年︵1793年︶3月7日に日向守に遷任する。12月16日には奏者番に任じられた。
この頃の笠間藩牧野家では、父の時代からの藩財政悪化により、重税を行ない、さらに天明の大飢饉による被害などで農村は荒廃し、人口も減少していた。このため、貞喜は藩政再建のために藩政改革に乗り出す︵寛政改革︶。良水という僧侶を登用して、家臣の俸禄削減や倹約令の徹底、年貢収納の強化、北陸地方の農民移住の奨励などを行なったのである。これらは一定の成果を挙げたが、北陸の農民を移住させたことが加賀藩の怒りを買い、そのため文化5年︵1808年︶に良水は自害に追い込まれた。これにより、改革は一時的に停滞する。
文化6年︵1809年︶、貞喜は川崎頼母を登用して新たな藩政改革に乗り出した︵化政改革︶。農村支配の強化や次男・三男の分地・分家取立てによる人口増加、窮民への資金融資、出生や多子を持つ親への褒賞、勧婚などを行なったのである。さらに農業以外にも分業を奨励し、囲米なども行なった。また藩校・時習館を創設して優秀な人材を積極的に登用し、藩士の意見を広く取り立てるために上書の制を採用した。これらは笠間藩の再建に大きく効果を挙げている。
文化14年︵1817年︶10月21日、足病を理由に家督を次男の貞幹に譲って隠居する。以後も藩政の実権を握って改革を推進しながら、俳諧の世界に入って江戸可因に師事し、﹁菊畠﹂などの作品を残している。文政5年︵1822年︶10月17日に死去、享年65。
●牧野氏の歴代藩主の中でも随一の名君であり、当時から中興の英主として評価された。
●多芸な大名で、作陶を趣味とし、自ら城内で御庭焼を行った。また政策としても窯業を奨励し、笠間焼を発展させた。
●俳句を能くした。笠間城址には﹁布里む久盤 啼く児能親可 田宇ゑ笠﹂︵ふりむくは なく子の親か 田植笠︶という句碑が建っている。この石碑は、笠間藩最後の藩主となった牧野貞寧が明治19年︵1886年︶に建てたもの。
●大正7年︵1918年︶には笠間の殖産興業化を図り、治水や文化面でも大いに功績を残したことを評価されて、時の政府より従三位を追贈された。
父母
●牧野貞長︵父︶
●松平乗佑の次女︵母︶
正室
●寛 - 伊達村候の娘
側室
●間宮氏
子女
牧野家 笠間藩3代藩主 (1792年 - 1817年) |
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松井松平家 |
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小笠原家 |
- 小笠原吉次1608-1609
- 私曲連座により、改易
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戸田松平家 |
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永井家 |
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浅野家 |
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井上家 |
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本庄家 |
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井上家 |
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牧野家 |
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