牧野貞一
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牧野貞一 | |
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時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化12年5月21日(1815年6月28日) |
死没 | 天保11年11月27日(1840年12月20日) |
改名 | 知与丸(幼名)、貞一 |
戒名 | 恭明院殿賢俊道哲大居士 |
墓所 | 東京都墨田区千歳の要津寺 |
官位 | 従五位下、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 常陸国笠間藩主 |
氏族 | 牧野氏 |
父母 | 父:牧野貞幹、母:昭(池田治道の娘) |
兄弟 | 廉次郎、貞一、康哉、松平忠粛、貞観、貞勝 |
妻 |
正室:美(有馬頼徳の娘) 側室:栄子(野村氏) |
子 | 貞久、藤之丞、養子:貞勝 |
牧野 貞一︵まきの さだかつ︶は、常陸笠間藩の第5代藩主。成貞系牧野家8代。
生涯[編集]
文化12年︵1815年︶5月21日、第4代藩主・牧野貞幹の次男として生まれる。文政2年︵1819年︶11月25日に貞一と名乗った。文政11年︵1828年︶に父が死去したため家督を継ぎ、12月25日に江戸城桜田門番を勤めている。文政12年︵1829年︶12月16日に従五位下・越中守に叙位・任官された。 積極的な藩政改革に乗り出し、農民の食糧確保や米の買い入れ、藩内の穀物調査や囲米の強化、上層農民からの借上、農業奨励による再生産の維持など、主に自給自足体制を整えるための政策を行なっている。この政策のおかげで、天保の大飢饉では被害を最小限で乗り切ることに成功した。天保6年︵1835年︶には藩士の練士場を創設して訓練を行なうなど、藩政の立て直しに辣腕を振るっていたが、天保11年︵1840年︶11月27日に死去した。享年26。 子の貞久は幼少のため、弟の貞勝が養子となって跡を継いだ。系譜[編集]
父母 ●牧野貞幹︵父︶ ●昭 - 池田治道の娘︵母︶ 正室 ●美 - 有馬頼徳の娘 側室 ●野村栄子 子女 ●牧野貞久︵長男︶ 生母は栄子 ●牧野藤之丞 養子- 牧野貞勝 - 貞幹の子