甘露寺親長

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甘露寺親長
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 応永31年(1424年
死没 明応9年8月17日1500年9月10日
改名 めめ(幼名)→親長→蓮空(法名)
別名 一字名:鬼
官位 正二位権大納言
主君 後花園天皇後土御門天皇
氏族 甘露寺家
父母 父:甘露寺房長
兄弟 親長、良助、三条西公保
氏長元長、了淳、長深、親子、真盛、朝子、冷泉局
養子:利貞尼
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西

脚注[編集]

  1. ^ 『看聞日記』に「めめ丸」「目々丸」、また「賀々丸」、『建内記』永享11年6月9日条異本に「女々」と見える。
  2. ^ 井原、2014年、P292-295
  3. ^ 『親長卿記』文明3年4月26日条。親長によれば、(応仁の乱最中で)洛中の治安悪化と政治情勢の混乱で拝賀も朝儀自体も行えないこと、そして洛中を歩行して通行する(牛車で参内できない)のは見苦しいことを挙げている(桃崎有一郎『中世京都の空間構造と礼節体系』思文閣出版、2010年、P284)。
  4. ^ 『親長卿記』文明18年2月13日条・『実隆公記』及び『十輪院内府記』同年2月19日条。今泉淑夫は文明18年2月19日の供養歌会が、先の文明15年の遣明船で渡航した息子・江南院龍霄が帰国した直後に行われていることに注目し、『源氏物語』の書写が異国に旅立った息子の無事を祈ったもので、歌会はその満願成就を祝ったものであったと推測している。
  5. ^ 親長の妻は「南向」と称され、『親長卿記』文明15年9月17日に石山寺参詣の折に親長の元に立ち寄った美濃持是院(斎藤妙純)の妻女を「南向親類」と記している(井原、2014年、P203)。

参考文献[編集]