祝町 (新潟市)
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祝町 | |
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元祝町方から見た祝町。昭和後期から平成期に建設された30坪程の低層住宅が大半を占める。祝町を含めた一帯は沖積平野のため高低差のない平坦な地形になっている。 | |
北緯37度56分0.53秒 東経139度3分4.39秒 / 北緯37.9334806度 東経139.0512194度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 新潟県 |
市町村 | 新潟市 |
区 | ■ 中央区 |
人口 | |
• 合計 | 75人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
951-8074[2] |
市外局番 | 025 (新潟MA)[3] |
ナンバープレート | 新潟 |
祝町︵いわいまち︶は、新潟県新潟市中央区の地名。丁番を持たない単独町名であり、住居表示未実施区域[4]。郵便番号は951-8074[2]。
地理[編集]
信濃川河口付近左岸を占める古町通の下手︵北側︶にあたる下町︵しもまち︶と呼ばれる旧市街地の一角であり、住宅地が大半を占める。東で浮洲町、西で元祝町、南で横七番町通、北で寿町と隣接する。元祝町から浮洲町へ抜ける120メートルほどの一方通行道路を中心とした市街地である。東端付近の丁字路から伸びる道は寿小路と呼ばれる。歴史[編集]
付近の土地は信濃川の土砂堆積によって江戸時代に出来た低地であり [5] 、江戸期初めには洲崎町と呼ばれた町の外れであった[6]。享和元年︵1801年︶の絵図には、町の南方を走る熊谷小路︵現在の横七番町通︶に新洲崎町の名が見える[7]。[注 1] 宝暦10年︵1760年︶、長岡藩は寛保2年︵1742年︶に長岡から新潟に移転してきた願随寺︵がんずいじ、元祝町︶へ付近一帯の土地を与えた。願随寺は社領の一部を町人へ貸し出し、ここで祝町の原型が形成された。寺の土地に住む者は門前名子と呼ばれ、湊が近かったためか漁師等の船乗稼業を生業とする住人が多かった[6]。[注 2] 1879年︵明治12年︶から新潟区、1889年︵明治22年︶からは新潟市の一部となった[8]。年表[編集]
●1879年︵明治12年︶4月9日 : 新潟町の区制移行により、新潟区の町丁となる。 ●1889年︵明治22年︶4月1日 : 新潟区の市制施行により新潟市の町丁となる。 ●2007年︵平成19年︶4月1日 : 新潟市の政令指定都市移行により、中央区の町丁となる。世帯数と人口[編集]
2018年︵平成30年︶1月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
祝町 | 42世帯 | 75人 |
小・中学校の学区[編集]
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[9]。
番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 新潟市立日和山小学校 | 新潟市立新潟柳都中学校 |
脚注[編集]
- 注釈
- 出典
(一)^ ab“住民基本台帳人口 ︵全市・区役所・町名別︶ - 町名別住民基本台帳人口”. 新潟市 (2018年2月13日). 2018年3月5日閲覧。
(二)^ ab“郵便番号”. 日本郵便. 2018年3月5日閲覧。
(三)^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年3月5日閲覧。
(四)^ “町名一覧表”. 新潟市 (2017年7月20日). 2018年3月5日閲覧。
(五)^ 治水地図
(六)^ abc新潟市通2、p.64-67
(七)^ 下町あるき
(八)^ ab角川地名15、p.182
(九)^ “通学区域一覧︵町名別五十音索引︶”. 新潟市 (2017年4月1日). 2018年3月5日閲覧。
参考文献[編集]
- 『信濃川下流治水歴史地図』信濃川下流河川事務所、1990年。
- 角川日本地名大辞典 編纂委員会『角川日本地名大辞典 15 新潟県』(株)角川書店、1989年10月8日。ISBN 4-04-001150-3。
- 『新潟市史 通史編2 近世』新潟市、1997年1月31日。
- 上田浩子『新潟下町あるき 日和山登山のしおり 新潟市中央区 みなとぴあ~新潟下町 界隈』新潟市、2010年。