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﹃続古今和歌集﹄︵しょくこきんわかしゅう︶は、鎌倉時代の勅撰集で、二十一代集の第十一番目。全20巻からなり[1]、総歌数1915首︵伝本によって異同がある︶[1]。
撰者の一人である九条基家筆の仮名序と、菅原長成筆の真名序を持つ[1]。歌人を当世と故者に分けて、入集歌数および略伝を附す﹃続古今和歌集目録﹄も2種類伝わる[1]。部立は、春︵上・下︶・夏・秋︵上・下︶・冬・神祇・釈教・離別・羇旅・恋︵五巻︶・哀傷・雑︵三巻︶・賀である[1]。
御子左家の当主・藤原為家が、正元元年︵1259年︶3月16日に後嵯峨院から勅撰集撰進の命を受けた[1]。ところが、弘長二年︵1262年︶9月後嵯峨院の勅宣により、九条内大臣基家・衣笠内大臣家良・六条行家︵1223-1275︶・葉室光俊︵真観︶の4名が新しく撰者として加わった[1]。鎌倉将軍宗尊親王と懇意だった光俊が為家に対抗するため[1]、あるいは後嵯峨院が﹃新古今和歌集﹄に倣って複数撰者の形式にするためと考えられる[1]。﹃井蛙抄﹄によれば、憤懣やるかたない為家は、4人が加わって以降、撰歌を嫡男為氏に任せたという[1]。文永2年︵1265年︶12月26日に奏覧[1]、同三年三月十二日竟宴。撰者5人のうち、家良は完成を待たず、文永元年︵1264年︶に没した。
代表的な当代歌人は、鎌倉将軍宗尊親王︵67首︶、当時の政界の大老・西園寺実氏︵61首︶、後嵯峨院︵54首︶ら権門の貴顕で、4人の撰者も20首以上入集している︵行家は17首︶[1]。物故者では、﹃新古今和歌集﹄の軸となった藤原定家︵56首︶・後鳥羽院︵49首︶・藤原家隆︵41首︶らが入集している[1]。順徳院︵35首︶より、歌人として劣る土御門院︵後嵯峨院の実父︶の方が3首多く選入されたのは、多分後嵯峨院の意志によるものであろう。
後嵯峨院がどの程度精撰に関与したか不明だが、形式と内容は﹃新古今和歌集﹄を強く意識したものである[1]。そのため、歌風は﹃続後撰和歌集﹄﹃新勅撰和歌集﹄に比べると華麗であるが、古風な傾向も顕著とされる[1]。平安時代の古歌で、この集で初めて勅撰に採録されたものも多数ある。
校訂本[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年4月、406-407頁。