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菅原白龍

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作品[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款 印章 備考
蘇公出遊図 絹本淡彩 1幅 84.7x35.3 長井市立図書館 1871年(明治4年)
松林山水図 紙本墨画 1幅 178.8x49.0 長井市立図書館 1874年(明治7年)
山水図 紙本墨画淡彩 1幅 宮内庁 1876年(明治9年)
老梅図 紙本墨画 1幅 153.9x92.6 山形美術館 1884年(明治14年)頃 白文方印2夥
瀧の図 紙本淡彩 1幅 38.0x50.0 長井市立図書館 1887年(明治20年) 「白龍山人模」 白文円印 西洋画の模写
風雨山水図屏風 紙本墨画 二曲一双 161.5x159.0(各) 慈光明院 1891年(明治24年)
春夏秋山水図 絹本著色 3幅対 126.6x35.3 長井市 1895年(明治28年) 白文方印2夥 長井市指定文化財[1]
黄金井春霽・日光瀑布図 絹本著色 額装1面 黄金井春霽:50.0x44.5
日光瀑布:60.0x44.5
個人 1897年(明治30年) 長井市指定文化財。翌年のシカゴ博覧会に出品したともされる[1]
三貂嶺進撃之図 絹本著色 1幅 170.7x84.3 姥神大神宮 1897年(明治30年) 尾形月耕筆「威海衛海戦之図」と対幅。江差町の篤志家が、我が郷土からも兵を送り名誉の戦死を遂げた記念に画幅を姥神大神宮に奉納したい、との依頼され制作。白龍は陸と海の対幅にしようと他の依頼を差し置いて取材に専念、まず「三貂嶺進撃之図」を完成させた。しかし病が重くなり、月耕に草稿と下絵を託して亡くなった[2]
近江八景・金沢八景図 紙本淡彩 六曲一双 190.0x398.0(各) 個人(米沢市上杉博物館寄託) 不詳 山形県指定文化財[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 「長井の文化財」編集委員会編集 『長居の文化財』 長井市 長井市教育委員会、2014年4月14日、pp.21,22,30。
  2. ^ 『菅原白龍没後百年 白龍展図録』p.63。
  3. ^ 山形の文化財検索サイト 紙本淡彩近江八景 金沢八景図 菅原白竜筆 六曲屏風「山形の宝 検索navi」

参考文献[編集]

  • 日本美術院百年史編集室編 『日本美術院百年史 一巻上』図版編 日本美術院、1989年
  • 『菅原白龍南画展』 致道博物館、1993年9月
  • 菅原白龍没後百年記念事業実行委員会 長井市 長井市教育委員会編集・発行 『菅原白龍没後百年 白龍展図録』1997年10月30日