菅村太事
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菅村太事 すがむら ふとじ | |
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生年月日 | 1864年2月2日 |
出生地 |
日本 陸奥国田村郡北鹿又村 (現・福島県田村市) |
没年月日 | 1934年3月6日(70歳没) |
死没地 | 日本 福島県福島市 |
前職 | 農業 |
所属政党 |
(憲政会→) 立憲民政党 |
選挙区 |
(福島県第5選挙区→) 福島県第2選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1924年 - 1932年1月21日 |
第22代 福島県会議長 | |
在任期間 | 1915年10月 - 1917年4月 |
選挙区 | 田村郡選挙区 |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1903年 - 1917年4月 |
田村郡会議員 | |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1896年 - ? |
その他の職歴 | |
美山村会議員 (? - ?) |
菅村 太事︵すがむら ふとじ、1864年2月2日︵文久3年12月25日[1]︶- 1934年︵昭和9年︶3月6日[2][3]︶は、明治から昭和初期の日本の農業経営者、政治家。衆議院議員、福島県会議長、福島県田村郡美山村長。旧姓・佐久間。
経歴[編集]
陸奥国田村郡北鹿又村[4]︵福島県[2]田村郡美山村[3][5]大字北鹿又村[6]、船引町を経て現田村市船引町北鹿又︶で、鹿股神社神職、農業・菅村嗣江の8人兄妹の第3子として生まれる[6][注釈 1]。父は国学者で佐久間姓を明治維新後に鹿股神社の祭神・船大明神にちなんで菅村に改姓した[6]。 自由民権運動に加わり田村郡の青年壮士として活動した[4][6]。1882年︵明治15年︶11月、会津地方の応援に10人ほどの青年と駆け付けたが、同月29日、耶麻郡新合村︵現喜多方市熊倉町新合︶の会津自由党本部で逮捕され、2ヶ月間若松監獄に収容され、1883年︵明治16年︶2月、国事犯、凶徒聚衆教唆者として東京に護送されたが、同年4月13日に免訴釈放となった[4][6]。1884︵明治17年︶福島に移り﹃福島民報﹄の創刊に尽力した[4][6]。 1886年︵明治19年︶に帰郷し、北鹿又村副総理に就任[4][6]。1889年︵明治22年︶家督を相続し農業を営む[2][5][7]。美山村会議員に2期在任し[2][3][6]、1896年︵明治29年︶美山村長となり3期務めた[2][3][4][6]。その他、田村郡会議員、同参事会員にも在任[2][3]。常葉産馬組合長に就任し[2][3][7]、馬産の振興に尽力した[4][6]。1903年︵明治36年︶福島県会議員に選出され連続4期在任し、同参事会員、第22代同議長も務めた[2][3][4][5][6][7][8]。︵議長は1915年︵大正4年︶10月から1917年︵大正6年︶4月まで務めた[8]。︶ 河野広中が死去すると後継者として[4][5][6]、1924年︵大正13年︶5月、第15回衆議院議員総選挙︵福島県第5区、憲政会公認︶で当選し[9]、その後、第17回総選挙まで再選され、衆議院議員に連続3期在任した[2][3][4][6]。 1934年︵昭和9年︶福島市万世町に移り[4][6]、同地で没した[4][6]。国政選挙歴[編集]
- 第15回衆議院議員総選挙(福島県第5区、1924年5月、憲政会公認)当選[9]
- 第16回衆議院議員総選挙(福島県第2区、1928年2月、立憲民政党公認)当選[10]
- 第17回衆議院議員総選挙(福島県第2区、1930年2月、立憲民政党公認)当選[11]
- 第18回衆議院議員総選挙(福島県第2区、1932年2月、立憲民政党公認)次点落選[12]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『人事興信録 第8版』ス23頁では長男。
出典[編集]
(一)^ 衆議院﹃第四十九回帝国議会衆議院議員名簿﹄︿衆議院公報附録﹀、1924年、20頁。
(二)^ abcdefghi﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄328頁。
(三)^ abcdefgh﹃総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回﹄233頁。
(四)^ abcdefghijkl﹃福島県史 第22巻﹄277頁。
(五)^ abcd﹃新代議士名鑑﹄113頁。
(六)^ abcdefghijklmno﹃福島民権家列伝﹄83-84頁。
(七)^ abc﹃人事興信録 第8版﹄ス23頁。
(八)^ ab“歴代議長、副議長一覧 - 福島県ホームページ”. www.pref.fukushima.lg.jp. 2023年11月30日閲覧。
(九)^ ab﹃衆議院議員総選挙一覧 第15回﹄21頁。
(十)^ ﹃衆議院議員総選挙一覧 第16回﹄278頁。
(11)^ ﹃衆議院議員総選挙一覧 第17回﹄299頁。
(12)^ ﹃衆議院議員総選挙一覧 第18回﹄295頁。