蒔田広孝
(蒔田廣孝から転送)
蒔田広孝 | |
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蒔田広孝 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 嘉永2年2月4日(1849年2月26日) |
死没 | 大正7年(1918年)3月24日 |
改名 | 鱗太郎(幼名)、広孝 |
戒名 | 瑞竜院殿祥岳道慶大居士 |
墓所 | 勝林寺(東京都豊島区駒込) |
官位 | 従五位下・相模守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂、慶喜、明治天皇 |
藩 | 備中浅尾藩主 |
氏族 | 蒔田氏 |
父母 |
蒔田広袢、田沼意清娘 蒔田広運 |
妻 | 蒔田広運娘、稲垣長明娘 |
子 | 茂登子、広城 |
蒔田広孝 まいた ひろたか | |
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岡山県浅尾村長 | |
在任期間 | 1897年7月23日 - 1908年2月10日 |
岡山県総社町長 | |
在任期間 | 1908年5月6日 - 1912年4月27日 |
その他の職歴 | |
秋田県由利郡長 ( - ) |
蒔田 広孝︵まいた ひろたか︶は、江戸時代末期の寄合旗本、大名。備中国浅尾藩主。
生涯[編集]
嘉永2年︵1849年︶、旗本・蒔田広袢︵御書院番︶の嫡男として生まれる。安政4年︵1857年︶5月22日、寄合旗本・蒔田広運︵7700石︶の養子となり、安政5年︵1858年︶8月に家督を相続する。文久3年︵1863年︶9月23日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年11月24日、江戸市中警護の功による禄高直しによって1万石の諸侯に列した。菊の間詰めの定府大名となった。元治元年︵1864年︶1月17日、従五位下・相模守に叙任する。 元治元年4月26日、京都見廻役に就任する。見廻組200人の兵を率い、京都の警備を担うことになり、禁門の変で活躍する。慶応元年︵1865年︶5月、幕府に対し、長州征伐への従軍を願うものの、認められなかった。慶応2年︵1866年︶4月12日、第二奇兵隊を脱走した立石孫一郎ら長州浪士100余名により、浅尾陣屋は倉敷代官所と共に襲撃され灰燼に帰した︵倉敷浅尾騒動︶。そのため、同年4月14日、幕府から一時的に帰藩する許可を得る。慶応3年6月6日、京都見廻役を退任する。慶応4年︵1868年︶2月13日、上洛し、恭順の姿勢を示す。備中国内の旧幕領の管理を命じられる。戊辰戦争では新政府に与して岡山藩と行動を共にしている。 明治2年︵1869年︶6月24日、版籍奉還で知藩事となる。明治4年︵1871年︶7月の廃藩置県で免官となって東京へ移った。明治14年、秋田県御用掛となる。同年、秋田県由利郡長に就任する。明治17年︵1884年︶に子爵に叙される。明治30年︵1897年︶、第3代浅尾村長、明治41年︵1908年︶5月には初代総社町長となる[1]。大正7年︵1918年︶に死去、享年70。栄典[編集]
系譜[編集]
脚注[編集]
- ^ 岡山県市町村合併誌 市町村編262-263頁(岡山県、1960年)
- ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (浅尾)蒔田家初代 1884年 - 1912年 |
次代 蒔田広城 |