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覚園寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
覚園寺

山門
所在地 神奈川県鎌倉市二階堂421
位置

北緯35度19分55秒 東経139度33分49.5秒 / 北緯35.33194度 東経139.563750度 / 35.33194; 139.563750座標: 北緯35度19分55秒 東経139度33分49.5秒 / 北緯35.33194度 東経139.563750度 / 35.33194; 139.563750

地図
山号 鷲峰山[1]
院号 真言院(眞言院)[2]
宗旨 古義真言宗
宗派 真言宗泉涌寺派
本尊 薬師三尊
創建年 建保6年(1218年[1]
開山 智海心慧(ちかいしんえ)[1]
開基 北条貞時[1]
正式名 鷲峰山真言院覚園寺
別称 大倉薬師堂
札所等 鎌倉二十四地蔵尊 第3番
鎌倉十三仏霊場 第11番(阿閦如来
文化財 開山塔、大燈塔、木造薬師三尊坐像ほか(重要文化財)
法人番号 6021005001851 ウィキデータを編集
覚園寺の位置(神奈川県内)
覚園寺
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歴史

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姿 7121928

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境内

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愛染堂

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文保元年(1317年二階堂行朝開基の寺院、明治初年に廃寺となった大楽寺に所属していた仏堂。本尊の木造愛染明王坐像のほか、鉄造不動明王坐像、木造阿閦如来(あしゅくにょらい)坐像(各鎌倉時代、いずれも大楽寺の旧仏)などを安置する。

薬師堂(本堂)

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53殿3135421689使調[5]
  • 木造薬師三尊坐像(重要文化財) – 当寺の本尊。三尊とも坐像で、寄木造、玉眼。各像の蓮華座の左右に裳裾を長く垂らす点などに宋風の様式がみられる。像高は中尊薬師如来が181.3センチ、脇侍の日光菩薩・月光(がっこう)菩薩がそれぞれ149.4センチと150.0センチ。中尊は一般的な施無畏与願印(右手を挙げ、左手を下げる)ではなく、法界定印(腹前で両手を組む)の掌上に薬壺を乗せる。両脇侍像は脚を崩して安坐した姿に表す。がっしりした体躯の中尊像と女性的な顔立ちの両脇侍像とは作風が異なっている。中尊像については、頭部は鎌倉時代、体部は南北朝~室町時代の作と推定されている。両脇侍のうち日光菩薩像は頭部内面の墨書銘から応永29年(1422年)、仏師朝祐の作であることが分かり、月光(がっこう)菩薩像も日光菩薩像と同時期・同人の作と推定される。[6]
  • 木造十二神将立像(重要文化財) – 像高は最大の亥神像が189.7センチ、最小の戌神像が152.6センチ。午神像の像内に応永8年(1401年)法橋朝祐の銘があり、未神、申神、酉神、亥神の各像にはそれぞれ応永15・16・17・18年(1408 – 1411年)の像内銘がある。これらの銘文により、この十二神将像は、同じ堂内の日光・月光菩薩像の作者でもある仏師朝祐が、1年に1体ずつ、12年をかけて造像したものであることがわかる。[7]

地蔵堂

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愛染堂背後に位置する小堂。本尊は黒地蔵の通称がある木造地蔵菩薩立像(鎌倉時代、重要文化財)である。

旧内海家住宅

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鎌倉市手広にあった江戸時代名主の住宅で、1981年に覚園寺に移築された。寄棟造、茅葺で、墨書から宝永3年(1706年)の建築と判明する。内部は左手に広い土間(ニワ)を設け、床上部は下手が板敷のヒロマとダイドコロ、上手は畳敷きの2室(入側、オク)とナンドからなる。[8]

開山塔・大燈塔

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境内奥の墓所に並んで建つ2基の石造宝篋印塔。開山塔は開山の智海心慧の墓塔、大燈塔は2世大燈源智の墓塔で、2基とも正慶元年(1332年)の建立。1965年に行われた解体修理時に、2基の塔内から蔵骨器等の納置品が発見された。このうち、智海心慧の蔵骨器に用いられていた黄釉草葉文壺は古瀬戸の優品であり、製作年代の下限が石塔の建立時である1332年と特定できることから、陶磁史上にも貴重な遺品である[9]。開山塔・大燈塔ともに非公開。

文化財

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行事

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  • 黒地蔵縁日(8月10日午前0時 – 正午)

アクセス・拝観

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脚注

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注釈

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  1. ^ 岩波写真文庫復刻ワイド版『鎌倉 1950』に、1950年頃の覚園寺の写真が掲載されており、当時は寺内がかなり荒廃していたことが分かる。
  2. ^ この種の三尊像の、文化財としての名称は「〇〇如来及両脇侍像」と表記するのが通例だが、本三尊像については指定名称が「薬師如来及日光菩薩・月光菩薩坐像」となっている。

出典

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  1. ^ a b c d 新編鎌倉志 1915, p. 25.
  2. ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村 覚園寺.
  3. ^ a b 『鎌倉歴史散策』、p.40
  4. ^ 新編鎌倉志 1915, p. 26.
  5. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、pp.108 – 109;『関東古寺の仏像』、p.94;『かたちの美 やさしい古建築の味わい方』、pp.72 – 73
  6. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、p.20;『関東古寺の仏像』、pp.94 – 96
  7. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、p.22;『月刊文化財』501号、pp.12 – 15
  8. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、p.110;『かたちの美 やさしい古建築の味わい方』、p.73
  9. ^ 『覚園寺 開山智海心慧七百年忌記念』、pp.92, 104, 106

参考文献

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 2005

1959

1991

1976

 1994

3611976

5012005

    5︿191525-26NDLJP:952770/27 

39稿4902219328NDLJP:1179229/181 

関連項目

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外部リンク

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