元寇
文永の役 | |
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『蒙古襲来絵詞』より文永の役の鳥飼潟の戦い | |
戦争:元寇 | |
年月日:1274年11月4日-19日 (文永11年10月5日-20日/至元11年10月5日-20日) | |
場所: 日本、九州北部 | |
結果:日本の勝利 モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の撤退 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 | |
指導者・指揮官 | |
博多 |
総司令官
都督使 金方慶
右軍使 金文庇 |
戦力 | |
総大将・少弐景資手勢 500余騎[7]
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蒙古・漢軍 15,000[13]〜25,000人[6][14][15]
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損害 | |
日本人195人戦死、下郎は数を知らず[19] |
戦闘による両軍戦死者多数[20]
(日本側が確認できた数)
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弘安の役 | |
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弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』) | |
戦争:元寇 | |
年月日:1281年6月8日-8月22日 (弘安4年5月21日-閏7月7日/至元18年5月21日-8月7日) | |
場所: 日本、九州北部 | |
結果:日本の勝利 モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の壊滅 | |
交戦勢力 | |
鎌倉幕府 | |
指導者・指揮官 | |
総司令官 |
総司令官 |
戦力 | |
江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎[29]。なお同書は、対する元軍の兵力を「幾百万とも知らず」と記載してある[30]。 |
『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人 [32] 東路軍 40,000[33][34]〜56,989人[35]
江南軍 100,000人[37]
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損害 | |
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高麗兵・東路軍水夫不帰還者7,592人/生還者19,397人[36][46]
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呼称[編集]
日本での呼称[編集]
モンゴル帝国︵元朝︶・高麗連合軍による2度の日本侵攻について、鎌倉・室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来、異賊襲来、蒙古合戦、異国合戦などと表記していた。﹁異賊﹂という呼称は日本以外の外来から侵入して来る勢力を指すのに使われていたもので、﹃八幡愚童訓﹄鎌倉時代前後の文献では、刀伊の入寇や神功皇后による三韓征伐についても用いられている。その他、﹁凶徒﹂という呼称も用いられた。また、1274年の第一次侵攻は文永合戦、1281年の第二次侵攻は弘安合戦などと表記されていた。 ﹁元寇﹂という呼称は江戸時代に徳川光圀が編纂を開始した﹃大日本史﹄が最初の用例である。以後、18世紀の長村鑒﹃蒙古寇紀﹄、小宮山昌秀﹃元寇始末﹄、19世紀の大橋訥庵﹃元寇紀略﹄など、﹁寇﹂を用いた史書が現れ、江戸時代後期には元寇という呼称が一般的になっていった。元寇という呼称[編集]
﹁元﹂ モンゴル帝国第5代皇帝・クビライが日本宛に作成させた蒙古国書の冒頭に﹁大蒙古国皇帝﹂とあり、モンゴル帝国の漢語自称であった﹁大蒙古国﹂︵モンゴル語の Yeke Monγol Ulus を訳したもの︶が初見される。これらの呼称は1268年︵文永5年・至元5年︶正月に、フビライの命によって高麗から派遣された使者が、大宰府において口頭と書面によって﹁蒙古﹂の存在を伝達したことで、日本側にも知られるようになった。﹃深心院関白記﹄﹃勘仲記﹄といった当時の公家の日記にも﹁蒙古﹂の呼称が用いられている。 1271年12月18日︵文永8年・至元8年︶、クビライは国号を漢語で﹁大元﹂︵モンゴル語では﹁大元大モンゴル国﹂(Dai-Ön Yeke Monγol Ulus)︶と改めるが、鎌倉時代の日本では﹁蒙古﹂という呼称が一般化していたため、﹁元・大元﹂等の呼称は用いられなかった。 江戸時代に入ると﹃元史﹄などの漢籍が輸入され、明朝における元朝の略称である﹁元﹂という呼称、また、クビライを指して﹁胡主﹂・﹁胡元﹂といった遊牧勢力に対する新たな呼称案[編集]
近年では﹁元寇﹂の他にも﹁蒙古襲来﹂﹁モンゴル襲来﹂なども使用される[51]。﹁文永の役﹂﹁弘安の役﹂についても、元・高麗側資料とも共通の名称を図るため、一部で1274年と1281年の干支に因んで﹁元・高麗での呼称[編集]
元や高麗の文献では、日本侵攻を﹁征東︵または東征︶﹂﹁日本を征す﹂﹁日本之役﹂などと表記している。第一次日本侵攻までの経緯[編集]
※暦はユリウス暦、月日は西暦部分を除き和暦、宣明暦の長暦による。モンゴル帝国の高麗侵攻[編集]
モンゴル帝国の樺太侵攻[編集]
日本招諭の発端[編集]
クビライが日本に使節を派遣する契機となったのは、1265年︵文永2年・至元2年︶、高麗人であるモンゴル帝国の官吏・趙彝︵ちょうい︶等が日本との通交を進言したことが発端である[59]。第一回使節[編集]
第二回使節[編集]
大蒙古国皇帝奉書[編集]
大蒙古国皇帝奉書の内容は、次の通りであった。蒙古国牒状 |
上天眷命 |
宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古国牒状 南都東大寺尊勝院所蔵 |
書き下し[編集]
上天眷命 大蒙古国皇帝 書を日本国王に奉る。朕惟ふに古自り小国の君、境土相接するは、尚は講信修睦に務む。 況んや我が祖宗、天の明命を受け、区夏を奄有す。 遐方異域、威を畏れ徳に懐く者、悉くは数う可からず。 朕即位の初め、高麗の辜無き民の久しく鋒鏑に瘁るるを以て、即ち兵を罷め、其の疆域を還し、其の旄倪を反ら令む。 高麗の君臣、感戴して来朝せり。 義は君臣と雖も、而も歓ぶこと父子の若し。 計りみれば、王の君臣も亦た已に之を知らん。 高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密迩し、開国以来、亦た時に中国に通ず。 朕の躬に至って、一乗の使も以て和好を通ずること無し。 尚は恐る、王の国之を知ること未だ審ならざらん。 故に特に使を遣はし、書を持して朕の志を布告せしむ。 冀は今自り以往、通問結好し、以て相親睦せん。 且は聖人は四海を以て家と為す。相通好せざるは、豈に一家の理ならん哉。 兵を用ふるに至るは、夫れ孰か好む所ならん。 王其れ之を図れ。不宣 至元三年八月 日現代語訳[編集]
天の慈しみを受ける 大蒙古国皇帝は書を 日本国王に奉ず。朕︵クビライ・カアン︶が思うに、いにしえより小国の君主は 国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が 祖宗︵チンギス・カン︶は明らかな天命を受け、区夏︵天下︶を悉く領有し、遠方の異国にして 我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した 当初、高麗の罪無き民が鋒鏑︵戦争︶に疲れたので 命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。 高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが その歓びは父子のようである。 この事は王︵日本国王︶の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の 東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来 時には中国と通交している。だが朕の代に至って いまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに、 王国︵日本︶はこの事をいまだよく知らないのではないか。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ 朕の志を布告させる。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び もって互いに親睦を深めたい。聖人︵皇帝︶は四海︵天下︶をもって 家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。 兵を用いることは誰が好もうか。 王は、其の点を考慮されよ。不宣。 至元三年八月 日 — 宗性筆﹃調伏異朝怨敵抄﹄蒙古国牒状、東大寺尊勝院文書[82]
第三回使節[編集]
1269年︵文永6年・至元6年︶2月、クビライは再び正使・ヒズル︵黒的︶、副使・殷弘ら使節団を日本へ派遣、高麗人の起居舎人・潘阜らの案内で総勢75名の使節団が対馬に上陸した[86][87]。使節らは日本側から拒まれたため対馬から先には進めず、日本側と喧嘩になった際に対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を捕らえて、これらと共に帰還した[88][89]。 クビライは、使節団が日本人を連れて帰ってきたことに大いに喜び、塔二郎と弥二郎に﹁汝の国は、中国に朝貢し来朝しなくなってから久しい。今、朕は汝の国の来朝を欲している。汝に脅し迫るつもりはない。ただ名を後世に残さんと欲しているのだ﹂と述べた[90]。クビライは塔二郎と弥二郎に、多くの宝物を下賜し、クビライの宮殿を観覧させた[90]。宮殿を目の当たりにした二人は﹁臣ら、かつて天堂・仏刹ありと聞いていましたが、まさにこれのことをいうのでしょう﹂と感嘆した[90]。これを聞いたクビライは喜び、二人を首都・燕京︵後の大都︶の万寿山の玉殿や諸々の城も観覧させたという[90]。第四回使節[編集]
1269年︵文永6年・至元6年︶9月、捕えた対馬島人の塔二郎と弥二郎らを首都・燕京︵後の大都︶から護送する名目で使者として高麗人の金有成・高柔らの使節が大宰府守護所に到来[87][91]。今度の使節はクビライ本人の国書でなく、モンゴル帝国の中央機関・中書省からの国書と高麗国書を携えて到来した[92]。三別抄の援助要請[編集]
第五回使節[編集]
1271年︵文永8年・至元8年︶9月、三別抄からの使者が到来した直後に、元使である女真人の趙良弼らがモンゴル帝国への服属を命じる国書を携えて5度目の使節として100人余りを引き連れて到来[103][104]。クビライは、趙良弼らが帰還するまでとして、日本に近い高麗の金州にクルムチ︵忽林赤︶、王国昌、洪茶丘の軍勢を集結させるなど、今回の使節派遣は軍事力を伴うものであった[105]。 博多湾の今津に上陸した趙良弼は、日本に滞在していた南宋人と三別抄から妨害を受けながらも大宰府西守護所に到着した[104][106]。日本側が大宰府以東への訪問を拒否したため、趙良弼はやむなく国書の写しを手渡し、11月末の回答期限を過ぎた場合は武力行使も辞さないとした[107]。これに対して朝廷は評定を行い、前回に文書博士・菅原長成が作成した返書﹃太政官牒案﹄草案を少々手直しの上で返書を渡すということで一旦は決定をみたが[107]、その後も使節団に関する評定が続いた[108]。一方、大宰府では、ひとまず先に返書の代わりとして、日本の使節がクビライのもとへと派遣されることになった[104]。趙良弼もまた日本使とともに帰還の途に就いた[109]。 同年11月、クビライは国号を新たに﹁大元﹂と定める[110]。日本使の大都訪問[編集]
1272年︵文永9年・至元9年︶、12人の日本使︵﹃元史﹄日本伝では26人︶が1月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問する[104][109]。元側は日本使の意図を元の軍備の偵察だと判断し、クビライへの謁見は許さなかった[104]。趙良弼から高麗の金州に駐屯する元軍が日本側を警戒させていると報告があったため、元の丞相・アントン︵安童︶は日本使に対し、その軍は三別抄に備えたものだと説明するようクビライに進言し、クビライはこれを採用している[111]。大都を後にした日本使は、4月に再び高麗を経由して帰国した[112]。第六回使節[編集]
1272年︵文永9年・至元9年︶4月又は12月、元使である女真人の趙良弼らは、日本が元の陣営に加わることを恐れる三別抄の妨害を受けながらも[113]、6度目の使節として再び日本に到来[114][115]。 ﹃元朝名臣事略﹄野斎李公撰墓碑によれば、趙良弼ら使節団が到来すると、日本の﹁国主﹂はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊林︵けいりん︶が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという[116]。また、﹃賛皇復県記﹄にも、南宋は自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊林を遣わして妨害したとある[113]。さらに趙良弼らは大宰府より日本の国都︵京都︶に入ることができなかったことから、遂に元に帰還した[117]。6月に帰還した趙良弼は、日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗と産物をクビライに報告した[118]。 クビライは、途中で引き返すなど日本に未到着のものも含む合計6回、日本へ使節を派遣したが、服属させる目的が達成できなかったため、武力侵攻を決断する[119]。これに対して趙良弼は、日本侵攻の無益をクビライに説き﹁臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親︵孝行︶、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人︵日本人︶を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師︵軍船︶が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の第一次日本侵攻計画[編集]
しかし、クビライは翌1273年︵文永10年・至元10年︶には前言を翻し、日本侵攻を計画し侵攻準備を開始した。この時点で、元は南宋との5年に及ぶ襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。また朝鮮半島の三別抄も元に滅ぼされており、軍事作戦を対日本に専念させることが可能となったのである。 1274年︵文永11年・至元11年︶1月、クビライは昭勇大将軍・洪茶丘を高麗に派遣し、高麗に戦艦300艘の建造を開始させた[120]。異国警固体制[編集]
文永の役[編集]
元・高麗連合軍の出航[編集]
対馬侵攻[編集]
●10月5日、元軍は対馬の小茂田浜︵こもだはま︶に襲来[139]。 ﹃八幡愚童訓﹄によると、対馬守護代・宗資国[140] は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた[139]。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという[139]。 同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎︵ひょうえじろう︶らは対馬を脱出し、博多へ出航している[139]。 対馬の惨状 ﹃高麗史﹄金方慶伝によると、元軍は対馬に入ると島人を多く殺害した[141]。また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑﹃金方慶墓誌銘﹄にも﹁日本に討ち入りし、俘馘︵捕虜︶が甚だ多く越す﹂[142] とあり、多くの被害を島人に与えた。 この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。 去文永十一年︵太歳甲戌︶十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉︵そうまじょう︶等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取︵いけどり︶ニシ、女ヲハ或ハ取集︵とりあつめ︶テ、手ヲトヲシテ船ニ結付︵むすびつけ︶或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是︵またかくのごとし︶ — ﹃日蓮書状﹄、高祖遺文録[143] この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の﹁手ヲトヲシテ﹂つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた[144]。 同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン︵忽敦︶は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ︵忽都魯掲里迷失︶に献上している[145]。壱岐侵攻[編集]
10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側に上陸[146]。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する[146]。 ﹃高麗史﹄金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。 元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮および金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが、後になって元軍に攻撃を仕掛けてきた。これに対して蒙古・漢軍の右副都元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取ったという[147]。 日蓮は、この時の壱岐の惨状を﹁壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒︵と︶らわれ、或は海に入り、或は崖より堕︵お︶ちし者、幾千万と云ふ事なし﹂[148] と記している。 対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。肥前沿岸襲来[編集]
●10月16-17日、元軍は肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来[149]。日本側の迎撃態勢[編集]
対馬・壱岐の状況が大宰府に伝わり、大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発するとともに九州の御家人が大宰府に集結しつつあった。 ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人たちは博多に向かうに際して、九州一の難所と言われる筑後川の神代浮橋︵くましろうきばし︶を渡らなければならず、元軍の上陸までに博多に到着することは難しかった[153]。これに対して、筑後の神代良忠︵くましろ よしただ︶は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州の諸軍を速やかに博多に動員した[153]。後に神代良忠は、元軍を撃退するのに貢献したとして執権・北条時宗から感状を与えられ称された[153]。 こうして集結した九州の御家人ら日本側の様子を﹃八幡愚童訓﹄では、鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている[154][155]。博多湾上陸[編集]
●10月20日、元軍は博多湾のうちの早良郡︵さわらぐん︶に襲来[156]。なお、元軍の上陸地点については諸説ある[157]。 ●捕虜とした元兵の証言によれば、10月20日に早良郡の百道原へ上陸したのは、この年の3月13日に元本国を出発した元軍の主力部隊である蒙古・漢軍であった[158]。 ﹃金鋼集﹄によると、両軍の戦闘は、朝8時頃の開戦で、戦闘が終結したのが夕暮れの18時頃であった[20]。赤坂の戦い[編集]
鳥飼潟の戦い[編集]
﹃八幡愚童訓﹄による戦況[編集]
『元史』による戦況[編集]
﹃高麗史﹄による戦況[編集]
元・高麗連合軍軍議と撤退[編集]
元・高麗連合軍軍議 ﹃高麗史﹄金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン︵忽敦︶や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった。 金方慶﹁兵法に﹃千里の県軍、その鋒当たるべからず﹄[192] とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明視の﹃焚船﹄や漢の韓信の﹃背水の陣﹄の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい﹂ クドゥン﹁孫子の兵法に﹃小敵の堅は、大敵の擒なり﹄[193] とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである﹂[175][191]元・高麗連合軍撤退後の状況[編集]
﹃金剛集﹄によれば、元軍が撤退した後の志賀島に元軍船1艘が座礁し、乗船していた約130人の元兵が斬首又は捕虜となった[20]。﹃八幡愚童訓﹄の記述では、志賀島に座礁した兵船の大将は入水自殺し、他の元兵たちは武器を捨てて船から投降し生け捕られ、水木岸にて220人程が斬殺されたという[185]。また、﹃金剛集﹄によると、元軍船100艘余りが至るところに打ち寄せられており、元軍の杜肺子・白徳義・羡六郎・劉保兒の4名が捕虜となったという[201]。元軍船100余艘の漂倒は、﹃皇年代略記﹄によると10月30日に大宰府より京都へ報告された[202]。さらに﹃安国論私抄﹄によると、11月24日に聞いた情報として﹁蒙古の船破れて浦々に打ち挙がる﹂とし、座礁した船数は、確認できたものだけで、対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘であった[19]。元・高麗の損害・状況[編集]
文永の役における神風[編集]
神風と元軍撤退理由[編集]
鎌倉期の神風観[編集]
文永の役において元軍は神風で壊滅し日本側が勝利したという言説が流布した背景として、当時の日本国内では元寇を日本の神と異賊の争いと見る観念が共有されており、神社や寺による折伏・祈祷や歌詠みは日本の神の力を強める︵天人相関思想︶と信心されていた。そのため、元軍を撃退できた要因は折伏・祈祷による神力・神風であると神社等は宣伝し、幕府に対して恩賞を求めた。 例えば、公家の広橋兼仲は、その日記﹃勘仲記﹄の中で﹁逆風の事は、神明のご加護﹂[203] と神に感謝している。また、1276年︵建治2年・至元13年︶の官宣旨の文言の中にも﹁蒙古の凶賊等が鎮西に来着し合戦をしたのだが、神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底に沈み、或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神の征伐、観音の加護に違いない﹂[204] とあり、当時から元軍を襲った暴風雨を神風とする認識が存在していたことが窺える。 また、敵国調伏や加持祈祷によって日本の神や仏も戦闘に動員され元軍を撃退できたとする観念は、各社による﹁神々による軍忠状﹂という形で現れ、戦後も幕府に対して各社による恩賞の要求も激しかった[220]。元寇における神々の活躍例を挙げると以下のようなものが見受けられる。 寺社縁起﹃八幡愚童訓﹄によると、日本軍が水城へ敗走した後、松原に陣を布く元軍に八幡神の化身30人ほどが矢を射掛け、恐れ慄いた元軍は海に逃げ、さらに海から炎が燃え巡り、その中から現れた八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が突如現れて元軍を皆討ちとり、辛うじて沖に逃れた者には大風が吹き付けられて元軍は敗走したという[186]。同様の話は﹃一代要記﹄にもあり、大宰府軍︵日本軍︶が敗北した後、神威を顕現したと思われる兵船2艘が現れて元軍と戦い、これを退散させたとしている[221]。 また、肥前国武雄社では、戦後の論功行賞から漏れたため、幕府に以下のように文永・弘安の役における勲功を訴えている。﹃武雄神社文書﹄によれば、文永の役の際の10月20日の夜、武雄社の神殿から鏑矢が元軍船目掛けて飛び、結果、元軍は逃げていったとしており、また、弘安の役に際しても、上宮から紫の幡︵のぼり︶が元軍船の方に飛び去って、大風を起こしたという[222]。 幕府は、こういった各社による軍忠状に対して神領興行令と呼ばれる徳政令を各社に対して3度も発布し、恩賞に当てた[223]。戦前・戦後の神風観[編集]
1910年︵明治43年︶の﹃尋常小学日本歴史﹄に初めて文永の役の記述が登場して以来、戦前の教科書における文永の役の記述は、武士の奮戦により元軍を撃退したことが記載されており、大風の記述はなかった[224]。しかしその後、第二次世界大戦が勃発し日本の戦局が悪化する中での1943年︵昭和18年︶の国定教科書において、国民の国防意識を高めるために大風の記述が初めて登場した。それ以来、戦後初の教科書である﹃くにのあゆみ﹄以降も大風の記述は継承され、代わって武士の奮戦の記述が削除されることとなる[224]。 戦後の教科書において、文永の役における武士の奮戦の記述が削除された背景としては、執筆者の間で武士道を軍国主義と結び付ける風潮があり、何らかの政治的指示があったためか執筆者が過剰に自粛したのではないかとの見解がある[224]。また、戦時中や現代の教科書においても文永の役において元軍は神風で壊滅したという言説が依然として改められなかった背景としては、戦時中は﹁神国思想の原点﹂ゆえに批判が憚られたことによるという見解がある[225]。この観念は戦時中の神風特別攻撃隊などにまで到ったとされる。戦後は敗戦により日本の軍事的勝利をためらう風潮が生まれたことにより、文永の役における日本の勝因を自然現象ゆえによるものであるという傾向で収まってしまったのではないかとの見解がある[225]。 また、文永の役は大風で勝利したという戦後の常識は、寺社縁起﹃八幡愚童訓﹄における記述がベースになっているといわれている[226]。第二次日本侵攻までの経緯[編集]
第一次高麗征伐計画[編集]
第七回使節[編集]
第二次日本侵攻計画︵1275年〜︶[編集]
一方でクビライは使節派遣と並行して、再び日本侵攻の準備に取り掛かった。 ●1275年︵建治元年・至元12年︶9月、クビライは、高麗から直ちに日本へ渡ることができる航路があることを知ると、元使を高麗へ派遣して調査させた[243]。 ●同年10月、再度の日本侵攻計画のために、高麗において戦艦の修造を開始[244]。 ●同年11月、文永の役で多くの矢を喪失していたため、高麗の慶尚道・全羅道の民に矢の羽や鏃の増産に取り掛からせた[245]。 クビライは南宋攻略を断行している真っ只中、再度の日本侵攻を計画し、その是非を重臣・王磐に尋ねた。王磐は以下のように返答したという。 王磐﹁今まさに南宋を討ち、我らは全力を用い、一挙にこれ︵南宋︶をとるべきです。もし、また東夷︵日本︶に兵力を分ければ、無駄に月日を費やす恐れがあり、結局、功は成り難くなります。南宋が滅ぶのを待って、やがてこれ︵日本侵攻︶を考えるも未だ遅くはないでしょう﹂[246] ●1276年︵建治2年・至元13年︶1月、元と南宋の戦争が最終段階に入ると、クビライは南宋と日本との二正面作戦を行うことを避けて、高麗に日本侵攻用の戦艦の造船と矢の増産を停止させた[247]。 同月、南宋の第7代皇帝・恭帝は元に降伏し、南宋の首都・臨安を無血開城する。これにより事実上、南宋は滅亡した。なお、張世傑・陸秀夫ら一部の者は第8代皇帝・端宗や第9代皇帝・祥興帝を擁して、1279年︵弘安2年・至元16年︶まで元に抵抗を続けた。 同年、南宋を滅ぼしたクビライは早速、日本侵攻の是非を南宋の旧臣らに尋ねた。これに対して、南宋の旧臣・范文虎、夏貴、呂文煥、陳奕らは皆﹁伐つべし﹂と答えたという[248]。しかし、クビライの重臣・耶律希亮は以下のように反対した。 耶律希亮﹁宋と遼、金と攻戦し、まさに300年経っています。干戈︵戦争︶はようやく収まり、人は肩を休めるようになりました。数年を待って日本遠征の兵を起こすも未だ遅くはないでしょう﹂[248] クビライは南宋の旧臣らの進言を退けて、耶律希亮の意見を採用した。こうして、日本侵攻計画は当分の間、延期された[248]。第八回使節[編集]
耶律希亮の進言により、日本侵攻計画が延期されてから3年が経過した1279年︵弘安2年・至元16年︶、再びクビライは日本侵攻を計画する。 南宋の旧臣・范文虎は、ひとまず日本へ再び使節を派遣して、もう一度、日本が従うか否かを見極めてから出兵することを提案したため、クビライはその提案を受け入れた[249]。こうして、杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福、欒忠を元使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳・陳光ら使節団を再度日本へ派遣した[250]。 今回の使節団は南宋の旧臣という范文虎の立場を利用して、日本と友好関係にあった南宋の旧臣から日本に元への服属を勧めるという形をとった[251]。 大宋國牒状として日本側に手渡された牒状の内容は﹁宋朝︵南宋︶はすでに蒙古に討ち取られ、︵次は︶日本も危うい。よって宋朝︵南宋︶自ら日本に︵元に服属するよう︶告知﹂する内容であった[252]。 ●同年6月、日本側は周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において周福ら使節団一行を斬首に処した[250]。第二次日本侵攻計画︵1279年〜︶[編集]
クビライは杜世忠ら使節団の帰還を待つ一方、出兵準備を開始する。 ●1279年︵弘安2年・至元16年︶2月、クビライは揚州、湖南、贛州、泉州四省において日本侵攻用の戦艦600艘の造船を命じる[253]。そのうち、200艘の建造をアラブ系イスラム教徒である色目人・蒲寿庚に命じた[254]。 ●同年5月、さらにクビライは済州島から軍船建造の木材3,000隻分を供出させるとともに[255]、6月には900艘の造船を高麗に命じた[40]。 しかし、建造は思うようには進まず、200艘の建造を命じられた蒲寿庚はクビライに﹁海船を200艘造るよう詔がありましたが、いま完成している船は50艘です。民は実に艱苦しています﹂と造船により民が疲弊していることを上奏した[254]。これを受けて、クビライは蒲寿庚に命じた200艘の建造を中止させている[254]。 このように造船により江南地方の民が疲弊する中、クビライの日本侵攻を諫言する者が相次いだ。賈居貞は民の疲弊が乱を招くことを危惧して、クビライに日本侵攻を止めるよう諫言したが、聞き入れられなかった[256]。徐世隆もクビライに対して、丁寧に日本侵攻を諫めたが同様であった[257]。 重臣のアンギル︵昂吉児︶もまた以下のようにクビライに諫言した。 昂吉児﹁臣︵昂吉児︶、軍兵は士気を主と為すと聞きます。上下が同じものを欲すれば勝つのです。しかしこの者ら︵日本侵攻軍︶は連年の外夷への外征に使役し、しばしば出血を強いており、ここで士気のことを考えなければ、天下は騒然とし、一たび徴発を行えば、上下は怨むでしょう。それは同じ欲する所を考えてはいないからです。兵を止め、民を休ませてください﹂[258] しかし、アンギル︵昂吉児︶の諫言もまたクビライに聞き入れられることはなかった[258]。老臣の王磐も賈居貞、アンギル︵昂吉児︶とは違った立場で以下のように諫言した。 王磐﹁日本小夷、海道は険しくして遠い。これに勝っても、即ち武功とはなりません。勝たなければ、即ち威厳を損じます。臣が思うに征伐を為してはなりません﹂[259] この諫言に対してクビライは激怒したが、国を憂う王磐の気持ちを汲み取り、翌日には王磐の下に遣いをやり慰撫したという[259]。 ●同年8月、逃げ出した水夫より杜世忠らの処刑が高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した[260]。元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥であるヒンドゥ︵忻都︶・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における評定の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった[261]。 ●1280年︵弘安3年・至元17年︶頃、クビライは日本侵攻軍の司令部・日本行省︵征東行省︶を設置する[262]。 ●1281年︵弘安4年・至元18年︶2月、クビライは侵攻に先立って首都・大都に日本侵攻軍の司令官であるアラカン︵阿剌罕︶、范文虎、ヒンドゥ︵忻都︶、洪茶丘ら諸将を召集し以下のように演説した。 クビライ﹁そもそもの始めは、彼の国︵日本︶の使者が来たことにより、こちらの朝廷からもまた使者を遣わし往かしたのだ。しかし、彼の方では我が使者を留めて還さなかった。ゆえに卿らをして、此のたびの遠征を行わせることとした。朕が漢人から言を聞いたところ﹃人の家国を取るのは、百姓と土地を得たいがためである﹄と。もし、日本の百姓を尽く殺せば、いたずらに土地を得ても、日本の土地は何に用い得ようか。また、もう一つ朕が実に憂えていることがある。それは、卿らが仲良く協力しないことのみを恐れているのだ。仮にもし彼の国人が卿らのもとに至って、卿らと協議することがあるならば、まさに心を合わせ考えをそろえて、回答が一つの口から出るように答えるようにせよ﹂[263]無学祖元による進言[編集]
1281年︵弘安4年・至元18年︶、弘安の役の一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧・無学祖元は、北条時宗に﹁莫煩悩﹂︵煩い悩む莫︵な︶かれ︶と書を与え[264]、さらに﹁驀直去﹂︵まくじきにされ︶と伝え、﹁驀直﹂︵ばくちょく︶に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた[264]。これはのち﹁驀直前進﹂︵ばくちょくぜんしん︶という故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる[264]。なお無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた頃の1275年に元軍が同地に侵入し包囲されるが、﹁臨刃偈﹂︵りんじんげ︶を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる[264]。弘安の役[編集]
東路軍の出航[編集]
対馬侵攻[編集]
●5月21日、東路軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸[272]。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦、康師子等が戦死した[273]。壱岐侵攻[編集]
●5月26日、東路軍は壱岐に襲来。なお、東路軍は壱岐の忽魯勿塔に向かう途中、暴風雨に遭遇し兵士113人、水夫36人の行方不明者を出すという事態に遭遇している[274]。長門襲来[編集]
●東路軍の一部は山陽道の長門にも襲来する。 広橋兼仲の日記﹃勘仲記﹄︵6月14日条︶によると、東路軍の軍船と思われる軍船300が山陽道の長門の浦に来着したことが大宰府からの飛脚によって京都に伝えられたことを記載している[275]。また、壬生顕衡の日記﹃弘安四年日記抄﹄︵6月15日条︶にも﹁異國賊船襲来長門﹂[276] とあり、長門に元軍が現れたことが確認できるが、長門襲来の実態に関しては史料が少なく不明な点が多い。博多湾進入[編集]
志賀島の戦い[編集]
東路軍軍議[編集]
江南軍の出航[編集]
壱岐島の戦い[編集]
東路軍・江南軍合流[編集]
●7月中旬[310]-7月27日[311]、平戸島周辺に停泊していた江南軍は、平戸島を都元帥・張禧の軍勢4,000人に守らせ[300]、続いて鷹島へと主力を移動させた[47]。新たな計画である﹁平戸島で合流し、大宰府目指して進撃する﹂計画[291] を実行に移すための行動と思われる。 ●東路軍が鷹島に到着し、江南軍と合流が完了する[44]。 壱岐島の戦いにより元軍が撤退したという風聞に接していた京都の官務・壬生顕衡は、その日記﹃弘安四年日記抄﹄で、元軍が平戸島方面から再度襲来したという飛脚の情報に接して﹁怖畏無きに非ざるか、返す返すも驚き﹂[312] と恐怖と驚きの念をもって日記を記している。鷹島沖海戦[編集]
台風[編集]
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元軍の弩
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 -
元軍の矢束
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵元軍軍議と撤退[編集]
●閏7月5日、江南軍総司令官の右丞・范文虎と都元帥・張禧ら諸将との間で、戦闘を続行するか帰還するか以下のような議論があった[300]。 張禧﹁士卒の溺死する者は半ばに及んでいます。死を免れた者は、皆壮士ばかりです。もはや、士卒たちは帰還できるという心境にはないでしょう。それに乗じて、食糧は敵から奪いながら、もって進んで戦いましょう﹂ 范文虎﹁帰朝した際に罪に問われた時は、私がこれに当たる。公︵張禧︶は私と共に罪に問われることはあるまい﹂[300]このような議論の末、結局は范文虎の主張が通り、元軍は撤退することになったという。張禧は軍船を失っていた范文虎に頑丈な船を与えて撤退させることにした[300]。その他の諸将も頑丈な船から兵卒を無理矢理降ろして乗りこむと、鷹島の西の浦より兵卒10余万を見捨てて逃亡した[47][327]。平戸島に在陣する張禧は軍船から軍馬70頭を降ろして、これを平戸島に棄てるとその軍勢4,000人を軍船に収容して帰還した。帰朝後、范文虎等は敗戦により罰せられたが、張禧は部下の将兵を見捨てなかったことから罰せられることはなかった[300]。 この時の元軍諸将の逃亡の様子を﹃蒙古襲来絵詞﹄の閏7月5日の記事の肥前国御家人・某の言葉の中に﹁鷹島の西の浦より、︵台風で︶破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者︵諸将︶どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った﹂[327] とある。 なお、元軍のうち、宋王朝の皇室の子孫[328] で夫の楊将軍の日本侵攻に従軍していた趙時妙の墓碑によると、趙時妙は台風により夫と離れ離れとなった[329]。そのため、趙時妙は東西不明となり船で彷徨っていたが、目前に青い鳥が現れ、前を導いたため、これについていくと、7日を経て東呉︵江南地方︶に至り帰還できたという[329]。御厨海上合戦[編集]
御厨海上合戦 閏7月5日、撤退する元軍船の追撃。竹崎季長、元軍船に乗り込み元兵の首を取る。 ﹃蒙古襲来絵詞﹄後巻・絵16・第26、27紙 ●閏7月5日、日本軍は伊万里湾海上の元軍に対して総攻撃を開始。 午後6時頃、御厨︵みくりや︶海上において肥後の御家人・竹崎季長らが元軍の軍船に攻撃を仕掛け[330]、筑後の地頭・香西度景らは元軍の軍船3艘の内の大船1艘を追い掛け乗り移って元兵の首を挙げ、香西度景の舎弟・香西広度は元兵との格闘の末に元兵と共に海中に没した[331]。また、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門も御厨の千崎において元軍の軍船に乗り移って、負傷しながらも元兵一人を生け捕り、元兵一人の首を取るなどして奮戦した[332]。 日本軍は、この御厨海上合戦で元軍の軍船を伊万里湾からほぼ一掃した。弘安4年閏7月5日の﹁御厨海上合戦﹂については、長く伊万里湾合戦=肥前国鷹島合戦とされてきて、疑われることがなかった。しかし竹崎季長ら博多湾岸にいた武士は、閏7月5日払暁=夜明けに関東御使合田遠俊・安東重綱らと軍議し、その昼に博多湾・生の松原を行進し、船に乗った。合戦は閏7月5日酉の刻︵夕方6時︶で、肥後・筑前・薩摩国御家人らが戦った。そして翌6日払暁=夜明けに季長らは御使合田の仮館にて合戦の成果を報告した。生の松原から伊万里湾までの140キロ以上をわずか1日で船で往復して、合戦することはあり得ない。博多湾上に浮かぶ能古島も志賀島も御厨︵権門に海産物を貢上する庄園︶であったから、合戦場である﹁御厨海上﹂とは博多湾を指し、攻撃目標は5月下旬以来、志賀島を拠点としていた東路軍︵高麗・旧北宋軍・蒙古軍︶となる。伊万里湾・鷹島で合戦が行われたのは2日後の閏7月7日で、肥前国・豊後国・薩摩国︵一部︶らの御家人が鷹島を拠点としていた江南軍︵旧南宋軍︶と戦い、勝利した。一部の連絡隊を除けば、東路軍が志賀島を放棄して、鷹島に向かったことはなく、志賀島を対大宰府の重要拠点として死守しながら、江南軍の到着を待ち続けていた。[333] [334] [335]鷹島掃討戦[編集]
モンゴル型兜 モンゴル型兜には鉄製、鉄製革張、または天辺と眉庇を鉄筋で繋いだ革兜など数種ある。この兜には錏︵しころ‥鉢部分から垂らして首から襟を防御する武具︶が付いており、この兜の錏には鉄札を繋いだ物を布で包んで垂らしている。錏がついたままで現存しているモンゴル型兜は非常に少ない。 個人蔵モンゴル型兜 ﹃黒漆革張兜鉢﹄ 個人蔵 御厨海上合戦で元軍の軍船をほぼ殲滅した日本軍は、次に鷹島に籠る元軍10余万と鷹島に残る元軍の軍船の殲滅を目指した[336]。一方、台風の後、鷹島には日本軍の襲来に備えて塁を築いて防備を固めた元軍の兵士10余万が籠っていたが、 台風の襲来で既に大損害を被っていたため諸将らは、軍議を開き最終的に撤退に決する。諸将は損傷していない船から兵卒を無理矢理下ろすと、乗船して兵卒を見捨て本国へと逃走した。その後鷹島では管軍百戸の張なる者を指揮官として、張総官と称してその命に従い、木を伐って船を建造して撤退することにした[47]。 ●閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始。 文永の役でも活躍した豊後の御家人・都甲惟親︵とごう これちか︶・都甲惟遠父子らの手勢は鷹島の東浜から上陸し、東浜で元軍と戦闘状態に入り奮戦した[337]。上陸した日本軍と元軍とで鷹島の舩原(ふなばる)中川原でも戦闘があり、肥前の御家人で黒尾社大宮司・藤原資門は戦傷を受けながらも、元兵を2人生け捕るなどした[332]。また、鷹島陸上の戦闘では、西牟田永家や薩摩の御家人・島津長久、比志島時範らも奮戦し活躍した[338][339][340]。 一方、海上でも残存する元軍の軍船と日本軍とで戦闘があり、肥前の御家人・福田兼重らが元軍の軍船を焼き払った[341]。 これら福田兼重・都甲惟親父子ら日本軍による鷹島総攻撃により10余万の元軍は壊滅し、日本軍は20,000〜30,000人の元の兵士を捕虜とした[47]。現在においても鷹島掃討戦の激しさを物語るものとして、鷹島には首除︵くびのき︶、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利︵祈り︶の浜などの地名が代々伝わっている[342][343]。 高麗国王・忠烈王に仕えた密直・郭預は、鷹島掃討戦後の情景を﹁悲しいかな、10万の江南人。孤島︵鷹島︶に拠って赤身で立ちつくす。今や︵鷹島掃討戦で死んだ︶怨恨の骸骨は山ほどに高く、夜を徹して天に向かって死んだ魂が泣く﹂[288] と漢詩に詠んでいる。一方で郭預は、兵卒を見捨てた将校については﹁当時の将軍がもし生きて帰るなら、これを思えば、憂鬱が増すことを無くすことはできないだろう﹂[288] とし、いにしえの楚の項羽が漢の劉邦に敗戦した際、帰還することを恥じて烏江で自害したことを例に﹁悲壮かな、万古の英雄︵項羽︶は鳥江にて、また東方に帰還することを恥じて功業を捨つ﹂[288] と詠み、項羽と比較して逃げ帰った将校らを非難している。 ﹃元史﹄によると、﹁10万の衆︵鷹島に置き去りにされた兵士︶、還ることの得る者、三人のみ﹂とあり、後に元に帰還できた者は、捕虜となっていた旧南宋人の兵卒・于閶と莫青、呉万五の3人のみであったという[47]。他方、﹃高麗史﹄では、鷹島に取り残された江南軍の管軍把総・沈聡ら十一人が高麗に逃げ帰っていることが確認できる[297]。 南宋遺臣の鄭思肖は、日本に向けて出航した元軍が鷹島の戦いで壊滅するまでの様子を以下のように詠んでいる。 ﹁辛巳6月の半ば、元賊は四明より海に出る。大舩7千隻、7月半ば頃、倭国の白骨山︵鷹島︶に至る。土城を築き、駐兵して対塁する。晦日︵30日︶に大風雨がおこり、雹の大きさは拳の如し。舩は大浪のために掀播し、沈壊してしまう。韃︵蒙古︶軍は半ば海に没し、舩はわずか400餘隻のみ廻る。20万人は白骨山の上に置き去りにされ、海を渡って帰る舩がなく、倭人のためにことごとく殺される。山の上に素より居る人なく、ただ巨蛇が多いのみ。伝えるところによれば、唐の東征軍士はみなこの山に隕命したという。ゆえに白骨山という。または枯髏山ともいう﹂[310] 戦闘はこの鷹島掃討戦をもって終了し、弘安の役は日本軍の勝利で幕を閉じた。-
少弐景資像
長崎県松浦市鷹島町阿翁免 -
鷹島の中川激戦場
この一帯は舩原(ふなばる)、中川原と呼ばれ、激戦地となったと伝承される。この石碑の付近で鷹島掃討戦により捕虜となった多くの元兵が殺害された場所であることから「首除(くびのき)」という地名が伝わっている。
長崎県松浦市鷹島町三里免 -
伝・対馬小太郎の墓
小太郎は文永の役における元軍の対馬侵攻に対して、伝令として博多に元軍の襲来を伝えたとされる人物。その墓と言い伝えられている。小太郎は鷹島掃討戦に参加し負傷し「我が屍を埋るに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と言い残すと息を引き取ったという伝承が伝わっている。
長崎県松浦市鷹島町里免 -
伝・兵衛次郎︵ひょうえじろう︶の墓 兵衛次郎は文永の役における元軍の対馬侵攻に対して、小太郎とともに伝令として博多に元軍の襲来を伝えたとされる人物。弘安の役の鷹島掃討戦に参加し戦死。その墓と言い伝えられている。 長崎県松浦市鷹島町神崎免
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元・高麗連合軍の損害[編集]
円覚寺・舎利殿 円覚寺︵えんがくじ︶は北条時宗が元寇の戦没者を敵味方問わず追悼するため創建した寺。開山は南宋出身の無学祖元。 国宝・神奈川県鎌倉市山ノ内409元軍兜 しかのしま資料館所蔵 ●閏7月9日、日本軍は捕虜20,000〜30,000人を八角島︵博多か︶に連行する[47]。﹃元史﹄によると、日本軍はモンゴル人と高麗人、および漢人の捕虜は殺害したが、交流のあった旧南宋人の捕虜は命を助け、奴隷としたという[47]。他方、﹃高麗史﹄では命を助けられた捕虜は、工匠および農事に知識のある者となっている[297]。この時に処刑された者や奴隷とされた者の他に、すぐには処分の沙汰を下されず、各々に預けられた捕虜も多数おり、捕虜の処分はその後も継続して行われた[344]。幕府は捕虜が逃げ出さないように、昼夜問わず往来の船の監視を御家人に命じている[344]。なお、近年、大阪府和泉市内の寺所蔵の﹃大般若波羅蜜多経﹄経典の修正に弘安の役で投降した捕虜が弘安9年︵1286年︶4月上旬に携わっていたことがわかった [345]。 同書によると﹁大唐国江西路瑞州軍人何三於﹂とあり、修正に携わっていたのは江南軍に所属していた旧南宋軍人であった[345]。 また、九州からの使者により戦勝の報が京都にも続々と伝わり、京都の官務・壬生顕衡の日記﹃弘安四年日記抄﹄︵閏7月12日条︶には、台風により元軍が崩壊し元兵2,000人が降伏したこと[346]、その2日後の公家・広橋兼仲の日記﹃勘仲記﹄︵閏7月14日条︶には台風を受けて元軍船の多くが漂没し、元兵の誅戮ならびに捕虜が数千人に及んだこと[347]、さらにその7日後の﹃弘安四年日記抄﹄︵閏7月21日条︶には残留していた元軍の殲滅が完了したことが記載されている[348]。 ●元軍のうち帰還できた兵士は、﹃元史﹄の中でも、全軍の1〜4割と格差が見受けられる[41][42][43][44]。元軍140,000〜156,989人のうちの1〜4割とした場合、帰還者の数はおよそ14,000〜62,796人。また、﹃高麗史﹄によると、高麗兵および東路軍水夫の帰還者は26,989人のうち、19,397人[36][46]。 この戦いによって元軍の海軍戦力の2/3以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。マルコ・ポーロ﹃東方見聞録﹄の弘安の役[編集]
﹃東方見聞録﹄に描かれた弘安の役 孤島のタタール︵モンゴル︶軍に攻撃を仕掛けるジパング︵日本︶軍と敗走すると見せ掛けてジパング︵日本︶の船に乗り込むタタール︵モンゴル︶軍。 ﹃東方見聞録﹄︵﹃驚異の書﹄︶ fr.2810写本 ミニアチュール︵挿絵︶folio72 フランス国立図書館所蔵 マルコ・ポーロの﹃東方見聞録﹄には以下のようにマルコ・ポーロが伝聞として聞いた弘安の役に関する記述がある。 ﹁…さて、クビライ・カアンはこの島の豊かさを聞かされてこれを征服しようと思い、二人の将軍に多数の船と騎兵と歩兵をつけて派遣した。将軍の一人はアバタン︵アラカン︵阿剌罕︶︶、もう一人はジョンサインチン︵ファン・ウェン・フー、范文虎︶といい、二人とも賢く勇敢であった。彼らはサルコン︵泉州︶とキンセー︵杭州︶の港から大洋に乗り出し、長い航海の末にこの島に至った。上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった。さて、そこで不幸が彼らを襲う。凄まじい北風が吹いてこの島を荒らし回ったのである。島にはほとんど港というものがなく、風は極めて強かったので、大カアンの船団はひとたまりもなかった。彼らはこのまま留まれば船がすべて失われてしまうと考え、島を離れた。しかし、少しばかり戻ったところに小島︵鷹島︶があり、船団はいやおうもなくこの小島にぶつかって破壊されてしまった。軍隊の大部分は滅び、わずかに3万人ほどが生き残ってこの小島に難を避けた。彼らには食糧も援軍もなく、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。というのも、何艘かの船がいちはやく彼らの国に帰ったのだが、いっこうに戻って来る気配がなかったからである。実は司令官である二人の将軍が互いに憎み合い、そねみ合っていたのである。一人の将軍は嵐を逃れたのだが、小島に残された同僚の将軍の救援には赴こうとしなかった。大風は長く続かなかったので、吹き止んでしまえば戻ることは十分可能だったにもかかわらず、彼は戻ろうとせず、自分の国に帰ってしまった。大カアンの軍隊が残されたこの小島には人の住めるようなところではなく、彼ら以外に生き物の姿はなかった。さて、逃げ帰った者たちと小島に残された者たちがどうなったか、次にお話してみよう。 さて、すでに申し上げたように、小島に残された3万の兵士たちはどのようにして脱出してよいかわからず、もはや命はないものと諦めざるをえなかった。ジパング︵日本︶の王は、敵の一部が運命に見放されて小島に残され、他はちりぢりに逃げ去ったと聞くとおおいに喜び、ジパング中の船をこぞって小島に赴くと四方八方から攻め寄せた。タタール人︵モンゴル人︶たちは、戦いに慣れていないジパングの人々が船に警戒の兵を残さず、みな上陸してしまったのを見た。思慮に富んだタタール人たちは一気に動き出し、逃げると見せかけて敵の船に殺到すると、すぐさま乗り込んでしまった。船を守る兵がいなかったので極めて容易なことであった。さて、タタール人たちは船を奪うと、すぐさま本島に向けて出立した。彼らは上陸し、ジパング王の旗をなびかせて進んだ。首都を守る人々はこれに気付かず、てっきり味方が帰って来たのだと思って中に入れてしまった。それでタタール人たちは入城し、すぐさま城郭を占領し、住民たちをすべて外に追い払ったのである。もちろん美しい女たちだけは手元に留めた。さて、大カアンの軍隊はこうして首都を占領したのであったが、これを知ったジパングの王と軍隊とは大いに悲しみ、残された何艘かの船に乗って本島に戻ると、兵を集めて首都を囲んだ。一人として出ることも入ることもできなかった。中に籠もったタタール人たちは7か月の間持ちこたえた。その間、ことの次第をいかに大カアンに知らせるか、夜となく昼となく努めたのだが、結局、知らせることはできなかった。もはや持ちこたえられなくなって、命を助けるかわりに一生ジパングの島から出ないという条件で降伏した。これは1268年に起こったことである︵文永の役は1274年、弘安の役は1281年︶。大カアンは逃げ帰った将軍の首を刎︵ 軍に対しても、武人にあるまじき振る舞いとして、処刑の命令を出した。 さて、私は今一つ、次のような驚異についてお話しするのを忘れるところであった。それは、戦いの初め、大カアンの軍隊がジパングに上陸して平野を占領した時のことであった。一つの塔を落とすと、中にいた人々は降伏を肯じなかったので、その首を刎ねたのであったが、どうしても八人だけは首を切り落とすことができなかった。その八人は、うまく隠れて外からは見えなかったが、腕の肉と皮膚の間に石を埋め込んでいた。その石には魔術が施れ、決して刃物では殺されぬという効能を帯びる。これを聞いたタタール人の将軍たちはその八人を棒で殴り殺し、その死骸から石を取り出すと大事にしまったのであった﹂[349]は︶ねた。もう一方の将 以後の動向[編集]
第二次高麗征伐計画[編集]
北条時宗と一遍 1282年︵弘安5年︶、巨福呂坂において北条時宗と偶然出会う時宗の開祖・一遍ら一行。治安の考慮から武士に鎌倉の市中に入る事を拒まれた一遍は﹁鎌倉に入っても私には名誉や利益について一切用事がない。ただ、人々に念仏を勧めるだけである﹂と答えている。 ﹃一遍上人絵伝﹄巻五 制作年1299年︵正安6年︶ 清浄光寺所蔵詳細は「鎌倉幕府の高麗遠征計画」を参照元軍に大勝した鎌倉幕府は、直ちに高麗出兵計画を発表した [350]。 ﹃東大寺文書﹄によると、幕府は少弐経資か大友頼泰を大将軍として、三ヵ国の御家人を主力に大和・山城の諸寺の悪徒︵僧兵︶をも動員して高麗への出兵を計画した[351]。しかし第二次高麗出兵計画は突然中止となった。詳細は不明ながら、御家人の困窮などの理由により実行されなかったともいわれる[352]。 一方、クビライも日本の反撃を警戒し、高麗の金州等に鎮辺万戸府を設置し日本軍の襲来に備えた[353]。第三次日本侵攻計画︵1282年〜︶[編集]
今津の蒙古塚 今津にある元寇に関係すると伝承されている塚。大正時代の発掘調査では元寇に関する遺物は発見されておらず、元寇に関するものかは詳らかではない。 福岡市西区今津 第二次侵攻︵弘安の役︶で敗北した元は、翌年の1282年︵弘安5年・至元19年︶1月に一旦は日本侵攻の司令部・日本行省を廃止したものの[354]、クビライは日本侵攻を諦めきれず再度日本侵攻を計画した。 ●同年7月、クビライの再侵攻の意向を知った高麗国王・忠烈王は、150艘の軍船を建造して日本侵攻を助けたい旨をクビライに上奏する[355]。 ●同年9月、第二次日本侵攻︵弘安の役︶で大半の軍船を失っていた元は、平灤、高麗、耽羅、揚州、隆興、泉州において新たに大小3,000艘の軍船の建造を開始した[356]。しかし、こうした大造船事業は大量の木材を必要としたため、平灤では山は禿山となり、寺や墳墓からも木を伐採しなければならない状況であったという[357]。また、平灤の五台山造寺や南城の新寺の建立も造船に木材を集中させるために中止となった[358]。このような軍船の不足から、民間から商船を徴発し、日本侵攻用の軍船へと転用した[359]。 ●1283年︵弘安6年・至元20年︶1月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。アタカイ︵阿塔海︶を日本行省丞相に任命して日本再侵攻の総司令官として、チェリク・テムル︵徹里帖木児︶を右丞、劉国傑を左丞に任命し、兵を募り造船の指揮を執らせ日本侵攻を急いだ[360]。この出兵計画には、兵員の不足から、重犯罪者の囚人部隊も動員する計画であったという[361]。また、第二次日本侵攻︵弘安の役︶で軍船の大量喪失とともに多くの海事技術者も失ったため、海事技術者の養成が急務となっていた。そのため、アタカイ︵阿塔海︶は都元帥・張林、招討使・張瑄、管軍総管・朱清など軍官に水練を行うよう命じて出征に備えさせた[362]。また、右丞・チェリク・テムル︵徹里帖木児︶と管軍万戸35人が中心となって水練を施した兵士の中には蒙古軍2,000人や深馬赤軍10,000人などの元朝精鋭部隊も含まれ、そのうち500人には水練の他に海上戦闘での訓練を施している[363]。日本侵攻は江南地方から徴発した軍勢を主力に、この年の8月に実行することが予定された[364]。 一方、日本側はこうした元側の動向を察知し、元朝領内の造船を担った江南地方に間者を送り込み、情報収集に努めていた。江南地方で日本側の間者が捕らえられたことが元側の史料﹃元史﹄において確認できる[365][366]。 このような急激な日本侵攻準備は、元に大きな負担をもたらすものであった。日本侵攻用の軍船の造船を担った江南地方では盗賊が蜂起し、元は軍隊を派遣するなどして鎮圧に苦心した[367]。また、江南地方の盗賊の続発は、元朝領内の遠近を問わず広がりをみせ、騒然としたという[368]。このような状況の中でクビライに日本侵攻計画を中止、あるいは延期するよう諫言する者も現れた。﹃元史﹄崔彧伝には、日本侵攻計画の延期を訴えた御史中丞・崔彧とクビライとの間で以下のようなやりとりがあったとされる。 崔彧﹁江南地方で相次いで盗賊が起こっています。およそ200余所においてです。皆、かつては水手として拘束され、海船を造り、人民の生活は安んずることができなかったため、激情して盗賊として変を為しています。日本の役は暫く止めるべきです。また、江南地方四省の軍需は、民力を量って、土地の産物が無い所の者には労働を強いるべきではありません。およそ労働に対して物価を給して民に与えるのは、必ず実をもってしなければなりません。水手を召募するのは、その労働を欲する土地に従わなければならないのです。そして、民の気力がやや回復して、我が力がほぼ備わるのをうかがい、2、3年後に東征︵日本侵攻︶しても未だ遅くはないでしょう﹂ 崔彧の諫言を退けて、クビライは次のように言った。 クビライ﹁汝の言う所は弓を射るようなものだ。弓を引く姿は見るに堪えるが、矢を発すれば見るに堪えぬ﹂[369] 淮西宣慰使・アンギル︵昂吉児︶もまた、民が疲弊していることを上奏して、クビライに日本侵攻を取り止めるよう諫言した[360]。これらの諫言を退けたクビライであったが、考えを改めて同年5月には日本侵攻計画を一旦取り止めた。高麗は侵攻計画が中止となったことを受けると、造船、徴兵を停止させた[370]。第三次日本侵攻計画︵1283年〜︶[編集]
﹁元寇殲滅之処﹂石碑 1916年︵大正5年︶に建立。1913年︵大正2年︶に今津で石築地︵元寇防塁︶が発掘されたことを契機に建立された。工事には第一次世界大戦で日本軍の捕虜となったドイツ人も動員された。 福岡市西区今津 一旦白紙となった当初の出兵予定の1283年︵弘安6年・至元20年︶8月の頃、再び出兵計画が持ち上がった。 ●同年8月、民間から日本侵攻用に徴発していた民間船500艘を民が困窮したため返還し、換わりにモンゴル人の大船主・アバチ︵阿八赤︶が所有する船を徴発して修理を行い、日本行省丞相・アタカイ︵阿塔海︶の日本侵攻用の艦船群に組み入れた[371]。 ●同年9月、江南地方の広東で大規模な盗賊の蜂起が起こった。元朝はただちに兵10,000でこれを鎮圧[372]。 ●同年10月、続いて江南地方の福建で宋王朝の復興をスローガンに黄華率いる100,000人ともいわれる群衆が蜂起。反乱軍は自らを頭陀軍と称して宋朝の年号を用いた。元はただちに22,000の軍勢を鎮圧に派遣した[373]。この反乱には日本行省左丞・劉国傑が日本侵攻部隊を率いて鎮圧に乗り出している[374]。 ●1284年︵弘安7年・至元21年︶2月、クビライは、このような国内情勢の不安定化のなかで高麗における造船を停止させた[375]。さらに敵対関係にあったベトナム南方のチャンパ王国との情勢が思わしくないため、第三次日本侵攻計画の総司令官・アタカイ︵阿塔海︶に命じて、日本侵攻部隊のうちから15,000の兵と軍船200艘をチャンパ王国に派遣した[376]。 このように元の国内情勢やチャンパ王国との敵対関係による不安定化のため、同年5月、クビライは日本行省を廃止し、再び日本侵攻計画を中止した[377]。 この間、日本側は明年︵1284年︶春に元の大軍が襲来するという情報を得て、九州の各守護に用心するよう厳命していた[378][379]。第九回使節[編集]
クビライは第三次日本侵攻計画︵1283年〜︶を推進する一方で、九回目となる使節団を日本に派遣する。 ●1283年︵弘安6年・至元20年︶8月、クビライの命を受けた提挙・王君治と補陀禅寺の長老・如智は日本に向けて出航した。ところが、黒水洋を経たところで台風に遭遇し、結局、使節団は日本に辿り着くことはできなかった[380]。 なお、王君治らが託されたクビライの国書の内容は次の通りであった。 ﹁天命を受けた皇帝︵クビライ︶が命を発して日本国王に諭す。むかし、彼国︵日本︶はよく遣使し、参内して天子に拝謁した。これに対して、朕もまた使を遣わしてこれに相報いた。すでに互いに約束を交わしており、汝の心にそれを置き忘れてはいないであろう。この頃、彼国は我が信使を執って返さなかったため、朕は舟師を発して咎めさせた。いにしえは兵を交わして、使者はその間を往来する。彼国は一語も交わさずして、固く我が軍を拒む。よって彼国はすでに敵国となり、さらに遣使するべき理ではないが、ここに補陀禅寺の長老・如智らが陳奏し﹃もしまた軍を興して討伐すれば、多くの生霊が被害を受ける。彼国の中にも仏教文学の感化があり、大小強弱の理を知っているはずだ。臣らが皇帝の命を齎し宣諭すれば、即ち必ずや多くの生霊を救う。彼国はまさに自省し、懇心して帰附するだろう﹄という。今、長老・如智と提挙・王君治を遣わし、詔を奉じて彼国に往かせた。善なるものは和好のほかになく、悪なるものは戦争のほかにない。果たしてこれを思慮して帰順すれば、即ち去使とともに来朝するべし。ゆえに彼者に諭し、朕はその福か禍の変化を天命に任せる。ここに詔を示し、我が意をすべて知り、考慮されよ﹂[381]第三次日本侵攻計画︵1284年〜︶[編集]
クビライは前回の日本侵攻計画を取り止めてから1年も経たず、再び日本侵攻準備を開始した。 ●1284年︵弘安7年・至元21年︶10月、クビライは日本侵攻用の船と水夫の募集を開始[382]。 ●1285年︵弘安8年・至元22年︶4月、江淮地方に日本侵攻用の兵糧と軍船を運び、そこで海戦訓練を実施する[383]。 ●同年6月、クビライは実体は不明なものの、﹁迎風船﹂なる軍船の建造を女真族に命じる[384]。 ●同年10月、日本侵攻の司令部・日本行省を再設置。アタカイ︵阿塔海︶を日本行省左丞相、劉国傑・陳巌を左丞、洪茶丘を右丞に任命し、日本侵攻部隊の指揮を執らせた[385]。さらに水夫の募集方法も航海に従事する者を通して、水夫を千人集めたものには千戸の軍職、百人集めたものには百戸の軍職を与える事にした[386]。また、囚人を赦免する代わりにその顔に入墨をあてて水夫とし、南宋の時代に私塩を販売して航海技術のある者も水夫とするなどした[387]。 ●同年11月、第三次日本侵攻の作戦計画が発表される。今回は、第二次日本侵攻︵弘安の役︶の反省から、来年の三月から八月までに、朝鮮半島の合浦︵がっぽ︶に全軍を集結させてから日本侵攻を行うという計画であった。兵糧は江淮地方より米百万石を徴発し、高麗と東京︵遼陽︶に各々、十万石貯蔵させた[388]。この作戦に高麗が課された軍役は兵10,000、軍船650艘であった[389]。 ●同年12月、軍籍条例を施行。日本侵攻の兵士として全国から壮士および有力者を選抜し日本侵攻部隊に充てた。さらに五衛軍を各自、家に帰らせて装備を整えさせ、翌年正月一日に元の首都・大都に集結するよう命じた。また、江淮行省では軍船1,000艘に水上戦闘の訓練を施した。さらに最新鋭の投石器である回回砲の砲手として50人が軍に加えられた[390]。 ●1286年︵弘安9年・至元23年︶1月、ところが計画は一変し、突如日本侵攻計画は中止となった。その理由は、日本侵攻計画が元の軍民に重い負担を強いるものであり困窮が極度に達していたこと、さらに外征であるベトナムの陳朝大越国とチャンパ王国との戦況が思わしくなかったためである。 クビライが第三次日本侵攻計画を中止したのは、以下のようなクビライと礼部尚書劉宣とのやりとりがあったためである。 劉宣は、かつて隋が高句麗に侵攻してたびたび敗北した例を引用し﹁たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない﹂と述べ、かつての隋の高句麗侵攻以上に日本侵攻が困難であるとして、クビライに日本侵攻をとりやめるよう諫言した[197]。 これに対して、クビライは﹁日本は孤遠の島夷なり。重ねて民力を困するを以て、日本を征するをやむ﹂[391] と述べて、日本侵攻計画を取りやめた。この知らせが江浙の軍民に伝わると、軍民は歓声を上げ、その歓声は雷のようであったという[392]。 日本侵攻を諦めたクビライは﹁日本は今までに我が国をかつて侵略したことはない。今は交趾︵ベトナム北部の国。陳朝大越国︶が我が国の辺境を犯している。日本のことは置いておき、専ら交趾を事とするがよい﹂[393] として、日本から陳朝大越国に目を転じた。 南宋遺臣の鄭思肖はチャンパ王国が元朝に背いた理由について﹁弘安の役で元軍が敗れた後、日本がチャンパ王国へ使者を送り、元朝と戦わずに属国でいることを責めた。チャンパ王国は元朝に背くことを決めた﹂としている。[394]第十回使節[編集]
また第三次日本侵攻計画︵1284年〜︶の推進と同時期に、クビライは前回の使節団派遣から約1年を経て再び日本に服属を迫る使節団を派遣していた。 ●1284年︵弘安7年・至元21年︶10月、クビライは正使・王積翁と補陀禅寺の長老・如智ら使節団を日本に派遣した[395]。補陀禅寺の長老・如智が使節団に選ばれたのは、日本が仏教を厚く信仰しており、僧侶ならば日本を服属させ得ると考えられたためであった[395]。 ところが、使節団が対馬に至った際に、日本に向かうことを恐れた水夫らが船中において王積翁を殺害してしまったため、今回の使節団も日本側と接触する前に失敗した[380][395]。元の内乱と外征[編集]
ナヤン・カダアンの乱 ●1287年︵弘安10年・至元24年︶、遼陽行省を中心にクビライ政権の支柱の一つである東方三王家の首班・ナヤン︵乃顔︶が反乱を起こした。 このナヤンの反乱に関しては、クビライの日本侵攻計画によって、東方三王家の領民にまで造船などの出兵準備で動員がなされ大きな負担となっていたこと[396]、さらにこの日本出兵準備によりクビライの中央権力が東方三王家の支配領域に深く介入したことへの反発があったとも考えられる[397]。 クビライの親征によりナヤンの反乱は一旦鎮圧され、東方三王家の当主たちは軒並み異動されたが、今度はこの戦後処理に不満を持ったカチウン家の王族・カダアン︵哈丹︶が蜂起。1290年代にはカダアン軍が高麗に侵入し、いくつかの城塞を占拠し、一部は高麗の首都・開城より南の忠州にまで侵入した。カダアンら反乱軍も元からの援軍もあって鎮圧されたが、ナヤンの反乱の時には、クビライに敵対する中央アジアのカイドゥ︵海都︶もカラコルムを目指して進撃しており、1287年から1291年にかけて、元の東部全域から北部、また高麗内外では騒乱が続いた。 陳朝大越国侵攻 ●また、モンゴル帝国第4代皇帝・モンケ︵蒙哥︶の時代に服属していたベトナム北部の陳朝大越国でも、元によるベトナム南部のチャンパ王国侵攻に対しての過剰な物資徴発に抗議して太上皇・陳聖宗が中心となって反乱を起こした。これに対してクビライは、軍船500艘、92,000の兵︵元軍7万、新附軍1千、雲南軍6千、黎兵︵海南島の黎族兵︶1万5千︶を派遣した[398]。両軍激しい消耗戦となり、最後に元軍は雲南へ撤退中に襲撃を受けて壊滅的な損害を受けている︵白藤江の戦い︶。 これらの内乱、南方での軍事的な失敗などもあって日本侵攻計画は当分の間は浮上しなかった。クビライはナヤン︵乃顔︶の反乱を境に東南アジア・インド洋方面への軍事的政策を、経済・通商を重視した和平路線へ転換したとも言われており、陳朝大越国やチャンパ王国、また1290年代に侵攻があったジャワ島のマジャパヒト王国でも交戦後ほどなくして服属関係の修復や朝貢関係の再締結の使節が交わされている。これらの戦役後も中国沿岸部から東南アジア方面への商船の往来は活発化し、クビライ治世末期には南方への元からの軍事的脅威はほぼ解消した。第十一回使節[編集]
●1292年︵正応5年・至元29年︶7月、クビライの重臣であった江淮行中書省参知政事・燕公楠が、交易により来航した日本の商船に日本宛の書状を託し、その日本船によって日本側に書状がもたらされた[399][400][401]。なお、書状の内容は史料として残っておらず、またクビライの命によるものかは詳らかではない。第十二回使節[編集]
●1292年︵正応5年・至元29年︶、クビライから漂着した日本人の護送を機に日本側に服属を迫る国書を渡すよう命じられた高麗国王・忠烈王は、高麗人の太僕尹・金有成を正使に書状官・郭鱗らを日本へ派遣した[402]。 日本に到着した金有成らは日本側によって鎌倉へ連行され[403]、その後の様子は詳らかではない。なお、その後、高麗を訪れた日本僧の情報によれば﹁︵金︶有成、丁未︵1307年︶七月五日、病卒﹂[404] とあり、金有成が使節として日本に到着して以来、15年近く日本で生存していたことがわかる。第三次日本侵攻計画︵クビライ晩年︶[編集]
クビライは5年にわたる内乱が鎮まると、再び日本侵攻を考え始めた。 ●1292年︵正応5年・至元29年︶、中書省右丞の丁なる者がクビライに対して﹁江南の戦船は大きな船はとても大きいものの、︵台風により︶接触すればすぐに壊れた。これは︵第二次日本侵攻の︶利を失する所以である。高麗をして船を造らせて、再び日本に遠征し、日本を取ることがよろしい﹂と進言した[324]。これを受けてクビライは近臣らに日本侵攻の是非を問うたという[324]。それに対して、洪茶丘の弟・洪君祥は﹁軍事は重大なことです。先に遣使し、これ︵日本侵攻の是非︶を高麗に問い、然る後に之を行うべきです﹂と進言したため、クビライはそれを了承した[324]。 高麗に遣わされた洪君祥は、7年間、元に勾留されていた漂着した日本人の護送を高麗に命じるとともに︵第十二回使節︶、日本侵攻の是非を高麗国王・忠烈王に問うた。忠烈王は﹁臣︵忠烈王︶は、既に不庭の俗︵日本︶に隣接しています。願わくば、当に自ら︵日本を︶致討し、僅かながら功労を立てます﹂と答えて、日本侵攻に積極的姿勢をクビライに示した[405]。それを受けて、クビライは再び、戦艦の造船を高麗に命じる[406]。ところが、この頃には相次ぐ造船により、すでに高麗では木材がほとんど尽きていたため、造船できるような状況では無かったという[407]。 ●1294年︵永仁2年・至元31年︶1月、大元朝初代皇帝・クビライが没する。クビライが死去したことに伴い、高麗での造船は停止し、幾度も持ち上がっては消えた日本侵攻計画はようやく中止となった[407]。 ●1298年︵永仁6年・大徳2年︶、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムル︵鐵穆耳︶に対して、江浙省平章政事・イェスタル︵也速答兒︶が日本を征すことを願ったが、テムル︵鐵穆耳︶は﹁今は其の時に非ず。朕、おもむろに之を思わん﹂と述べてイェスタル︵也速答兒︶の進言を退けた。以後、元において日本侵攻計画が持ち上がることは無かった[408]。第十三回使節[編集]
●1299年︵正安元年・大徳3年︶、クビライの後を継いだ大元朝第2代皇帝・テムル︵鐵穆耳︶は、補陀禅寺の僧・一山一寧を正使として国書を託して日本へ派遣する[409]。この一団が元が日本へ派遣した最後の使節団となった。 一山一寧らが博多に至ると鎌倉幕府9代執権・北条貞時の命により、一山一寧らは鎌倉に連行され伊豆の修禅寺に留め置かれた[410]。 後に一山一寧は徳の高い高僧であったことなどから日本側に厚遇をもって迎えられ、後に建長寺の住持や後宇多上皇の招きにより京都の南禅寺3世を務めるなどして1317年︵文保元年・延祐4年︶に日本で死去した。瑠求侵攻と正安の蒙古襲来[編集]
詳細は「モンゴルの瑠求侵攻」を参照●1291年︵正応4年・至元28年︶9月、元は6,000人の大軍で瑠求︵りゅうきゅう︶に侵攻する計画をたて[411]、翌年の1292年3月、元は瑠求に武力侵攻[412]。クビライの後を継いだテムルは即位後の1297年9月に、再度瑠求へ侵攻。島民130人を拉致する。なおこの﹁瑠求﹂が琉球か台湾かについては諸説ある[413]。 ●1301年︵正安3年・大徳5年︶11月、薩摩国甑島の沖に異国船200隻が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものともされるが、正安の蒙古襲来とも呼ぶこともあり[413]、1292年・1297年の瑠求侵攻と関連したものとする説もある[413]。 ●1592年豊臣秀吉による文禄の役においては北元︵韃靼︶勢力下にあったオランカイに侵攻している。影響[編集]
元・高麗側の状況と影響[編集]
浙江大学教授・王勇によれば、弘安の役で大敗を喫した元は、その海軍力のほとんどを失い、海防の弛緩を招いた[414]。他方、日本では幕府の弱体化と御家人の窮乏が急速に進む中で浪人武士が多く現れ、それらの中から九州や瀬戸内海沿岸を根拠地に漁民や商人も加えて武装商船商団が生まれ、敗戦で海防力が弱体化していた元や朝鮮半島の沿岸部へ武力を背景に進出していったとする[414]。 1292年︵正応5年、至元29年︶、日本の商船が貿易を求めて四明︵現在の寧波︶にやってきたが、検査により船内から武具が見つかり、日本人が武具を隠し持っていたことが発覚した[415]。日本人による略奪の意図を恐れた元朝政府は都元帥府を設置して、総司令官・カラダイ︵哈剌䚟︶に海防を固めさせた[415]。 1304年︵嘉元2年、大徳7年︶、江南に度重なって襲来するようになった日本武装商船に警戒し、千戸所を定海に設けて海防を強化させ[416]、市舶司を廃して元の商人が海外に出ることを禁ずる禁海令を発布した[417]。王勇は、このように、元が倭寇と日本人の復讐を恐れたため、閉関主義へと態度を変化させ日本との通交を回避するようになったとする[414]。 また、高麗においても、二度に及ぶ日本侵攻︵文永・弘安の役︶及び第三次日本侵攻計画による造船で国内の木材が殆ど尽き、海軍力が弱体化したため、その後相次ぐ倭寇の襲来に苦戦を強いられる重要な原因となった[418]。日本脅威論の形成[編集]
鎌倉時代の日本刀 ﹃鍍金牡丹文兵庫鎖太刀﹄ 異国降伏を祈願した鎌倉将軍家より厳島神社に奉納された日本刀。元寇では、日本刀は戦場で大きな力を発揮した。南朝遺臣の鄭思肖は日本刀を評して﹁倭刀はきわめて鋭い﹂と指摘し日本征服が難しい理由の一つに日本刀の存在を挙げ[419]、クビライに仕えた王惲もまた元寇を受けて﹁刀は長くて極めて犀なるものを製り…﹂[164] と評すなど日本刀の鋭さに言及している。 重要文化財・厳島神社所蔵鎌倉時代の薙刀 ﹃鉄蛭巻薙刀﹄ 金・銀・鉄などを柄の部分に巻いたものを蛭巻という。鎌倉時代では戦場において槍は使用されておらず、薙刀が用いられていた。元寇に参戦した竹崎季長が描かせた﹃蒙古襲来絵詞﹄絵十二にも薙刀を持つ徒歩武者が描かれている。 誉田八幡宮所蔵 浙江大学教授・王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している[420]。 例えば、南宋遺臣の鄭思肖は﹁倭人は狠、死を懼︵おそ︶れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。︵中略︶倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし﹂[419] と述べ、また元朝の文人・呉萊は﹁今の倭奴は昔︵白村江の戦い時︶の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。︵中略︶その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。︵中略︶士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない﹂[421] と述べ、日本征服は無益としている。 また、明の時代の鄭舜功が著した日本研究書である﹃日本一鑑﹄では、元寇について﹁兵を喪い、以って恥を為すに足る﹂と評すなど、後の時代にも元寇の記憶は批判的に受け止められていたことが窺える[422]。 元寇の敗戦を通してのこういった日本軍将兵の勇猛果敢さや渡海侵攻の困難性の記憶は、後の王朝による日本征討論を抑える抑止力ともなった[423]。元の後に興った明による日本征討論が、初代皇帝・朱元璋︵洪武帝︶、第3代皇帝・永楽帝、第12代皇帝・嘉靖帝の時の計3回に渡って議論された[423]。 そのうち、朱元璋は軍事恫喝を含んで、明への朝貢と倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。ところが懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった。この返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという[424]。日本側の状況と影響[編集]
文永の役後、幕府は石築地の建設や輪番制の異国警固番役の設置など博多湾の防備を強化したが、しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちを不満にしたとされる。竹崎季長は鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている。 弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、この戦争に対しても十分な恩賞給与がなされなかった。また、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は解消されなかった。また、鎌倉幕府が女性の所領知行を制限・禁止する方針を明確にしていくことになったのは、元寇に対する異国警護体制の維持と関係しているとする見方もある。これは中世後期以降の父系嫡系単独相続や近世近代の家父長制における女性の無権利状態が成立していく背景として無視し得ないと考えられている[425]。 貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。借金が棒引きされた御家人も、後に商人が徳政令を警戒し御家人との取引・融資等を極端に渋るようになったため、結果的に資金繰りに行き詰まり没落の色合いを見せるようになった。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。宗教・思想への影響[編集]
蒙古退散を祈る日蓮。葛飾為斎・画 日蓮は、外国の侵攻という﹃立正安国論﹄における自己の予想の的中として元寇を受け止め、﹃妙法蓮華経︵法華経︶﹄の行者としての確信をますます強めた。浄土教を民間に広めた一遍の踊念仏にみられる熱狂の背景に、元寇の脅威による緊迫感・終末感があったという見解もある[426]。 この当時、神仏の国土守護の存在意義が社寺側によって宣伝され布教に利用された。各地の社寺縁起では、朝鮮半島を征服したとされる神功皇后の三韓征伐が想起され、日本の軍事力や神々の力の優越性が主張された。同時に、外国とりわけ元寇で主要な役割を果たした高麗が存在した朝鮮半島は征伐される悪人の地として位置付けられた[426]。伝承[編集]
その後の日本では、元寇の際、蒙古・高麗軍が日本を襲い虐殺を行ったことから、﹁蒙古・高句麗の鬼が来る﹂といって怖れたため、転じて恐ろしいものの代名詞として子供の躾けなどで、﹁むくりこくり、鬼が来る﹂と脅す風習などとなり、妖怪に転じて全国に広がった。モッコの子守唄︵青森県木造町︶のように﹁泣けば山がらモッコくるね、泣がねでねんねしな﹂などと、昔の元寇の記憶を子守唄にしたものなど、上記の残虐行為への恐怖を証明する民間伝承は全国に存在する。軍事[編集]
かつては元軍の集団戦術、いわゆる組織戦闘に対して、当時の日本側は一騎討ちを基本とした戦い方をしていたと言われていた。また元軍は﹃八幡愚童訓﹄によれば毒矢・てつはう︵鉄火砲︶など、日本側が装備しない武器を活用したことにより、各地で日本軍は圧倒されたと言われていた。しかし、現在の研究では双方共に被害を出していることが判明していることから、実際は日本側も集団戦術を取っていたと考えられている。集団戦法・一騎討ち[編集]
騎兵を密集させて集団で突撃する日本軍。クビライに仕えた王惲も武士 の様子を﹁騎兵は結束す﹂[164] と記している。 ﹃蒙古襲来絵詞﹄前巻・絵5・第17紙 ﹃八幡愚童訓﹄に記されているように、多くの書籍で元軍の集団戦法の前に一騎討ち戦法を用いる日本軍は敗退したと書かれている。しかし、﹃八幡愚童訓﹄は後世に記された宗教書であり、八幡神の化身の登場によって元軍を破ったことを強調しており、そのために日本軍が戦闘で一騎討ちなど稚劣な戦闘法で敗北したかのような記述になっているとの見解がある[427]。 一騎討ちに関しては、元寇に参戦した肥後国御家人・竹崎季長が描かせた﹃蒙古襲来絵詞﹄絵五に描かれているように、陸戦においては日本の武士たちが騎兵を密集した一団となって集団で戦闘が行われている様子が描かれており、一騎討ちを挑む武士は全く描かれていない。また、文永の役の元軍の博多湾上陸に際しては、日本軍の総大将・少弐景資は、赤坂から博多に進出してくる元軍を待ち受けるよう全軍に指示し、元軍が進出してきた後、元軍に集団で一斉に騎射攻撃を加える作戦を立てていた[161][162]。このように、特別な場合を除いて一騎討ちは行われておらず、一騎討ちは武士の通常の戦闘方法ではない[427]。武士団ごとにまとまって戦っていたと考えられている。 また、元朝の官吏・王惲は、元寇の際の武士の様子をその記事﹃汎海小録﹄において﹁兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す。殊に精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者甚々多し、刀は長くて極めて犀なるものを製り、洞物に銃し、過。但だ、弓は木を以って之を為り、矢は長しと雖えども、遠くあたわず。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず﹂[164] と記しており、武士が騎兵を結束させて集団で戦っていたことを指摘している。 ﹃元史﹄においても、日本の特性について﹁たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない﹂[197] とあり、一騎討ち戦法ではなく、日本が大軍を擁しており、上陸した場合四方から元軍に攻撃を仕掛けてくることを元朝政府が警戒している様子が記されている。てつはう[編集]
てつはう 松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 正式には震天雷や鉄火砲︵てっかほう︶と呼ばれる手榴弾にあたる炸裂弾である。容器には鉄製と陶器製があり、容器の中に爆発力の強い火薬を詰めて使う。使用法は導火線に火を付けて使用する。形状は球型で直径16-20 cm、総重量は4-10 kg︵約60%が容器の重量、残りが火薬︶ある。 2001年︵平成13年︶、長崎県の鷹島海底から﹁てつはう﹂の実物が2つほど発見され、引き揚げられた。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた直径14cmの素焼物の容器で重さは約4kgあった。なお、この﹁てつはう﹂には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片を容器の中に入れ、爆発時に鉄片が周囲に撒き散り殺傷力を増したとも考えられる。 歴史学者・帆船学者の山形欣哉によると、﹁てつはう﹂の使用方法や戦場でどれだけ効果があったかは不明な点が多いとしている。理由としては、﹁てつはう﹂は約4kgもあり、手投げする場合、腕力があるものでも2、30mしか飛ばすことができず、長弓を主力武器とする武士団との戦闘では近づくまでに不利となる点を挙げている。 ﹁てつはう﹂をより遠くに飛ばす手段として、襄陽・樊城の戦いの攻城で用いられた回回砲︵トレビュシェット︶や投石器がある。しかし、山形欣哉は投石器を使用する場合、多くの人数を必要とし連続発射ができないなどの問題点もあったとしている。例えば、後の明王朝の時代ではあるが、﹁砲﹂と呼ばれる投石器は、一番軽い1.2kgの弾を80m飛ばすのに41人︵1人は指揮官︶も要した。したがって、組立式にし日本に上陸して組み立てたとしても、連続発射はできなかったものとみられ、投石機を使用したとしても﹁てつはう﹂が有効に機能したとは考えられず、投石器を目指して武士団が突進した場合、対抗手段がないとしている[428]。和弓と蒙古弓[編集]
和弓 鎌倉時代~南北朝時代 重要文化財・大山祇神社所蔵蒙古弓 河野通有奉納﹃鯨鬚張半弓﹄ 重要文化財・大山祇神社所蔵蒙古弓 全長64cm 弓の裏面に﹁元寇ニ賊将ヲ斃シ分捕ス﹂という文字が刻まれている。 元寇史料館所蔵蒙古弓と蒙古矢 筥崎宮所蔵 和弓の第一の特徴は、弓が約2.2mもあり世界最大の長弓であったことにある。長弓であることは矢を引く長さ︵矢尺︶を伸ばし弓矢の威力が増大することを意味し、現存している鎌倉時代の矢から80-90cm前後の矢尺を引いたと推測される。 第二の特徴は弓を握る位置にある。日本以外の弓では握りの位置が弓の中央であるのに対して、和弓は上から2/3の中央より下の方を握るようになっており、短下長上という構造になっていた。これは弥生時代には確認できる日本独特の弓の特徴であった。中央より下方を握ることで以下の利点があった。同一の弓でも弓力︵弓が矢を放つ力︶が増大すること。短下長上という構造上、矢の角度が仰角となり、結果、射程をより長くできた。さらに弓幹の振動がこの握りの近辺では少なく、操作しやすいことなどが挙げられる。 第三の特徴としては﹁弓返︵ゆがえ︶り﹂といわれるものがある。これは、矢が発射された直後に、弓を握る左手の中で、弓が反時計回りにほぼ1回転することをいう。これも日本独特のものであり、鎌倉期〜南北朝期の射術の進歩、弓の改良によって新しく起こった現象である。この﹁弓返り﹂により、弓の復元力︵弓が矢を発射する前の本来の形状に戻ろうとする力︶は速さを増し、矢はさらに加速され威力を増した。ただし、実戦では矢の連射性を重視したため、復元に手間が掛かる﹁弓返り﹂はさせなかった。 一方、蒙古弓は、長さが1.5m〜0.6mで短弓である。弓は牛の角と腱と木を組み合わせて作られている。弓全体の芯となっているのは木であり、弓の弦側には圧縮に強い牛の角を加工したものを張り付け、その反対側には伸張に対して強度のある腱を張り付けてある。そして、弓全体を接着力強化のため樹皮で巻き、また湿気予防のために塗料が塗られた。また、弓は弦を外すと反対側に大きく反る形に作られており、矢の速度および飛距離が増すよう工夫されている。矢の先には鏃が付けられ、その形状には各種ある。弓の弦は鹿︵アンテロープ︶の首の皮で作られ、丈夫にできている。 なお、和弓と蒙古弓についてそれぞれ言及されている史料もあり、日本側の史料﹃八幡愚童訓﹄によると﹁蒙古か矢、みしかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣にまく…﹂とあり[179]、一方、元側の史料の﹃汎海小録﹄によれば和弓ついて﹁弓︵和弓︶は木によって作られ、矢は長いが遠くには届かない﹂[164] とある。-
騎馬兵[編集]
モンゴル型馬具︵鐙︶ 高さ16cm、直径15cm、重さ3kg 元軍は多民族連合軍であったが、この鐙︵あぶみ︶はモンゴル独自の鬼紋が確認できるため、この鐙を使っていたのはモンゴル人であったと思われる。 元寇史料館所蔵鎌倉時代の日本の鐙 ﹃舌長鐙﹄ 踵を踏みつけ易い形状で、日本の軍事スタイルである長弓による騎射に適したものであった。この舌長鐙は鎌倉時代に流行した。なお、この型の鐙は日本以外ではみられず、日本独自に発展した鐙であった。 東京国立博物館所蔵文永の役で元側が馬を戦場で使用したことは﹃蒙古襲来絵詞﹄や﹃八幡愚童訓﹄からも窺え、﹃高麗史﹄にも高麗南部に日本侵攻に用いる軍馬のための糧秣を配給するアウルク︵奥魯︶が設置されていることからも、軍馬が文永の役で使用されたことは間違いないが、正確な軍馬の数は不明。 ﹃蒙古襲来絵詞﹄絵八の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で﹃八幡愚童訓﹄でも元軍の左副都元帥劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に﹁十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…﹂[182] とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。なお、室町時代に日朝が著した日蓮の﹃立正安国論﹄の注釈書﹃安国論私抄﹄︵文明11年、1478年擱筆︶第一巻﹁蒙古詞事﹂︵の﹁文永十一年蒙古責日本之地事﹂︶には﹁或記云﹂として、文永の役での日本軍の捕虜となった元兵の証言によれば、元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている[158][429]。 また、対する日本軍は、陸戦においては騎兵を密集させた集団で戦っていた。そのことは、クビライに仕えた王惲が日本軍の様子を﹁騎兵は結束す﹂[164] と記していることや﹃蒙古襲来絵詞﹄絵五に騎兵を密集させて突撃する日本軍の様子が描かれていることからも窺える。 なお、両軍が使用した軍馬は、日本在来馬とモンゴルのモウコウマともに体高としては120〜140cmほどであり、体格に差は無かった。元軍船[編集]
- 文永の役の元軍船
元軍が撤退中に暴風雨を受けた文永の役においては、高麗は軍船を建造するのに﹁蛮様﹂︵南宋様式︶の船︵竜骨を持ち、隔壁構造の船︶にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている[430]。 弘安の役の元軍船元軍船の大碇︵3号︶ 本体残長2.66m、推定全長約7.3m 1994年︵平成6年︶の神崎港発掘調査で水深20~22mの海底から発掘された。この碇は発見された元軍の碇の中で最大の碇で、この碇から推定される元軍船の全長は約40mにも達する。 松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵元軍船の碇︵4号︶ 松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 弘安の役において台風により元軍船が沈没した理由として、船の建造が、服属させた高麗人や南宋人に造らせたことにあるという粗製乱造説がある。彼らはモンゴル人支配に不満を募らせていたという前提の下、造船が急務であったこともあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていたのではないかという説である。しかし、手抜きを裏付ける史料は無く、むしろ元朝の官吏・王惲の記事﹃汎海小録﹄や﹃高麗史﹄には高麗船が頑丈だったことが指摘されており、実際に高麗船での生還者は多かった。詳しくは弘安の役・台風を参照。 また、長崎県松浦市の海底遺跡﹁鷹島神崎︵ ﹂で発見された元軍沈没船の琉球大学と松浦市教委による調査の結果、元軍船の船底は二重構造となっており、頑丈に造られていたことが判明した。調査を主導した琉球大学教授・池田栄史によると、船底に内側から木材を張って二重に補強することで水が入り込まないように工夫していたとみられ、当時の貿易船では見られない頑丈な構造であった。これらの新発見の結果、池田栄史は﹁︵元軍船は︶丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは﹂と粗製乱造説に否定的見解を示した[431]。なお、発見された元軍船の全長は、25〜27mほどと推定されている[432]。また、船体とは別に発見されていた最も大きい碇の一部から推定できる最大級の元軍船は40mに達するという見解もある[433]。こうざき︶遺跡 研究と評価[編集]
日本侵攻理由の諸説[編集]
文永の役は征服を目的とした侵攻では無く、威力偵察ではなかったかとの説もある[434]。モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100〜10,000規模での威力偵察を数度行った後、本格的な侵攻を行うことがある。例えば、モンゴル帝国の外交交渉では、チンギス・カンからオゴデイの時代に掛けて行われた金王朝侵攻では、数度にわたり﹁軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し服属を呼び掛けていたことが知られており、侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、領土征服をせずに軍が撤退する場合もあった[435]。 また、﹃元史﹄には文永の役において、元軍の矢が尽きたという記述が見られ、当時の主力武器である矢がすぐに尽きる程度の準備で来るとは考えにくいこと、日本を征服するには33,000人程度という少ない兵力であることを威力偵察の根拠に挙げている。しかしながら、元軍の日本以外の派兵兵力は、渡海侵攻である三別抄の乱鎮圧戦ではおよそ12,000[100]、樺太侵攻でも最大で10,000[57]、ジャワ侵攻で20,000[436] であり、文永の役の兵力はその他の侵攻と比べて、決して規模の小さいものではなかった。また、偵察目的であることを裏付ける史料はなく、﹃元史﹄の矢が尽きたという記述の前に、撤退理由として﹁官軍︵元軍︶整わず﹂とあり、日本軍との戦闘に及んで編成を乱し、撤退することに決した元軍の様子の記述があり、予定通りの撤退であったとは書かれていない[188]。また、﹃高麗史﹄においても、元軍は日本軍の頑強な抵抗に遭い、兵力不足を勘案した結果、元軍の総司令官である都元帥・クドゥン︵忽敦︶が撤退を決断したことが記されている[175]。 一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。 旧南宋軍が主力となった江南軍10万人については軍隊兼移民団だったのでは、との見解がある[437]。元々、南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかったのではないかとしている。旧南宋軍の新たな雇用先として受け入れたことも元朝にとって負担であり、また軍を解散させると職を失った大量の兵士たちが社会不安の要因となってしまうというものだが、征服した現地兵を次の戦争に投入することはモンゴル帝国では創建初期からよく行われており、日本との戦いの時のみことさら強調すべきこととは考えにくい、というものである[要出典]。陰謀論[編集]
江戸時代後期の国学者橘守部は、元寇は朝廷潰しを企んだ鎌倉幕府・北条氏と元朝が結託して行った自作自演であるという説を唱えた。天保の国学四大家の一人に数えられる守部がこのような荒唐無稽な珍説を提唱した背景は不明だが、一説には北条時宗を高く評価していた国学者・本居宣長に対する当てつけだと言われる[438]。海底調査[編集]
鷹島神崎遺跡 国の史跡・長崎県松浦市神崎免地先管軍総把印 高さ6.2cm、印面幅6.5cm×6.6cm、重さ726g 松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵管軍総把印︵裏面︶ 裏面の鉛右側には﹁管軍総把印﹂、左側には﹁中書礼部 至元十四年︵1277年︶九月 日 造﹂と刻まれている。 松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵元軍の壷 高さ34cm、重さ1.2kg 鷹島沖から発見された壺。現地では、元軍の壺は唐壺︵とうつぼ︶と呼ばれている。 元寇史料館所蔵 近年の海底調査では、長崎県鷹島南部の海底から元軍の刀剣や碇石などが発見されている。 海から引き揚げられた物の中には、元軍中隊長クラスの管軍総把の証である﹁管軍総把印﹂と刻まれている青銅印が発見されている。管軍総把印の印字は、元朝の国字パスパ文字で刻まれており、印面の裏の左側は漢字で﹁中書礼部 至元十四年︵1277年︶九月 日 造﹂の字がみえる[439]。 2011年10月24日、琉球大学教授・池田栄史の研究チームが、伊万里湾の鷹島沖海底に沈んでいる沈没船を元寇時の元軍船と判定したと発表した。2011年11月16日に参議院に提出された﹁長崎県松浦市鷹島沖で発見された元寇船の文化財指定及び保存の在り方に関する質問主意書﹂[440] に対して、政府は同1月25日の答弁書において文化庁において文化財指定に向けた準備を進める見解を示し[441]、その後元軍船が発見された鷹島東部沖合は﹁鷹島神崎︵ ﹂として国の史跡に指定され、日本初の水中遺跡となった。 2014年10月2日には、さらに2隻目となる元軍船を1隻目の発見地点より東に約1.7kmの地点で発見したことを池田栄史が発表。左右両側の外壁板や船体内の隔壁板の構造が分かる良好な状態で残っていることを明らかにした。なお、船体は長さ約12m、最大幅約3mで、周辺から中世の中国製とみられる茶碗、壺といった陶磁器が約20点見つかり、船体は外板が3枚打ち付けられ、船内が9枚の隔壁で仕切られている等、中世の中国船の特徴が確認できることから、江南軍の船体であったと思われる [442]。こうざき︶遺跡 -
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獅子像
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 -
木印
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵 -
磚(せん)
重さ1kg・2kg・2.5kgの三タイプ
元軍が使用したレンガ。用途としては船のバランスをとるためのバラストとしての機能や簡易の建築に利用したものとみられる。
松浦市立鷹島歴史民俗資料館所蔵
日本の封建制[編集]
今谷明は、日本の勝因として、その理由を強固な組織としての封建制とそれに基づく挙国一致体制の完備によるという見解を出している[443]。今谷明は、蒙古軍が制圧できなかったエジプトのマムルーク朝[444] や神聖ローマ帝国[445] と日本の3つの地域に共通するものとして、強固な組織としての封建制があることを指摘している[443]。今谷はマムルーク朝についてイクター制研究で著名な佐藤次高の説明を引用し、マムルークが主君であるスルターンから与えられる地租︵ハラージュ︶等の租税徴収権とその当該地であるイクターを﹁地頭職と読み換えれば、日本の御家人制にそっくりの構造が浮かび上がる﹂と述べ、加えてスルターンとの強い忠誠心やマムルーク相互の間での強い仲間意識など日本の御家人制との共通点を指摘している[446]。また、マムルーク軍団の源流としてアラブ征服時代のアラブと征服地域の非アラブとの間に行われたパトロン︵保護者︶ - クライアント︵被保護者︶の関係、﹁ワラー関係﹂についての清水和裕の研究[447] にも触れ、清水の﹁主人と従属者の間に結ばれる、法的に保証された個人的紐帯であった﹂という説明から、これらも﹁日本の武士団の勃興とその封建制的関係に極めて似通った軍団の性格がみられるということになろう﹂と評している[448]。高麗人の関与[編集]
上記﹁日本招諭の発端﹂の節にもあるように、1265年︵文永2年・至元2年︶、高麗人である趙彝︵ちょうい︶がクビライに﹁日本は高麗の隣国であり、典章︵制度や法律︶・政治に賛美するに足るものがあります。また、漢・唐の時代以来、或いは使いを派遣して中国と通じてきました﹂[60] とし、日本との通交をクビライへ進言している[59]。このことがクビライが日本に興味を持つ契機となった。 1272年︵文永9年・至元9年︶には、高麗国王・元宗の子の王世子・諶︵しん、後の忠烈王︶が、大元朝のクビライに﹁日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。今こそ戦艦兵糧を使うべきです。わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております﹂[449] と具申した記録が﹃高麗史﹄に残っている。李氏朝鮮の柳成龍の﹃懲毖録﹄にも﹁昔、高麗が元の兵を導いて日本を攻撃した﹂とあり、李氏朝鮮時代においても元寇に対する高麗の主導的な関与があったとの認識であった[450]。 また﹃元史﹄によると高麗国王・忠烈王は弘安の役後、﹁高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。﹂と150艘の軍船を自ら作り、日本遠征を援助したいとクビライに上奏している[355]。 高麗はモンゴル帝国の侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴル帝国の兵力を借りることによって王権を奪い返したため、それ以後、高麗王はほとんどモンゴル帝国に頼り、モンゴル名を貰い、モンゴル帝国皇帝の娘を王妃にし皇帝であるクビライ王家の娘婿︵キュレゲン、グレゲン︶となる姻族、﹁駙馬高麗国王家﹂となっていた[451]。このようなモンゴル帝国に頼らざるを得ない状況の忠烈王が、自身の王権を保つためにクビライの意を迎えようと、これらの発言を行ったとする見解がある。日蓮伝「手ヲトヲシテ船ニ結付」の解釈[編集]
「日蓮」を参照日蓮は大量の書簡を自筆して弟子や信徒たちに発送し、信徒や弟子達もこれを大切に保管したため、現在でも真筆とみなし得る著作や書簡、断片を含めても600点を越えるとされている[452]。しかし、一般信徒に向けた日蓮の伝記や書簡の整理は教団の拡大が進展する室町時代頃から本格的に始まる。室町時代、応仁の乱以降に日蓮宗の勢力拡大とともに教団内外の要請に応える形で各種の日蓮の伝記集が成立した。このうち﹃元祖化導記﹄と﹃日蓮聖人註画讃﹄が後代まで模範となる主要な日蓮伝の双璧となったが、日朝の﹃元祖化導記﹄は日蓮の書簡を主要典拠として正しい日蓮の歴史像を明示しようという学究性の高い伝記であった。﹃元祖化導記﹄と時期を同じくして成立した日澄の﹃日蓮聖人註画讃﹄はとりわけ日蓮の各種書簡と伝世された祖師伝説とを合わせて成立した絵巻による伝記であり、全国的な日蓮宗の布教網の拡大に合わせ、当時の日蓮宗徒や巷間に流布していた﹁超人的で理想的な祖師像﹂に合致した内容でもあった[453]。﹃日蓮聖人註画讃﹄の第59段﹁蒙古来﹂は文永の役について﹁一谷入道御書﹂を主な典拠としており、﹁一谷入道御書﹂で日蓮が伝えた﹁手ヲトヲシテ船ニ結付﹂という文言はここでも現れている。特に﹃日蓮聖人註画讃﹄は室町時代から江戸時代にかけての一般的な︵超人的な能力や神通力を具有する祖師としての︶日蓮像の形成に強い影響を及ぼすことになる[454]。 ﹃日蓮聖人註画讃﹄は江戸時代に入って幾度も刊本として出版されており、江戸時代における元寇関係の研究書では、津田元貫の﹃参考蒙古入寇記﹄や群書類従の編者でもある塙保己一の﹃螢蠅抄﹄、橘守部の﹃蒙古諸軍記弁疑﹄などで頻繁に引用されている[455]。本来﹃日蓮聖人註画讃﹄は文永・弘安の役についての史料としては日蓮の没後200年程たって成立したことからも明らかなように二次的なものに過ぎないのだが、江戸時代における﹃日蓮聖人註画讃﹄の扱いは、橘守部が﹁日蓮画讃の如き実記﹂と述べているように﹁実記﹂として意識され、大抵は無批判に引用される傾向があった[456]。﹃日蓮聖人註画讃﹄の文永・弘安の役についての史料価値についての批判的研究は、明治時代、1891年︵明治24年︶になって小倉秀貫が﹃高祖遺文録﹄などにある日蓮書簡の詳細な分析を通さないうちは史料とはみなせない、と論じるまで待たねばならない[457][458]。明治期に入り、小倉と同じ1891年︵明治24年︶11月に山田安栄は日本内外の元寇関係の史料を収集した﹃伏敵編﹄を著した[459]。﹃伏敵編﹄は﹃善隣国宝記﹄や﹃異称日本伝﹄、﹃螢蠅抄﹄、﹃蒙古諸軍記弁疑﹄、大橋訥庵﹃元寇紀略﹄など江戸時代やそれ以前から続く元寇史研究の成果を批判的に継承したもので、従来から引用されて来た諸史料をある程度吟味しながら引用やその資料的な批判を行っている。一方で、﹃伏敵編﹄の編纂は、当時、福岡警察署長の湯地丈雄の主導で長崎事件︵1886年︶を期に進められていた元寇記念碑建設運動との関係で行われたものであり、日清戦争への緊迫した情勢を反映して、江戸時代からの攘夷運動の流れを組みつつも自衛のための国家主義を標榜するという山田安栄の思想的な表明の書物でもあった[460]。 山田安栄は﹃日蓮聖人註画讃﹄の﹁手ヲトヲシテ船ニ結付﹂についても論じており、﹃太平記﹄の記述﹁掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ﹂や、﹃日本書紀﹄と比較しつつ、﹁索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。﹂と述べ、捕虜となった人々の手首同士を綱や縄で結び付けているのではなくて、手のひらを穿って傷つけそこに綱を貫き通してそれらの人々を舷端に結わえ付けた、と文言の解釈を行っている[461]。さらに山田安栄は、﹃日本書紀﹄の天智天皇の時代︵662年︶について書かれた高麗の前身の国家である﹁百済﹂での事例を引き合いに出し﹁手掌ヲ穿傷……﹂︵手の平に穴をあけてそこへ縄を通す﹂の意︶やり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としたうえで[461]、この行為を蒙古というより高麗人によるとしている。 翻って、日蓮自身、﹁一谷入道御書﹂以降の書簡において何度か文永の役での被害について触れており、その度に掠奪や人々の連行、殺戮など﹁壱岐対馬﹂の惨状について述べており、朝廷や幕府が日蓮の教説の通り従わず人々も南無妙法蓮華経の題目を唱えなければ﹁壱岐対馬﹂のように京都や鎌倉も蒙古の殺戮や掠奪の犠牲になり国は滅びてしまうとも警告している[462]。元使殺害[編集]
文永の役後に行われた使者殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためという見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為が行なわれたようである。﹃八幡愚童訓﹄には﹁此牒使、夜々ニ筑紫ノ地ヲ見廻リ、船津・軍場・懸足待路ニ至ルマデ差図ヲシ、人ノ景色ヲ相シ、所ノ案内ヲ註シ、計リスマシテゾ帰ケリ。﹂[463] とある。更に1370年に訪日した明使・趙秩に対して懐良親王が﹁願るに蒙古は戎狄にして華に莅み小国をもって我を視る。乃ち趙良弼を使わし我を﹁言朮﹂うに好語もてす。初めその我が国を覘うを知らざるなり。既に而して船数千を発し我を襲う。﹂[464] と述べており、元寇から約100年後でも日本側は趙良弼が日本侵略のためのスパイ行為を行っていたと認識していたことが分かる。﹃元史﹄でも、趙良弼はほぼ1年間、太宰府に留まっていたが、その間﹁日本の君臣の爵号、州郡の名称とその数、風俗と産物﹂などの情報収拾を行い、帰還して後にクビライに報告した[118]。ただし、趙良弼は日本侵攻については﹁臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見るに、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親︵孝行︶、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人︵日本人︶を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師︵軍船︶が海を渡るには、海風に定期性が無く、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑︵底の知れない深い谷︶を埋めるようなものです。臣が思うに︵日本を︶討つこと無きが良いでしょう﹂と述べ、日本侵攻に反対した[119]。 こういった行為が間諜であったと考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置する考え方などがある。元使殺害の評価については同時代では日蓮が批判し、後世では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙とする見解もあるが、﹃大日本史﹄や頼山陽らは国難に対しては手本にすべき好例と評価している。神国思想[編集]
「神国」を参照異国調伏祈祷[編集]
文永の役に先立つ1271年︵文永8年・至元8年︶10月25日に、後深草上皇が石清水八幡宮へ行幸して異国の事について祈願しており、文永に際して、亀山上皇は石清水八幡宮へこの報賽のため自ら行幸、参拝し徹夜して勝利と国土安穏の御祈謝を行った。翌9日には賀茂・北野両社へも行幸している。 弘安の役においても朝廷から22社への奉幣と異国調伏の祈祷が命令が発せられ、後深草上皇、亀山上皇の御所でも公卿・殿上人らの公家、上皇の身辺を警護する北面武士による般若心経30万巻の転読などの祈祷や持仏堂への供養が行われた。 朝廷や幕府は、元からの使者が来航した直後から石清水八幡宮や宇佐八幡宮などの主な八幡社、伊勢神宮、住吉大社、厳島神社、諏訪大社、東大寺、延暦寺、東寺など諸国諸社寺に異国調伏の祈祷や祈願、奉幣を連年盛んに行っていた。 幕府は弘安4年から翌5年にかけて、これら九州の諸社および伊勢神宮に対して﹁興行法﹂と呼ばれる一種の徳政令が発布し、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じている。現代中国における元寇[編集]
元朝については、中国の中学高校の歴史の授業で教えられているが、日本への進攻については短く書かれているだけで、日中戦争のような積極的に取り上げるべき重要事項とはされていない。史料[編集]
日本側史料[編集]
●﹃蒙古襲来絵詞﹄︵竹崎季長︶ ●﹃福田文書﹄ ●﹃金剛集﹄︵日向 ︶ ●﹃朝師御書見聞 安国論私抄﹄︵日朝︶ ●﹃五代帝王物語﹄ ●﹃五檀法日記﹄ ●﹃関東評定衆伝﹄ ●﹃鎌倉年代記﹄ ●﹃帝王編年記﹄ ●﹃深心院関白記﹄︵近衛基平︶ ●﹃吉続記﹄︵吉田経長︶ ●﹃勘仲記﹄︵広橋兼仲︶ ●﹃師守記﹄︵中原師守︶ ●﹃弘安四年日記抄﹄︵壬生顕衡︶ ●﹃公衡公記﹄︵西園寺公衡︶ ●﹃調伏異朝怨敵抄﹄︵宗性︶ ●﹃蒙山和尚行道記﹄︵東越允徹︶ ●﹃大般若波羅蜜多経﹄巻第四百九十八 ●﹃金剛仏子叡尊感身学正記﹄︵叡尊︶ ●﹃善隣国宝記﹄︵瑞渓周鳳︶ ●﹃日田記﹄ ●﹃一代要記﹄ ●﹃皇年代略記﹄ ●﹃歴代皇紀﹄︵洞院公賢︶ ●﹃八幡愚童訓﹄ ●﹃日蓮聖人註画讃﹄︵日澄︶ ●﹃予章記﹄ ●﹃将軍執権次第﹄ ●﹃武藤系図﹄ ●﹃宇都宮系図﹄ ●﹃深堀系図証文記録﹄ ●﹃龍造寺系図﹄ ●﹃江上系図﹄ ●﹃財津氏系譜﹄ ●﹃歴代鎮西要略﹄ ●﹃鎌倉遺文﹄元朝側史料[編集]
●﹃元史﹄ ●﹃元文類﹄ ●﹃新元史﹄ ●﹃元高麗紀事﹄ ●﹃心史﹄中興集 元韃攻日本敗北歌︵鄭思肖︶ ●﹃癸辛雑識﹄続集下︵周密︶ ●﹃隣交徴書﹄二篇巻一 論倭︵呉萊︶ ●﹃秋澗先生大全文集﹄巻四十 汎海小録︵王惲︶ ●﹃元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘﹄ ●﹃元朝名臣事略﹄野斎李公撰墓碑︵蘇天爵︶ ●﹃滋溪文稿﹄巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘︵蘇天爵撰︶ ●﹃道園類稿﹄巻四十九 趙夫人墓誌銘︵虞集撰︶ ●﹃墻東類稿﹄故武徳将軍呉侯墓志銘︵陸文圭撰︶ ●﹃呉文正集﹄巻六十六 有元懐遠大将軍処州万戸府副万戸邢侯墓碑︵呉澄撰︶ ●﹃呉文正集﹄巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状︵呉澄撰︶ ●﹃至正集﹄巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上柱国曹南忠宣王神道碑銘并序︵許有壬撰︶ ●﹃賛皇復県記﹄ ●﹃続文献通考﹄ ●﹃日本一鑑﹄︵鄭舜功︶ ●﹃明史﹄高麗側史料[編集]
●﹃高麗史﹄ ●﹃高麗史節要﹄ ●﹃東国通鑑﹄ ●﹃三韓詩亀鑑﹄感渡海︵郭預︶ ●﹃圓鑑国師集﹄東征頌︵冲止︶ ●﹃金方慶墓誌銘﹄ ●﹃金周鼎墓誌銘﹄ ●﹃朝鮮王朝実録﹄太祖実録 総序ヨーロッパ側史料[編集]
●﹃東方見聞録﹄︵マルコ・ポーロおよびルスティケロ・ダ・ピサ︶資料館[編集]
福岡県 ●元寇史料館 - モンゴル型鎧兜や弓等の武具を収蔵。入館は要予約。 ●筥崎宮宝物館 - モンゴル型兜や弓等を収蔵。非公開。 ●九州国立博物館 - 元軍の火薬兵器﹁てつはう﹂等を収蔵。 ●しかのしま資料館 - モンゴル型兜を収蔵。 長崎県 ●松浦市立鷹島歴史民俗資料館 - 海底から引き揚げられた元軍の碇や蒙古剣・兜・てつはう等の遺物を収蔵。 ●長崎県立上対馬高等学校 - モンゴル型兜を収蔵。 熊本県 ●菊池神社歴史館 - 元寇で活躍した菊池氏に関する歴史館。元軍の物と伝わるモンゴル型鎧兜および弓矢を収蔵。 愛媛県 ●大山祇神社国宝館 - 弘安の役で活躍した河野通有奉納の大鎧や河野通有奉納のモンゴル型兜や蒙古弓等を収蔵。 奈良県 ●賀名生の里歴史民俗資料館 - モンゴル型兜を収蔵。史跡[編集]
福岡県 ●亀山上皇銅像 ●日蓮聖人銅像 ●今津元寇防塁 ●今宿元寇防塁 ●西新元寇防塁 ●生の松原元寇防塁 ●姪浜元寇防塁 ●地行元寇防塁 ●箱崎元寇防塁 ●西南学院大学の元寇防塁- 月曜日〜金曜日の午前9時〜午後5時まで見学可能。︵夏季休暇中の公開は午前10時〜午後4時まで︶ ●福岡市立博多小学校の元寇防塁- 毎週土・日曜日︵12/29〜1/3を除く︶午前10時〜午後5時まで見学可能。 ●筥崎宮 ●櫛田神社 ●祖原元寇古戦場跡 ●蒙古塚 ●火焔塚 長崎県 ●壱岐神社-少弐資時の墓 ●新城神社-平景隆の墓 ●新城の千人塚 ●安国寺 ●小茂田浜神社-文永の役の元軍による対馬侵攻で戦死した対馬守護代・宗資国らを祀る。毎年11月に、甲冑に身を固め海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀︵めいげんのぎ︶が行われる。 ●逃げの浦の石塁 千人塚 山口県 ●神功皇后神社 (豊北町)-山口県豊浦郡の土井ヶ浜を見下ろす神功皇后神社には、元軍の武器と伝わる﹁蒙古鉾﹂が宝物として保管されているが、鉾には江戸時代の元号である﹁延宝﹂の字が刻まれており、神功皇后神社に奉納され地中に埋もれ、時を経て発掘された際、形が変わっていたため元軍の武器として誤って伝わったと思われる[465]。関連作品[編集]
絵画 ●矢田一嘯﹃元寇大油絵﹄︵1896年︶ - 油彩、14枚あったが、関東大震災で3枚が焼けたため、現存するのは11枚。靖国神社遊就館蔵。 ●矢田一嘯﹃蒙古襲来絵図﹄︵1909年︶ - 油彩、14枚の連作。本仏寺︵福岡県うきは市︶蔵。福岡県指定文化財[466]。 ●矢田一嘯﹃元寇戦闘絵図﹄ - 絹本著色画。8枚の連作だが、本来は16枚あった可能性がある。元寇史料館蔵。 音楽 ●﹁元寇﹂︵1892年、軍歌、作詞・作曲‥永井建子︶ ●﹁元寇﹂︵1940年、長唄、作詞‥北原白秋、作曲‥二代目稀音家浄観︶ ●﹁かくて神風は吹く﹂︵1945年、作詞‥高橋掬太郎、作曲‥竹岡信幸︶ 舞台 ●﹁科戸風元寇軍記︵かとのかぜげんこうぐんき、元寇軍記︶﹂ - 歌舞伎、竹柴諺蔵︵げんぞう︶=三代目勝諺蔵 (1844-1902) 作[467][468]。 映画 ●﹃蒙古襲来 敵国降伏﹄︵1937年︶ ●﹃かくて神風は吹く﹄︵1944年、大日本映画、監督‥丸根賛太郎︶ ●﹃日蓮と蒙古大襲来﹄︵1958年、大映、監督‥渡辺邦男︶ ●﹃日蓮﹄︵1979年、松竹、監督‥中村登︶ 小説 ●海音寺潮五郎﹃蒙古来る﹄︵現在は文春文庫全2巻︶ - 1953年︵昭和28年︶﹃読売新聞﹄に連載。日本の再軍備を正当化するものとの批判を受ける。 ●井上靖﹃風濤﹄講談社、1963年︵新潮文庫︶ - 第15回読売文学賞受賞 ●豊田有恒﹃退魔戦記﹄︵1969年︶、時間SF小説。脇田家に伝わる古文書﹁退魔戦記﹂には、文永の役と時を同じくして出現した﹁退魔船﹂にまつわる驚くべき秘密が記されていた。 ●山田智彦﹃蒙古襲来﹄1-6 ︵1987-88年︶毎日新聞社、のち角川文庫、講談社文庫 ●天野純希﹃青嵐の譜﹄歴史小説、集英社︵2009年︶ ●斎藤洋﹃白狐魔記蒙古の波﹄ テレビドラマ ●﹃風雲児時宗﹄︵1961年︶ ●﹃北条時宗﹄︵2001年、NHK大河ドラマ︶ 漫画 ●﹁暗殺鬼フラン衆伝 ユーラシア1274﹂石川賢、小学館 (BIC COMICS IKKI)、2001年 - フビライ・ハーン率いる蒙古の軍勢と、日蓮率いる腐乱衆の戦いを描く。全1巻。 ●﹁アンゴルモア 元寇合戦記﹂たかぎ七彦、角川書店 (カドカワコミック・エース) - 文永の役に襲来した元寇と対馬の攻防を描く。 ゲーム ●﹃Ghost of Tsushima﹄︵PlayStation 4、PlayStation 5︶1274年の対馬を舞台に元寇を描くオープンワールドゲーム。開発はサッカーパンチプロダクションズ。 曲 ●百合若大臣 ‐ 幸若舞や説教節、浄瑠璃などの題材として使われた[469]脚注[編集]
(一)^ ab櫻井大 1999, p. 62. (二)^ 文永・弘安の役に関する日本語によるほとんどの著作・論文では﹁ヒンドゥ︵忻都︶﹂としているが、﹃高麗史﹄﹃高麗史節要﹄などの高麗側の資料によると、文永の役の時の総司令官は、ヒンドゥ︵忻都︶ではなく﹁クドゥン︵忽敦︶﹂という人物であった。﹃元朝秘史﹄および﹃華夷訳語﹄﹁韃靼館訳語﹂雑文などによると、﹁忻都﹂という単語は、﹃元朝秘史﹄巻11・261段に﹁忻都思(Hindus)﹂と見え、﹁インド﹂を意味するペルシア語の“Hind”ないし“Hindū”の漢字転写、もしくはそのモンゴル語音化したものの漢字転写。﹁忽敦﹂は﹃元史﹄にも10度ほど現れる人名だが、﹃元史語解﹄によると﹁忽敦﹂は﹁火敦﹂、つまりモンゴル語で﹁星﹂を意味するhotun〜udunの漢字音写の別表記の一つであるという。﹃元史﹄の至元十一年三月庚寅の条に﹁庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、﹂とあり、ヒンドゥ︵忻都︶が洪茶丘らとともに派遣されたはずだが、﹃高麗史﹄の元宗十五年八月己酉の条に、﹁八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦来。令加発京軍四百五十八人。﹂とあって、高麗に侵攻軍全体の都元帥として着任して来たのは﹁クドゥン︵忽敦︶﹂であった。﹃元史﹄洪茶丘伝に﹁︵至元十一年︶八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島。﹂とあり、下記にもある﹃高麗史﹄金方慶伝や﹃高麗史節要﹄での博多上陸後の侵攻軍内の軍議で金方慶とやり取りしている人物も﹁クドゥン︵忽敦︶﹂と書かれている。﹃高麗史﹄﹃高麗史節要﹄では八月己酉の高麗到着から、侵攻から高麗へ帰還し、翌忠烈王元年正月丙子︵1275年2月1日︶に北還するまで、都元帥は一貫して﹁クドゥン︵忽敦︶﹂であり、﹁ヒンドゥ︵忻都︶﹂とは書かれていない。上述のように、﹁ヒンドゥ︵忻都︶﹂と﹁クドゥン︵忽敦︶﹂は同じ語彙の別転写ではなく、全く別の単語である。そのため、﹁ヒンドゥ︵忻都︶﹂と﹁クドゥン︵忽敦︶﹂は別の名前を持つ同一人物か、あるいは全くの別人だと考えられるが、この問題に関しては十分な論考が行われていない。 (三)^ abc大元朝に人質に出された高麗国王・高宗の子息・王綧の子。﹃元史﹄巻一百六十六 列傳第五十三 王綧・附阿剌帖木兒﹁十一年、進昭勇大將軍、従都元帥忽都征日本國、預有戰功。十五年、加鎭國上將軍、安撫使、高麗軍民總管、尋陞輔國上將軍、東征左副都元帥。十八年、復征日本、遇風涛、遂没於軍。﹂ (四)^ ab東越允徹﹃蒙山和尚行道記﹄﹁偶文永之歳、元兵偵我西﹂鄙、有万戸将軍、降于本朝、蓋儒而将者、﹂︵榎本渉﹃南宋・元代日中渡航僧伝記集成 附 江戸時代における僧伝集積過程の研究﹄勉誠出版 2013年3月30日 431頁︶ (五)^ ﹃元史﹄巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年十一月癸巳の条﹁召征日本忽敦、忽察、劉復亨、三没合等赴闕。﹂ (六)^ ab﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年十月乙巳︵三日︶の条﹁冬十月乙巳、都督使金方慶將中軍、朴之亮金忻知兵馬事、任愷爲副使、金侁爲左軍使、韋得儒知兵馬事、孫世貞爲副使、金文庇爲右軍使、羅裕朴保知兵馬事、潘阜爲副使、號三翼軍。與元都元帥忽敦右副元帥洪茶丘左副元帥劉復亨、以蒙漢軍二萬五千、我軍八千、梢工引海水手六千七百、戰艦九百餘艘、征日本。﹂ (七)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄絵二の墨書﹁太宰少貳/三郎左衛門尉景資二十九/むま具足にせゑ/其勢五百余騎﹂ (八)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄絵三の墨書﹁白石六郎通泰/其勢百余騎/後陣よりかく﹂ (九)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄詞三﹁そのせい︵勢︶百よき︵余騎︶はかりとみへて、︵中略︶ひこ︵肥後︶のくに︵国︶きくち︵菊池︶二郎たけふさ︵武房︶と申すものに候、﹂ 赤坂の戦い直後の兵力。赤坂の戦い以前の兵力は不詳。 (十)^ ab﹃元史﹄巻一百五十二 列傳第三十九 劉通・附劉復亨﹁十年︵十一年︶、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。﹂ (11)^ ab﹃歴代皇紀﹄﹁文永十一年十月五日、蒙古賊船着岸對馬壹岐攻二島土民、廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂倒、神威力云々、﹂︵近藤瓶城編﹃改定史籍集覧 第18冊︵新加通記類 第1︶﹄臨川書店 1984年2月 275頁︶ (12)^ ab﹃高麗史﹄金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁以蒙漢軍二萬五千、我軍︵高麗軍︶八千、梢工引海水手六千七百、戦艦九百餘艘、留合浦、以待女眞軍、女眞後期、乃發船。﹂ (13)^ ab﹃元史﹄巻八 本紀第八 世祖五 至元十一年三月庚寅の条﹁庚寅、敕鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘等將屯田軍及女直軍、并水軍、合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本。﹂ (14)^ ﹃元文類﹄巻四十一 経世大典序録 征伐 日本﹁十年、命鳳州經略使忻都高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟、各三百、共九百艘、載士卒二萬五千伐之、﹂ (15)^ 歴史学者の池内宏は大元朝から日本へ派遣された軍勢は20,000である、という見解を示している。根拠は高麗に駐兵していたヒンドゥ︵忻都︶率いる兵4,500と洪茶丘率いる兵500の他に﹁元征東兵萬五千人來﹂と大元朝から新たに15,000の日本侵攻軍の増派されたことが確認できるため、ヒンドゥ︵忻都︶、洪茶丘ら率いる兵5,000に15,000を足して20,000としている。そして、﹃元史﹄洪茶丘伝に﹁與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、﹂とあり、20,000という数字が合致していることを見解の補強としている︵池内宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 125頁︶。他方、歴史学者の大葉昇一は﹃元史﹄至元十一年三月庚寅の条﹁合万五千人、戰船大小合九百艘、征日本、﹂の15,000とは高麗に駐兵していた軍と新たに大元朝から派遣された軍勢を含んだ総計が15,000であって大元朝の日本侵攻軍は﹃元史﹄至元十一年三月庚寅の条の15,000で正しい、という見解を示している。︵大葉昇一﹃軍事史学-文永の役における日本遠征軍の構成--耽羅︵濟州島︶征討から元寇へ--﹄第35巻第2号 軍事史学会編集 1999年︶。﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年二月甲子︵十七日︶の条﹁又正月十九日奉省旨云、忻都官人所管軍四千五百人、至金州行糧一千五百七十碩、又屯住處糧料及造船監督洪總管軍五百人行糧八十五碩、亦令應副、﹂、同元宗十五年︵五月︶己丑︵十四日︶の条﹁己丑、元征東兵萬五千人來。﹂ (16)^ 高麗軍の兵力は﹃元史﹄や﹃高麗史﹄の中でも一定していない。﹃元史﹄や﹃高麗史﹄に記載された高麗軍の兵力を挙げると、5,300︵﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年己酉の条︶、5,458︵﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌の条及び同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉の条︶、5,600︵﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國︶、8,000︵﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一十月乙巳の条︶となっている。なお、歴史学者の池内宏は、﹃元史﹄高麗伝の高麗軍数5,600人に後に加えられた458人の高麗兵を足して高麗軍総数が約6,000であるという見解を示している︵池内 宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 126頁︶。﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年︵十一月︶己酉︵十一日︶の条﹁小國一千軍鎭戌耽羅者、在昔東征時、係本國五千三百軍額。﹂、同巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年三月丙戌︵九日︶の条﹁三月丙戌、元遣經略司王總管來、命發軍五千、助征日本。﹂、同巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉︵六日︶の条﹁八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍︵高麗軍︶四百五十八人。﹂、﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國﹁︵至元十一︶三月、遣木速塔八、撒本合、持詔使高麗、簽軍五千六百人、助征日本。﹂ (17)^ abc﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年︵十一月︶己酉︵十一日︶の条﹁見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、總計一萬人︵実数九千五百人︶、兵船總九百艘、︵大船︶三百艘、合用梢工水手一萬八千、竊念、小國戸口、自來凋弊、往歳東征之時、大船一百二十六艘梢工水手、猶爲未敷、況今三百艘、何以盡數應副、以此至於農民、徴發丁壯、凡一萬五千人、其不敷水手三千人、於何調發、有東寧府所管諸城及東京路沿海州縣、多有梢工水手、伏望、發遣三千人補乏、﹂ (18)^ ab﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁十一年三月、命鳳州經略使忻都、高麗軍民總管洪茶丘、以千料舟、拔都魯輕疾舟、汲水小舟各三百、共九百艘、載士卒一萬五千、期以七月征日本。﹂ 各艦船の用途については山形欣哉・石井謙治﹃歴史群像シリーズ64―北条時宗―蒙古襲来と若き執権の果断--元寇軍船﹄︵学研出版 2000年36〜39頁︶を参考。 (19)^ abcde﹃朝師御書見聞 安国論私抄﹄ 第一 蒙古詞事﹁又或記云十一歟月二十四日ニ聞フル定、蒙古ノ船ヤブレテ浦浦ニ打挙ル、数、對嶋ニ一艘、壹岐百三十艘、ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタニ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、已上百二十四艘、是ハ目ニ見ユル分齊也、又十一月九日ユキノセト云フ津ニ死タル蒙古ノ人百五十人、又總ノ生捕二十七人、頭取事三十九、其他数ヲシラズ、又日本人死事百九十五人、下郎ハ数ヲ不知有事云云、﹂︵﹃日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1﹄日蓮宗宗学全書刊行会 1922年21頁︶ (20)^ abcdefg﹃金綱集﹄第十二 雑録 異賊襲我国事﹁九十代、今上御宇︵亀山天皇︶、筑前国大博多箱崎ニ来事、文永五年正月一日、新左衛門尉経資請取大田次郎左衛門 自蒙古国状、筑前国大宰府ニ、彼状豊前之新左衛門尉経資請取、大田次郎左衛門長盛并伊勢法橋二人ヲ以被進六波羅彼使者ヲ以被進関東、自鎌倉佐々木︵﹁前﹂脱カ︶対馬守氏信・伊勢入道︵二階堂行綱︶行願二人ヲ以被進公家、於仙洞菅宰相長成卿被召被読条状也、同十一年十月五日、蒙古人乗数百艘之船対馬仁来、同六日辰剋守護代宗馬︵メノ︶允資国等防キ戦之、︵﹁蒙﹂脱カ︶古人雖打取資国子息等悉打死畢、同十四日蒙古人壱岐国仁押寄テ守護代平内左衛門尉影高︵景隆︶等構城廓雖合戦ト、蒙古人乱入之間影高等自害畢、同十九日、蒙古人筑前国博多・箱崎・今津・佐原賊来、同廿日辰尅少郷入道覚恵︵武藤資能︶・子息三郎左衛門尉影︵景︶資・大友出羽守頼泰并以読︵ママ︶次郎左衛門尉重秀・難波次郎︵在助︶・菊池次郎︵康成︶、九国御家人等馳集令合戦之間、両方死輩不知其数、及酉尅九国軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出来、白︹弓偏ニ牟︺︵鉾カ︶梅○︹弓偏ニ牟︺暗空ニアリ、仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○︵十︶余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三羡六郎・四劉保兒也、同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑ノ聲シテ西ヲ指シテ行、有人夢見、北野天神御歌神風仁蒙古賀船和散波多︵亭カ︶々底之花久津登成曾宇礼志幾 自他国国王十一代之間○我朝ニ賊来事十八度此中蒙古人十度来也、建治元年九月六日酉尅前後生取九人被切之也、文応元年庚申聖人︵日蓮︶造立正安国論進覧西明寺︵北条時頼︶殿、﹂︵坂井法曄 2003, p. 27︶ (21)^ ﹃八幡愚童訓﹄﹁宗右馬允戦︵たたかう︶ト云ヘ共、辰ノ終ニ打レヌ。同子息宗馬次郎、養子弥次郎、并右馬允、同八郎、親類刑部丞郎、郎等三郎右馬允、兵衛次郎、庄ノ太郎入道、源八、在庁左近ノ右馬允、流人肥後國御家人口井︵タイノ︶藤三、源三郎、以上十二人、同時ニ打死ス﹂︵これらの戦死者名については諸本で若干異同がある︶萩原龍夫 校訂﹁八幡愚童訓 甲﹂﹃寺社縁起 日本思想大系20﹄︵桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年︶p.183。 (22)^ ﹃八幡愚童訓﹄﹁同十四日申時尅ニ、壱岐嶋ニ西面ニ蒙古人ノ船着ク。︵中略︶守護代平内左衛門尉経高︵景隆︶并御家人百余騎、庄三郎ガ城ノ前ニテ矢合ス。︵中略︶異敵ハ大勢也。可︵ベウモ︶叶無カリケレバ、城ノ内ヘ引退テ雖防戦、同十五日終︵ついに︶、被責落、城中ニテ自害ス﹂萩原龍夫 校訂﹁八幡愚童訓 甲﹂﹃寺社縁起 日本思想大系20﹄︵桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年︶p.183-184。 (23)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年︵十一月︶己亥︵二十七日︶の条﹁己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之。軍不還者無慮萬三千五百餘人。﹂ (24)^ ﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年十二月辛未の条﹁以高麗中贊金方慶爲征日本都元帥、密直司副使朴球、金周鼎爲管高麗國征日本軍万戸、并賜虎符、﹂ (25)^ ab﹃朝鮮王朝実録﹄太祖実録 総序﹁十八年辛巳、世祖征日本、天下兵船、會于合浦。翼祖蒙上司文字、將本所人戸、簽撥軍人、與雙城摠管府三撒千戸蒙古大塔失等赴征、﹂ (26)^ ﹃元史﹄巻一百三十二 列傳第十九 哈剌䚟﹁十八年、擢輔國上將軍、都元帥、從國兵征日本、値颶風、舟回、明年二月、還戍慶元、﹂ (27)^ abcdef蘇天爵撰﹃滋溪文稿﹄巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘﹁明年、宋滅。論功行賞、受池州總把。歸附之初、新令未洽、豪民潛擾郷邑。公撫治以嚴、民頼以安。久之、朝廷以日本梗化不庭、出帥征之。公又行。由慶元汎舟入海凡七晝夜、抵達可島。去其國七十里。潮汐盈涸不常、舟弗能進。乃縛艦爲寨、碇鐡靈山下。命公守之。八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。明日、大帥命公先歸。公由躭羅逾高麗、渡遼水以趍京師。遂歸于池。﹂ (28)^ ab﹃元史﹄巻一百二十三 列傳第十 月里麻思・附忽都哈思﹁十八年、以招討使將兵征日本、死於敵、﹂ (29)^ 外山幹夫 ﹃肥前松浦一族﹄ 新人物往来社 2008年。なお外山はこの記述を誇張であろうとしている。 (30)^ ﹃歴代鎮西要略﹄﹁弘安四年辛巳、蒙古大軍襲來。夏六月。元蒙古阿剌罕范文虎爲上將。忻都洪茶丘爲次将。遣數千之舟師。以伐我國。其兵不知幾百萬。﹂ なお、同書は文永の役においても日本軍﹁10万余騎﹂に対して元軍を﹁数百万﹂と記載している。﹁文永十一年九月異國大元蒙古兵舟五百餘艘襲來︵中略︶︵日本側︶都合十万余騎。至壹岐、松浦、今津、博多、姪濱所々相戦。十月二十日。合戦於筑前赤坂數回。於蒙古數百万之兵其交鉾之間、靡敵助我。破堅碎強。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之二30頁、巻之四35頁︶ (31)^ ab﹃深堀系図証文記録﹄﹁弘安四年五月蒙古襲來于筑之博多、賊船無數。其兵十餘萬侵九州、探題秀堅、大友豊後守時重、太宰小貳父子三人、菊池四郎武通、秋月九郎、原田、松浦、宗像大宮司、三原、山鹿・草野、島津等。其外御家人三十二人。防戰于豊筑之際、厚東、大内介來加、于豊前賊兵挑戰不利而退、探題被疵、大友戰死、從六波羅宇都宮貞綱爲大將其勢六萬餘騎、先陣已著于長府、蒙古大將出船、即日猛風吹破賊船、賊兵悉溺、歸者幾希、神國霊験異國舌、此時深堀左衛門尉時光、深堀彌五郎時仲有戰功。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之四29頁︶ (32)^ ab﹃元史﹄巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕﹁十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中﹂ (33)^ abcde﹃元史﹄巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇﹁十七年、授龍虎衞上將軍、征東行省右丞、十八年、與右丞欣都、將舟師四萬、由高麗金州合浦以進、時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海、期至日本一岐、平戸等島合兵登岸、兵未交、秋八月、風壞舟而還。﹂ (34)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年︵八月︶乙未︵二十六日︶の条﹁茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、兩軍畢集、直抵日本、破之必矣、﹂ (35)^ 4万を戦闘員のみとするか、水夫を含めるかで兵力が異なる。水夫を含めない場合は蒙古・漢軍30,000に﹃高麗史﹄に記載されている戦闘員9,960名と水夫17,029名を足すと東路軍の総兵力は56,989人となる。﹃元史﹄世祖本紀の至元十七年八月戊戌の条によると弘安の役に際して、高麗国王・忠烈王がクビライに元軍3万の軍勢を要請したとある。また、﹃高麗史﹄の同時期の記載でも高麗国王が高麗・漢軍を減らして、蒙古軍を増強するよう要請し、クビライはこれを了承したという記載があり、4万は戦闘員のみだった可能性が高い。﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年八月戊戌の条﹁戊戌、高麗王王賰来朝、且言將益兵三万征日本。﹂および﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年 ︵八月︶乙未︵二十六日︶の条﹁王以七事請、一以我軍鎮戌耽羅者、補東征之師、二減麗漢軍、使闍里帖木兒、益發蒙軍以進、三勿加洪茶丘職任、待其成功賞之、且令闍里帖木兒與臣、管征東省事、四少國軍官、皆賜陴面、五漢地濱海之人、幷充梢工水手、六遣按察使、廉問百姓疾苦、七臣躬至合浦、閲送軍馬、帝曰、已領所奏。﹂︵大葉昇一 2003, p. 25︶ (36)^ abcde﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年︵十一月︶壬午︵二十日︶の条﹁壬午、各道按廉使啓、東征軍九千九百六十名、梢工水手一萬七千二十九名、其生還者一萬九千三百九十七名。﹂ (37)^ abc﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年六月壬申︵八日︶の条﹁范文虎亦以戰艦三千五百艘、蠻軍十餘萬來、會値大風、蠻軍皆溺死。﹂ (38)^ 江南軍の実体に関しては史料が少なく不明な点が多い。江南軍が10万であったことは﹃高麗史﹄や﹃元史﹄から確認できるが、﹃元史﹄洪茶丘伝では﹁時右丞范文虎等、將兵十萬、由慶元、定海等処渡海﹂とあり、江南軍10万とは戦闘員であったとしている。元の時代では、戦闘員と水夫はそれぞれを専門職とするのが通例であり、戦闘員が水夫を兼任することはそれほど事例が多くはなかった。なお東路軍4万が戦闘員であり、水夫が含まれていなかったことを考えれば、江南軍10万とは戦闘員の動員数であり、10万の軍勢の他に江南軍には多くの水夫が乗船していた可能性もある。大葉昇一 2003, p. 37また、日本側の史料﹃鎌倉年代記裏書﹄においても、元軍の構成として﹁大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、﹂とあり、兵士15万人とは別に水夫がいたとしている。 (39)^ ab﹃鎌倉年代記裏書﹄﹁今年︵弘安四年︶七月、大元賊徒、自宋朝、高麗數千艘船寄來、數日漂對馬海上而後群集肥前國鷹島之處、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬、但將軍范文虎歸國云々、大元船二千五百餘艘、兵士十五萬人、除水手等、高麗船千艘云々、﹂︵竹内 理三編集﹃続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記﹄臨川書店増補版 1979年9月54頁︶ (40)^ ab﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年︵六月︶辛丑︵二十五日︶の条﹁東征元帥府承省旨、令造戦艦九百艘。﹂ (41)^ abc﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年八月壬辰の条﹁忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船爲風涛所激、大失利、余軍回至高麗境、十存一二。﹂ (42)^ abc﹃元史﹄巻一百六十二 列傳第四十九 李庭﹁十七年、拜驃騎衞上將軍、中書左丞、東征日本、十八年、軍次竹島、遇風、船尽壞、庭抱壊船板、漂流抵岸、下收余衆、由高麗還京師、士卒存者十一二。﹂ (43)^ abc﹃元史﹄巻一百二十九 列傳第十六 阿塔海﹁二十年、遷征東行省丞相、征日本、遇風、舟壞、喪師十七、八。﹂ (44)^ abcde﹃元史﹄巻一百二十八 列傳第十五 相威﹁十八年、右丞范文虎、參政李庭、以兵十萬、航海征倭、七晝夜至竹島、與遼陽省臣兵合、欲先攻太宰府、遲疑不發、八月朔、颶風大作、士卒十喪六七。﹂ (45)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年閏︵八︶月の条﹁是月、忻都茶丘范文虎等還元、官軍不返者、無慮十萬有幾。﹂ (46)^ ab﹃高麗史﹄の﹁東征軍九千九百六十名﹂とは高麗兵のことを指しており、蒙古・漢軍の生存者数は不明。以下は高麗兵約一万の地域的内訳である。﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年︵十一月︶己酉︵十一日︶の条﹁見今所抄小邦軍額、京内二千五百、慶尚道二千三百九十、全羅道一千八百八十、忠清道一千九百、西海道一百九十、交州道一百六十、東界四百八十、捴計一萬人︵実数九千五百人︶、兵船楤九百艘、︵大船︶三百艘、合用梢工水手一萬八千、﹂ (47)^ abcdefgh﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁︵至元十八年︶官軍六月入海、七月至平壷島︵平戸島︶、移五龍山︵鷹島か︶、八月一日、風破舟、五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下、衆議推張百戸者爲主帥、號之曰張總管、聽其約束、方伐木作舟欲還、七日日本人來戰、盡死、餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、閶輩是也、蓋行省官議事不相下、故皆棄軍歸、久之、莫靑與呉萬五者亦逃還、十萬之衆得還者三人耳。﹂ (48)^ ab村井章介﹃北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む﹄日本放送出版協会 2001年 126頁 (49)^ 戸川芳郎監修、佐藤進、濱口富士雄編集﹃全訳 漢辞海 第三版﹄三省堂 2011年2月 396頁 (50)^ 川添昭二 1977. (51)^ 佐伯弘次 (2003) 他。 (52)^ 舩田善之 2009. (53)^ ab﹃日本歴史大系2中世﹄山川出版社、1985年、269頁。 (54)^ ﹃元史﹄巻五 本紀第五 世祖二 至元元年十一月辛巳の条﹁辛巳、征骨嵬、先是、吉里迷内附、言其國東有骨嵬、亦里于兩部、歳來侵疆、故往征之。﹂ (55)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月辛酉の条﹁辛酉、征東招討司以兵征骨嵬。﹂ (56)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月乙巳の条﹁詔征東招討使塔塔兒帶、楊兀魯帶以萬人征骨嵬。﹂ (57)^ ab﹃元史﹄巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年十月己酉の条﹁己酉、遣塔塔兒帶、楊兀魯帶以兵萬人、船千艘征骨嵬。﹂ (58)^ abcde中村和之 2001, p. 178. (59)^ abcd﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁元世祖之至元二年、以高麗人趙彝等言日本國可通、擇可奉使者。三年八月、命兵部侍郎黑的給虎符、充國信使、禮部侍郎殷弘給金符、充國信副使、持國書使日本。﹂ (60)^ abcd﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年︵十一月︶癸丑︵二十五日︶の条﹁癸丑、蒙古遣黒的殷弘等來、詔曰、今爾國人趙彝來告、日本與爾國爲近隣、典章政治有足嘉者、漢唐而下、亦或通使中國、故今遣黒的等往日本、欲與通和、卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿宜任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。﹂ (61)^ 黒田俊雄 (1973), 56頁。 (62)^ 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳﹃全訳マルコ・ポーロ東方見聞録﹃驚異の書﹄fr.2810写本﹄岩波書店 2002年 147頁 (63)^ 本書の底本は14世紀末頃に成立したと思われる中世フランス語による﹃驚異の書﹄(Livre des Merveilles) と呼び習わされている系統の写本群︵グレゴワール版FG系統︶に属す、パリ国立図書館蔵の15世紀初頭の写本 (Ms.fr.2810) である。ポール・ペリオらによるとアバタン Abatan やジョンサインチン Jousainchin とは、Abachan︵F系統︶、Vonsamchin︵F系統︶やVonsainchin︵FG系統︶などとして現れ、前者は弘安の役時の日本行省左丞相・阿剌罕 (Alaqan, A-la-han)、後者は右丞・范文虎のことと思われる。後者の表記はマルコ・ポーロ存命中の14世紀初頭に成立したパリ国立図書館蔵の写本︵Ms.fr.1116 地理学協会版F系統︶等では Vonsamchin などとして現れ、おそらく范丞相 Fan-Tsai-siang の訛音と考えられる。サルコンは Çaiton︵F系統︶、Çayton︵FG系統︶と書かれ、同じ時期にイブン・バトゥータ他アラビア語地理書・旅行記でザイトゥーン زيتون Zaytūn と呼ばれた泉州のことで、キンセーも他の写本ではキンサイ Quinsai ︵F系統︶Quinsay︵FG系統︶と書かれており、南宋成立時に開封から遷都し﹁行在﹂︵Hsing-tsai︶と呼ばれた杭州のことである。しかし、後述するように弘安の役では江南軍は主に慶元路︵明州︶はじめ東シナ海沿岸部から発しておりキンサイ︵杭州︶から出帆したという記述は誤りである。続く記事で暴風雨で難破した侵攻軍は漂着した後でジパングの首都を陥落させたなど、ジャワ侵攻やチャンパー侵攻などと混同していると思われる部分が少なくない。﹁礼儀正しい﹂とある部分は唐宋以来の﹁礼節の国﹂という日本観を反映したものと考えられ、﹃元史﹄日本伝にある趙良弼がもたらした国書にある﹁日本は素より礼を知る国と号す﹂という文言とも一致する。また、慶元路は当時、杭州︵キンサイ︶を首府とする江浙行省の管轄であったために錯誤したものと思われ、﹁上陸するとすぐに平野と村落を占領したが、城や町は奪うことができなかった﹂という部分もあるいは文永の役のことを指すとも考えられる。︵マルコ・ポーロ﹃完訳 東方見聞録︿2﹀﹄︵平凡社ライブラリー 327︶愛宕松男訳注、2000年2月、120頁、170頁、183-190頁。高田英樹﹁ジパング 日本国 : マルコ・ポーロの東方︵4︶﹂﹃国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要﹄ 24(3)、2011年3月、107-130頁。 (64)^ 鄭思肖﹃心史﹄中興集二巻 元賊謀取日本二絶 元韃攻日本敗北歌﹁元賊聞其豊庶、怒倭主不来臣、竭此土民力、弁舟艦、往攻焉、欲空其國所有而歸。﹂︵陳福康校点﹃鄭思肖集﹄上海古籍出版社 1991年5月95頁︶ (65)^ ﹃呉文正集﹄巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状︵呉澄撰︶﹁至元初年、髙麗趙開建言通日本以窺宋、數輩奉使。竟無成約、﹂ (66)^ ab﹃高麗史﹄巻一百二 列伝十五 李蔵用 元宗九年五月二十九日の条﹁又勑藏用曰、爾還爾國、速奏軍額、不爾將討之、爾等不知出軍將討何國、朕欲討宋與日本耳、今朕視爾國猶一家、爾國若有難、朕安敢不救乎、朕征不庭之國、爾國出師助戰亦其分也、爾歸語王、造戰艦一千艘、可載米三四千石者、藏用對曰、敢不承命、但督之、則雖有船材、恐不及也、﹂ (67)^ ab﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年︵十月︶庚寅︵十三日︶の条﹁庚寅、蒙古遣明威將軍都統領脱朶兒武徳將軍統領王國昌武略將軍副統領劉傑等十四人來、詔曰、卿遣崔東秀來奏、備兵一萬造船一千隻事、今特遣脱朶兒等、就彼整閲軍敷、點視舟艦、其所造船隻、聽去官指晝、如耽羅已與造船之役、不必煩重、如其不與、即令別造百艘、其軍兵船隻、整點足備、或南宋或日本、逆命征討、臨時制宣、仍差去官先行、相視黑山日本道路、卿亦差官、護送道達。﹂ (68)^ ﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年︵十一月︶丙辰︵二十八日︶の条﹁丙辰、命樞密院副使宋君斐侍御史金贊等、與黑的等往日本。﹂ (69)^ 新井2007﹁蒙古襲来﹂, pp. 21-22 (70)^ ﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年 正月の条﹁元宗八年 春正月、宋君斐金贊與蒙使、至巨濟松邊浦、畏風濤之險遂還、王又令君斐随黑的如蒙古、奏曰、詔旨所湯喩、道達使臣、通好日本事、謹遣陪臣宋君斐等、伴使臣以往、至巨濟縣、遥望對馬島、見大洋萬里風濤蹴天、意謂危險若此、安可奉上國使臣、冒險輕進、雖至對馬島、彼俗頑獷無禮義、設有不軌、將如之何、是以與倶而還、且日本素與小邦未嘗通好、但對馬人、時因貿易、往來金州耳、小邦、自陛下即祚以來、深蒙仁恤、三十年兵革之餘、稍得蘇息、緜緜存喘、聖恩天大、誓欲報効、如有可為之勢、而不盡心力、有如天日。﹂ (71)^ ab﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丙辰朔︵一日︶の条﹁八月丙辰朔、黑的殷弘及宋君斐等復來、帝喩曰、向者遣使招懷日本、委卿嚮導、不意、卿以辭爲解、遂令徒還、意者日本既通好、則必盡知爾國虛實、故托以他辭、然爾國人在京師者不少、卿之計亦疎矣、且天命難諶、人道貴誠、卿先後食言多矣、宣自省焉、今日本之事、一委於卿、卿其體朕此意、通諭日本、以必得要領爲期、卿嘗有言、聖恩天大、誓欲報効、此非報效而何。﹂ (72)^ ﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗七年︵十一月︶癸丑︵二十五日︶の条﹁卿其道達去使、以徹彼疆、開悟東方、向風慕義、玆事之責、卿其任之、勿以風濤險阻爲辭、勿以未嘗通好爲解、恐彼不順命、有阻去使爲托、卿之忠誠、於斯可見、卿其勉之。﹂ (73)^ ab﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁四年六月、帝謂王禃以辭爲解、令去使徒還、復遣黑的等至高麗諭禃、委以日本事、以必得其要領爲期、禃以爲、海道險阻、不可辱天使、九月、遣其起居舍人潘阜等持書往日本、留六月、亦不得其要領而歸。﹂ (74)^ ﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗八年八月丁丑︵二十三日︶の条﹁遣起居舍人潘阜、齎蒙古書及國書如日本、﹂ (75)^ abc﹃五代帝王物語﹄亀山院﹁︵文永五年︶閏正月十五日又舞御覽あり。一院御幸なる。麗しき御賀の儀いかばかりの事にてかあらんずらむとおぼえしに。蒙古國とかやより牒状を奉る。高麗の牒を相副たり。宰府よりまづ關東へつげて。關東より二月六日牒状をまいらせたり。是によりて御賀止めらる。公私本意なき御事也。蒙古國もとは契丹の所屬韃靼國也。年比契丹國以下の近邊の諸國を打とる。太宋國も、三百餘州のうち大略みなうちとられて。わづかに六十餘州殘れり。高麗も同せめおとされて。臣として蒙古の朝につかふるよし牒状にも載たり。牒使には趙良弼と云者渡れり。高麗の使を副たり。牒状二通あり。一通は高麗の牒也。蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。至元三年と載たり。高麗國。同彼年號をうけて至元となせり。去年八月の牒也。數多の方物を相副て。正月一日大宰府に着たり。是によりて官外記以下の勘文をめされて仗儀を行る。又仙洞の評定あり。﹂︵塙保己一編﹃群書類従﹄第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 448頁︶ (76)^ 東大寺宗性筆の﹃調伏異朝怨敵抄﹄に﹁蒙古国牒状﹂に続いて記載されている。﹁高麗国王王稙 右啓、季秋向闌、伏惟大王殿下、起居万福、瞻企瞻企、我國臣事 蒙古大朝、稟正朔有年于 茲矣、皇帝仁明、以天下爲一家、視遠如迩、日月所照、咸仰其徳化、今欲通好于貴國、而詔寡人云、皇帝仁明、以天下為一家、視遠如邇、日月所照、咸仰其徳化。今欲通好于貴国、而詔寡人云、﹃海東諸国、日本与高麓為近隣、典章政理、有足嘉者。漢唐而下、亦或通使中国。故遣書以往。勿以風涛険阻為辞。﹄其旨厳切。茲不獲己、遣朝散大夫尚書礼部侍郎潘阜等、奉皇帝書前去。且貴国之通好中国、無代無之。況今皇帝之欲通好貴国者、非利其貢献。但以無外之名高於天下耳。若得貴国之報音、則必厚待之、其実興否、既通而後当可知矣、其遣一介之使以往観之何如也。惟貴国商酌焉。﹂﹃鎌倉遺文﹄9770号、竹内理三 編﹃鎌倉遺文﹄︵古文書編、第13巻 古文書編13巻 自文永2年 (1265) - 至文永5年 (1268)、東京堂出版、1985年、285頁。平岡定海﹃東大寺宗性上人之研究並史料﹄︵中︶・︵下︶、臨川書店、1959-1260年、︵中︶図2-4、︵下︶1-2頁。東大寺宗性によって﹃調伏異朝怨敵抄﹄に蒙古国牒状、高麗牒状、潘阜書状の3通が書写され現存。 (77)^ ﹃将軍執権次第﹄文永五年条﹁時宗。相模守。三月五日始爲執權云々。正月廿九日辭左馬權頭。﹂︵塙保己一編﹃群書類従﹄第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 258頁︶ (78)^ ab近衛基平﹃深心院関白記﹄文永五年二月条﹁︵二月︶七日、戊子︵中略︶晴、東使今日向相國禪門北山亭云々、異國間事也、八日、己丑︵中略︶天晴、早旦以敕書有召、仍參院、今日異國事可有評定云々、牒状、高麗取進蒙古國牒也、仍其牒二通也、稱講和親之儀、委見牒状、此事國家珍事大事也、萬人驚歟之外無他、前博陸兩人參向其座、無骨、仍餘參内、入夜又歸參院也、︵中略︶十日、辛卯︵中略︶晴︵中略︶依昨召參院、異國事返牒有否有沙汰、前博陸兩人參、然而餘對座居也、如此重事不參之條、不可然之故也、子細不盡翰墨也、﹂︵﹃岡屋関白記・深心院関白記・後知足院関白記﹄陽明叢書 記録文書篇 第二輯 思文閣出版 1984年 144〜145頁︶ (79)^ ﹃○新式目﹄関東御教書﹁一 蒙古国事 蒙古人挿凶心、可伺本朝之由、近日所進牒使也、早可用心之旨、可被相触讃岐國御家人等状、依仰執達如件、文永五年二月廿七日 駿河守殿︵北条有時?︶ 相模守︵北条時宗︶左京権大夫︵北条政村︶﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十三巻 東京堂出版 九八八三号︶ (80)^ 新井2007, p25 (81)^ ﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年秋七月丁卯︵十八日︶の条﹁秋七月丁卯、起居舍人潘阜、還自日本、遣閣門使孫世貞郎將呉惟碩等、如蒙古賀節日、又遣潘阜偕行、上書曰、向詔臣、以宣諭日本、臣即差陪臣潘阜、奉皇帝璽書、幷齎臣書及國贐、以前年九月二十三日、發船而往、至今年七月十八日、回來云、自到彼境、便不納王都、留置西偏大宰府者凡五月、館待甚薄、授以詔旨、而無報章、又贈國贐、多方告諭、竟不聽、逼而送之、以故不得要領而還、未副聖慮、惶懼實深、輒玆差充陪臣潘阜等、以奏。﹂ (82)^ 奥書に国書が京都に送達された直後の1268年︵文永5年︶2月に宗性が亀山殿大多勝院道場における後鳥羽院御八講に参じた際に蒙古国書を書き写した旨が書かれている。なお同一の蒙古国書の内容が﹃元史﹄日本伝にも記載がある。両者の比較と解説についてはwikisource:蒙古皇帝国書を参照。︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十三巻 東京堂出版 九五六四号︶ (83)^ 村井章介﹃北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む﹄日本放送出版協会 2001年66頁 (84)^ 山口修﹁文永・弘安の役﹂﹃図説 日本の歴史6鎌倉の幕府﹄集英社、1974年、195頁 (85)^ 山口修、中村栄孝=岩波講座日本歴史中世二、1963。田中健夫、岩波講座世界歴史9、1970年。杉山正明もモンゴル帝国の命令文書の研究からこの説を採用。他、村井章介、奥富敬之など。 (86)^ ﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗九年︵十二月︶庚辰︵四日︶の条﹁庚辰、知門下省事申思佺侍郎陳子厚起居舍人潘阜、偕黑的殷弘如日本。﹂ (87)^ abc﹃蒙古来使記録﹄<○賜芦文庫古文書所収称名寺文書>﹁文永六-二-十六-蒙古高麗使等渡海事<蒙古人官人三人<同從人五人、>高麗人六十七人船四艘着對馬嶋豐岐浦云々> 同二-廿二日馳申了、同三-十三-評定了、同二-廿四日、逃歸本審事︵畢カ︶云云、文永六年-十-十七-、蒙古牒一通、高麗牒一通持之、牒使二人、令着對馬嶋之由申之云々、彼至元六-六-日、而如院宣者、通好之義、准唐漢之例、不可及子細、但彼國與我國、自昔無宿意、用兵之條、甚以不義之旨、可被遣返牒也、且草者可長成卿之由、諸卿評 定之由云々、而關東評定了、先度牒使來朝之時、不可返牒之由、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇三八〇号︶ (88)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁五年九月、命黑的、弘復持書往、至對馬島、日本人拒而不納、執其塔二郎、彌二郎二人而還。﹂ (89)^ ﹃五代帝王物語﹄亀山院﹁︵文永︶同六年蒙古使高麗の舟にのりて又對馬國に着く。去年の返牒なきによりて。左右きかんため也。不慮の喧嘩いできて。歸國の間。對馬の二人とられて高麗へ渡る。高麗より蒙古へつかはしたれば。王宮へ召入て見て。種々の祿をとらせて。本朝へ返送。是に付て又牒状有。﹂︵塙保己一編﹃群書類従﹄第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁︶ (90)^ abcd﹃高麗史﹄巻二十六 世家二十六 元宗二 元宗十年︵七月︶甲子︵二十一日︶の条﹁甲子、蒙古使于婁大于琔等六人、偕倭人來、淐出迎于郊、初申思佺與倭人謁帝、帝大喜曰、爾國王祗稟朕命、使爾等往日本、爾等不以險阻爲辭、入不測之地、生還復命、忠節可嘉、厚賜匹帛、以至從卒、又謂倭人曰、爾國朝覲中國、其來尚矣、今朕欲爾國之來朝、非以逼汝也、但欲垂名於後耳、賚予甚稠、勑令觀覽宮殿、既而倭人奏云、臣等聞有天堂佛刹、正謂是也、帝悦、又使徧觀燕京萬壽山玉殿與諸城闕。﹂ (91)^ ﹃関東評定衆伝﹄文永六年条﹁九月、蒙古高麗重牒状到來。牒使金有成。高柔二人也。還對馬嶋人答二郎。彌二郎。高柔依靈夢獻所持毛冠於安樂寺。即敍其由呈詩。﹂︵﹃群書類従﹄第四輯 補任部 巻第四十九 続群書類従完成会 1960年 318頁︶ (92)^ abcd﹃太政官返牒﹄<○本朝文集六十七>﹁贈蒙古國中書省牒 菅原長成 日本國太政官牒 蒙古國中書省 附高麗國使人牒送、牒、得大宰府去年九月二十四日解状、去十七日申時、異國船一隻、來着對馬嶋伊奈浦、依例令存問來由之處、高麗國使人參來也、仍相副彼國幷蒙古國牒、言上如件者、就解状案事情、蒙古之號、于今未聞、尺素無脛初來、寸丹非面僅察、原漢唐以降之蹤、觀使介往還之道、緬依内外典籍之通義、雖成風俗融化之好禮、外交中絶、驪遷翰轉、粤傳郷信、忽請隣睦、當斯節次、不得根究、然而呈上之命、縁底不容、音問縱雲霧萬里之西巡、心夐忘胡越一體之前言、抑貴國曽無人物之通、本朝何有好惡之便、不顧由緒、欲用凶器、和風再報、疑冰猶厚、聖人之書、釋氏之教、以濟生爲素懷、以奪命爲黒業、何稱帝徳仁義之境、還開民庶殺傷之源乎、凡自天照皇大神耀天統、至日本今皇帝︵亀山天皇︶受日嗣、聖明所覃、莫不屬左廟右稷之靈、得一無貳之盟、百王之鎭護孔昭、四夷之脩靖無紊、故以皇土永號神國、非可以智競、非可以力爭、難以一二、乞也思量、左大臣︵藤原家経︶宣、奉敕、彼到着之使、定留于對馬嶋、此丹青之信、宣傳自高麗國者、今以状、牒到准状、故牒、文永七年正月 日﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇五七一号︶ (93)^ 張東翼 2005. (94)^ ﹃大宰府守護所牒﹄<○本朝文集六十七>﹁贈高麗國牒 ︵菅原長成︶ 日本國大宰府守護所牒 高麗國慶尚晉安東道按察使來牒事 牒、尋彼按察使牒偁、當使□□□□□□□謹牒、着當府守護所、就來牒、凌萬里路、先訪柳營之軍令、達九重城、被降芝泥之聖旨、以此去月太政官之牒、宣傳蒙古中書省之衙、所偕返之男子等、艤護送之舟、令至父母之郷、共有胡馬嘶北、越鳥翥南之心、知盟約之不空、感仁義之云露、前頃牒使到著之時、警固之虎卒不來、海濱之漁者先集、以凡外之心、成慮外之煩歟、就有漏聞、恥背前好、早加霜刑、宣爲後戒、殊察行李淹留之艱難、聊致旅粮些少之資養、今以状牒、牒到准状、故牒、文永七年二月 日﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇五八八号︶ (95)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁六年六月、命高麗金有成送還執者、俾中書省牒其國、亦不報。有成留其太宰府守護所者久之。﹂ (96)^ ﹃高麗史節要﹄巻十八 元宗十一年五月丙寅の条﹁初崔瑀以国中多盗聚勇士、毎夜巡行禁暴、因夜別抄。及盗起諸道分遣別抄以捕之。其軍甚衆、遂分左右。又以国人自蒙古逃還者為一部、号神義軍。是為三別抄。権臣執柄以為爪牙、厚其俸禄。或施私恵。又籍罪人之財而給之。故権臣頤指気使、争先効力。金俊之誅崔 立宣、林衍之誅金俊、松礼之誅惟茂、皆藉其力。﹂ (97)^ ab吉田経長﹃吉続記﹄九月二日・四日条﹁二日癸亥 晴、參内、關東使隨身高麗牒状、向西園寺大納言許︵高麗牒状到來事、︶亞相參院申入云々、︵中略︶四日 晴、不出仕、件牒状趣、蒙古兵可來責日本、又乞糶、此外乞救兵歟、就状了見區分、﹂︵笹川臨風、矢野太郎校訂﹃史料大成 第23巻 吉記二・吉続記﹄内外書籍 1935年 293頁︶ (98)^ ab﹃高麗牒状不審条々﹄﹁一、以前状文永五年揚蒙古之徳、今度状文永八年韋毳無遠慮云々、如何、一、文永五年状書年號、今度不書年號事、一、以前状、歸蒙古之徳、成君臣之禮云々、今状、遷宅江華近四十年、被髮左衽聖賢所惡、仍又遷都珍島事、一、今度状、端ニハ不從成戰之思成、奧ニハ爲蒙被使云々、前後相違如何、一、漂風人護送事、一、屯金海府之兵、先廿餘人送日本國事、一、我本朝統合三韓事、一、安寧社稷待天時事、一、請胡騎數萬兵事、一、達兇旒許垂寛宥事、一、奉贄事、一、貴朝遣使問訊事、﹂︵歴史学研究会、村井章介編集﹃日本史史料︿2﹀中世﹄岩波書店 1998年3月︶ この三別抄からの書状については﹃吉続記﹄文永8年9月2日条とその対応を伝える同9月4日条の記述しか窺い知るしかなかったが、その﹁牒状﹂についての不審点を箇条書きしたメモ﹁高麗牒状不審条々﹂が1977年に東京大学資料編纂所で石井正敏によって発見された。三別抄からの書状の本文ではないが、﹁条々﹂で上げられている内容の検討から、この書状は高麗国王・元宗からのものについてではなく、珍島に拠点を移していた三別抄が出した書状についてであった。石井正敏﹁文永八年来日の高麗使について--三別抄の日本通交史料の紹介﹂﹃東京大学史料編纂所報﹄12号, pp. 1-7+図巻頭1p, 1977年。 (99)^ ﹃元史﹄巻七 本紀第七 世祖四 至元八年三月己卯条﹁乙卯、中書省臣言、高麗叛臣裴仲孫乞諸軍退屯、然后内附。而忻都未從其請、今願得全羅道以居、直隸朝廷。﹂ (100)^ ab﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年四月庚戌の条﹁庚戌、金方慶與忻都茶丘等、以全羅道一百六十艘水陸兵一萬餘人、至耽羅與賊戰、殺獲甚衆、賊衆大潰斬、金元允等六人分處降者一千三百餘、﹂ (101)^ ﹃元史﹄巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月己巳の条﹁己巳、勅發屯田軍二千、漢軍二千、高麗軍六千、仍益武衞軍二千、征耽羅。﹂ (102)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 耽羅﹁十年正月、命經略使忻都、史枢及洪茶丘等率捕船大小百有八艘、討耽羅賊党、﹂ (103)^ ﹃五代帝王物語﹄亀山院﹁同︵文永︶八年九月十九日筑前國今津に異國人趙良弼を始として百餘人來朝の間。軍船と心得て宰府さはぎけれども。其儀はなくて是も蝶状也。但辛櫃に納て金鎖を指て王宮へ持參して帝王に獻れ。それ叶はずば時の將軍に傳えて參らすべし。其儀もなくば持て歸べき由王敕を承たれば。手をはなつべからずとて。案を書て出したり。是も返蝶に及ず。此國後は大元國と號す。威徳のまさるに從て名を改とかや。されば始終いかなるべきにかと恐しく覺侍。﹂︵塙保己一編﹃群書類従﹄第三輯 帝王部 巻第三十七 続群書類従完成会 1960年 449頁︶ (104)^ abcde﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁九年二月、樞密院臣言、奉使日本趙良弼遣書狀官張鐸來言、去歲九月、與日本國人彌四郎等至太宰府西守護所、守者云、曩為高麗所紿、屢言上國來伐、豈期皇帝好生惡殺、先遣行人下示璽書、然王京去此尚遠、願先遣人從奉使回報、良弼乃遣鐸同其使二十六人至京師求見、帝疑其國主使之來、云守護所者詐也、詔翰林承旨和禮霍孫以問姚樞、許衡等、皆對曰、誠如聖算、彼懼我加兵、故發此輩伺吾強弱耳、宜示之寬仁、且不宜聽其入見。從之、﹂ (105)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十二年正月己卯の条﹁復遣趙良弼、充國信使、期于必達、仍以忽林赤王國昌洪茶丘、將兵送抵海上、此國信使還、姑令金州等處屯住、﹂ (106)^ ﹃元朝名臣事略﹄野斎李公撰墓碑﹁既至、宋人与高麗・聃羅共沮撓其事。留公太宰府、専人守護。第遣人応返議事、数以兵威相恐。或中夜排垣破戸、兵刃交拳。或火其隣舎、喧呶叫号。夜至十余発。公投牀大鼾、恬若不聞。如是者三日、彼詐窮変索公、呼守護所、大加詬責。彼来請受国書。公言、国書当俟見国主日致達。数欲脅取、公以辞拒之。嘖有煩言、随方詰難、彼不能屈。﹂ (107)^ ab吉田経長﹃吉続記﹄十月廿四条﹁今度蝶状、朝使直可持參帝都、不然者不可放手之由申之、蠻夷者參帝闕事無先例、蝶状之趣可承之由、少卿問答、就之、彼朝使書寫蝶状、與少卿、彼状自關東進之、其趣、度々雖有蝶状、無返蝶、此上以來十一月可爲期、猶爲無音者、可艤兵船云々、可有返蝶云々、先度長成卿草少々引直可被遣云々、﹂︵笹川臨風、矢野太郎校訂﹃史料大成 第23巻 吉記二・吉続記﹄内外書籍 1935年 304頁︶ (108)^ 吉田経長﹃吉続記﹄文永八年十一月廿二条﹁廿二日、參院、異國事有評定、仍不能奏事、次參内、熾盛光法爲異國御祈、座主證覺僧正於惣持院、自今日可被始行云々、﹂︵笹川臨風、矢野太郎校訂﹃史料大成 第23巻 吉記二・吉続記﹄内外書籍 1935年︶ (109)^ ab﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年正月丁丑の条﹁丁丑、趙良弼還自日本、遣書狀官張鐸、率日本使十二人如元、王遣譯語郞將白琚、表賀曰、盛化旁流、遐及日生之域、殊方率服、悉欣天覆之私、惟彼倭人、處于鰈海、宣撫使趙良弼、以年前九月、到金州境、裝舟放洋而往、是年正月十三日、偕日本使佐一十二人、還到合浦縣界、則此誠由聖德之懷綏、彼則嚮皇風而慕順、一朝涉海、始修爾職、而來萬里瞻天、曷極臣心之喜、玆馳賤介、仰賀宸庭。﹂ (110)^ ﹃元史﹄巻七 本紀第七 世祖四 至元九年十一月乙亥の条﹁可建國號曰大元、蓋取易經乾元之義。﹂ (111)^ ﹃元史﹄巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条﹁諭旨中書省、日本使人速議遣還。安童言、良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼、臣等以爲金州戍兵、彼國所知、若復移戍、恐非所宜、但開諭來使、此戍乃爲耽羅暫設、爾等不須疑畏也、帝稱善。﹂ (112)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年︵四月︶甲午︵七日︶の条﹁甲午、遣御史康之邵、護日本使還其國。﹂ (113)^ ab﹃賛皇復県記﹄﹁︵趙良弼︶承命東使日本。鯨海浩瀚、莫測其際。叛賊耽羅蔽其衝。公仗忠信、直抵其國、論以天子威徳。方制數十萬里、靡不從命。東夷悦服、既遣使詣闕。時僞宋以海道去兩浙不遠大畏之、遣僧滕原瓊林等、爲諜止行。日本人與公語、公面折之、縷數宋人浮僞無信。﹁今西淮襄漢四川、悉爲我有、但東南彈丸地、尋亦不保。﹂前後數百言、僧語塞不能對。日本亦栗然畏懾。履至危之地、馮仗威靈、無所辱命、全節而歸。﹂︵太田彌一郎﹁石刻史料﹁賛皇復県記﹂にみえる南宋密使瓊林について--元使趙良弼との邂逅--﹂﹃東北大学東洋史論集﹄6東洋史研究室 1995年︶ (114)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年︵十二月︶庚戌︵二十六日︶の条﹁元復遣趙良弼、如日本招諭。﹂ (115)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年︵四月︶甲午︵七日︶の条﹁甲午、遣御史康之卲、護日本使還其國。﹂ (116)^ ﹃元朝名臣事略﹄野斎李公撰墓碑﹁日本遂遣使介十二人入覲。上慰論遣還。其国主疑奉表講和。会々宋人使僧曰瓊林者、来渝平。以故和事不成。公還、以疾請帰老樊川。﹂ (117)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十四年︵三月︶癸酉︵二十日︶の条﹁趙良弼如日本、至大宰府、不得入國都而還。﹂ (118)^ ab﹃元史﹄巻八 本紀第八 世祖五 至元十年六月戊申の条﹁使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵號、州郡名數、風俗土宜來上。﹂ (119)^ abcd﹃元史﹄巻一百五十九 列伝第四十六 趙良弼﹁十年五月、良弼至自日本、入見、帝詢知其故、曰卿可謂不辱君命矣。后帝將討日本、三問、良弼言、臣居日本歲餘、睹其民俗、狠勇嗜殺、不知有父子之親、上下之禮。其地多山水、無耕桑之利、得其人不可役、得其地不加富。況舟師渡海、海風無期、禍害莫測。是謂以有用之民力、填無窮之巨壑也、臣謂勿擊便。帝從之。﹂ (120)^ abc﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年正月の条﹁春正月、元遣總管察忽、監造戰艦三百艘、其工匠役徒一切物件、全委本國應副、於是以門下徒侍中金方慶爲東南道都督使、元又以昭勇大將軍洪茶丘爲監督造船官軍民總管、茶丘約正月十五日興役、催督甚嚴、王以樞密院副使許珙爲全州道都指揮使、右僕射洪祿遒爲羅州道都指揮使、又遣大將軍羅裕於全羅道、全伯鈞於慶尚道、朴保於東界、國子司業潘阜於西海道、將軍任愷於交州道、各爲部夫使、徴集工匠役徒三萬五百餘名、起赴造船所、是時驛騎絡繹、庶務煩劇、期限急迫、疾如雷電、民甚苦之。﹂ (121)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年五月己丑︵十四日︶の条﹁己丑、元征東兵萬五千人來。﹂ (122)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國﹁︵至元十一年︶五月、皇女忽都魯掲里迷失下嫁于世子愖。﹂ (123)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 高麗國﹁︵至元十一年︶七月、其樞密院副使奇蘊奉表告王禃薨、命世子愖襲爵、詔諭高麗國王宗族及大小官員百姓人等、其略曰國王禃存日、屡言世子愖可爲繼嗣。今令愖襲爵爲王。凡在所屬、并听節制。八月、世子愖還至其國襲位。﹂ (124)^ ﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十五年︵六月︶辛酉︵十六日︶の条﹁辛酉、遣大將軍羅裕如元、上中書省書曰、今年正月三日、伏蒙朝旨、打造大船三百艘、既行措置、遣樞密院副使許珙於全州道邊山、左僕射洪祿遒於羅州道天冠山備材、又以侍中金方慶爲都督使、管下員將、亦皆精揀、所須︵功に﹁夫﹂︶匠物件、並於中外差委、催督應副、越正月十五日聚齊、十六日起役、至五月晦告畢、船大小幷九百隻造訖、合用物件、亦皆圓備、令三品官能幹者、分管廻泊、已向金州、伏望諸相國、善爲敷奏。﹂ (125)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年八月己酉︵六日︶の条﹁八月己酉、元遣日本征討都元帥忽敦來、令加發京軍︵高麗軍︶四百五十八人。﹂ (126)^ ﹃肥後小代文書﹄関東御教書﹁︵上包︶﹁北条相模守時宗 北条左京大夫政村﹂蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所差遣御家人等於鎮西也、早速自身下向肥後国所領、相伴守護人︵名越時章︶、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守︵北条時宗︶︵花押︶左京権大夫︵北条政村︶︵花押︶ 小代右衛門尉︵重俊︶子息等﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七三号︶ (127)^ ﹃薩摩二階堂文書﹄関東御教書﹁︵上包︶﹁北条相模守時宗 北条左京大夫政村﹂蒙古人可襲来之由、有其聞之間、所下遣御家人等於鎮西也、早速差下器用代官於薩摩国阿多北方、相伴守護人、且令致異国之防禦、且可鎮領内之悪党者、依仰執達如件、文永八年九月十三日 相模守︵北条時宗︶︵花押︶左京権大夫︵北条政村︶︵花押︶ 阿多北方地頭︵二階堂行景妻忍照︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇八七四号︶ (128)^ ab川添昭二﹃元寇防塁編年史料―注解異国警固番役史料の研究﹄福岡市教育委員会 1971年57頁 (129)^ ﹃尊敬閣所蔵野上文書﹄大友頼泰書下﹁﹁︵付箋︶大友出羽守頼泰﹂﹁︵端書︶守護所廻文<筑前・肥前両国要害警固事 到来文永九二十六>﹂筑前・肥前両国要害守護事、東国人々下向程、至来三月晦日、相催奉行国々御家人、可警固之由、関東御教書到来、仍且請取役所、且為差御家人御代官等、已打越候畢、不日相尋亍彼所、無懈怠、可令勤仕候也、恐々謹言、文永九年二月朔日 ︵大友︶頼泰︵花押︶ 野上太郎殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一〇九六四号︶ (130)^ ﹃薩摩延時文書﹄平忠俊・同忠恒連署譲状﹁︵端裏書︶﹁□かおかにし太郎とのゝくますにゆつ□︵花押︶﹂たゝしかのなりをかのミやうてん︵名田︶のうち︵内︶、のたそのら、しよ□くらにゆつ︵譲︶りあた︵与︶ふるふん︵分︶にをいてハ、かくへつの□をたいするあいた、これをのそ︵除︶くところなり、︵花押︶ ゆつ︵譲︶りあた︵与︶ふるあさ︵字︶なくますまろ︵熊寿丸︶かところに、平たゝとし︵忠俊︶か□︵せんカ︶そ︵先祖︶そうてん︵相伝︶のそりやう︵所領︶、なりおかの名のてんはく︵田畠︶薗、ならひにさんや︵山野︶かりくら︵狩倉︶の事、た︵田︶のつほ/\︵坪々︶・はくち︵畠地︶の四至・その︵薗︶ゝさかい、しんふ︵親父︶平忠恒ゆりしやう︵譲状︶、たゝとし︵忠俊︶か所帯のしやう︵状︶にめいはく︵明白︶也、右、くたん︵件︶のてんはく︵田畠︶・その︵薗︶・さんや︵山野︶のかりくら︵狩倉︶にをいてハ、忠俊をちやくし︵嫡子︶として、ゆつ︵譲︶りあた︵与︶へられおはぬ︵畢︶、こゝに、異国の人襲来せしむへきあいた︵間︶、関東の御けうしよ︵教書︶のむね︵旨︶にまか︵任︶せて、親父たゝつね︵忠恒︶のたいくわん︵代官︶として、上府︵太宰府︶して、やく︵役︶所をうけとりて、きんし︵勤仕︶せしむへきによりて、参府するところなり、これによ︵仍︶て、かつハ海路のなら︵習︶いなり、かつハ軍庭におもむくあいた︵間︶、若たゝとし︵忠俊︶しせん︵自然︶の事もあらハ、件ミやう︵名︶のてんはく︵田畠︶・さんや︵山野︶・かりくら︵狩倉︶にをいてハ、たゝつね︵忠恒︶のゆつ︵譲︶りをあいそ︵相副︶へて、くますまろ︵熊寿丸︶をちやくし︵嫡子︶として、しゝそん/\︵子々孫々︶にいたるまで、た︵他︶のさまた︵妨︶けなく、ちきやう︵知行︶せしむへきなり、後日のゐらん︵違乱︶をとゝ︵停︶めむかために、しよはんを給ハるところ也、よ︵仍︶てゆつりしやう︵譲状︶、くたんのことし、文永九年<歳次/壬申>卯月三日 平忠俊﹁盛岡次郎﹂︵花押︶平忠恒︵花押︶ ︵裏︶﹁為証人 平忠重︵花押︶ 湛西︵花押︶﹂﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇〇三号︶ (131)^ ﹃諸家文書纂野上文書﹄小田原景泰書遵守状﹁肥前、筑前両国要害警固事、并、豊後国中悪党沙汰事、今年二月廿五日、守護所御書下如此子細被載状候、早且守状、且無左右不可棄件要害役所給候、仍、為其沙汰、景泰、令下向候也、恐々謹言、文永九年卯月廿三日 藤原︵小田原︶景泰︵花押︶ 野上太郎︵資直︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇一五号︶ (132)^ ﹃薩藩旧記五延時文書﹄少弐資能博多津番役請取状﹁被下 関東御教書候異国警固事、自去四月十七日被上府候、迄今月十六日、博多津番役、被勤仕了、恐々謹言、文永九年五月十七日 覚恵︵少弐資能︶︵花押︶ 盛岡二郎殿﹁平忠俊﹂﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十四巻 東京堂出版 一一〇三四号︶ (133)^ ﹃比志島文書﹄﹁︵折紙︶被下 関東御教書候異国警固事、自去六月廿四日迄今月廿四日、博多津番役、被勤仕候了、恐々謹言、︵文永九年カ︶七月廿五日 覚恵︵少弐資能︶︵花押︶ 薩摩国千島太郎︵佐範︶殿代河田右衛門尉︵盛資︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一〇六八号︶ (134)^ ﹃将軍執権次第﹄文永九年条﹁時輔。式部大夫。二月十五日於六波羅南方被誅畢。廿五。﹂︵塙保己一編﹃群書類従﹄第四輯 補任部 巻第四十八 続群書類従完成会 1960年 259頁︶ (135)^ abc﹃高麗史﹄巻一二六 列伝三十九 姦臣 洪福源﹁明年︵元宗十三年︶、倭船泊金州、慶州道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還去、茶丘聞之、嚴鞫子一、鍛錬以奏曰、高麗與倭相通、王遣張暐、請繹子一囚、一日茶丘遽還元、人莫知其故、王慰鍮之、﹂﹃高麗史﹄巻二十七 世家二十七 元宗三 元宗十三年七月甲子︵八日︶の条﹁秋七月甲子、倭船至金州、慶尚道道安撫使曹子一、恐元責交通、密令還國、洪茶丘聞之、嚴鞫子一、馳聞于帝。/己亥、洪茶丘殺曹子一。﹂ (136)^ ﹃肥前松浦家文書﹄少弐資能施行状﹁今年八月三日 関東御教書、今日十六日到来、為案之、如状者、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬國國御家人等事、或本御家人并地頭補任所々、或給御下知知行之輩、及就質券売買之由緒、被成安堵之族、云其所名字分限、云領主之交名、且糺明所帯御下文・御下知、且不漏一所、平均可令注進之由、所被仰下候也、然者随身所書帯證文、可被上府候、任 御教書之状、糺明子細、可令注進言上候、更不可有遅怠之儀候也、恐々謹言、︵文永十年︶十一月十六日 沙彌︵少弐資能︶︵花押︶山代孫三郎殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一四六八号︶ (137)^ 広橋兼仲﹃勘仲記﹄文永十一年十一月十四日条﹁晴、依筥崎宮火事、自今日三个日廢朝云々、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1﹄八木書店 2008年5月88頁︶ (138)^ 蒙漢軍は元朝から派遣された軍であるが、1269年10月に、崔坦ら親元派の高麗軍人たちが反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし、高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏して、慈悲嶺︵現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部︶を境界とする高麗領の北半分が東寧府として元朝の直轄領となって接収された。これに伴い東寧府内の鳳州など各地に屯田軍が設置されている。文永の役ではこれらの地域に駐屯していた諸軍が日本侵攻に派遣された。﹁蒙漢軍二万五千﹂とは、大都などの華北地域から増派された部隊や東寧府、高麗領内の駐屯軍からなり、その内訳はモンゴル人、契丹人、女真人、水達達や漢人などから編成された部隊だと考えられるものの、その具体的な編成についてはなお不明な点が多い。 (139)^ abcd﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁同十一年十月五日卯時に、對馬國府八幡宮假御殿の内より、火焔おひたゝしく、もえいつ、國府在家の人々、焼亡出来しよと見るに、もゆへき物もなきを、怪しみけるほとに、同日申時に、對馬の西おもて、佐須浦に、異國船見ゆ、﹂︵1ウ︶其数四五百艘はかりに、凡三四萬人もやあらんと、見るはかり寄来る、同日酉時、國府の地頭につく、即地頭宗馬允資國、八十餘騎、同日丑時、彼浦にゆきつく、翌日卯時、通人真継男を使者として、蒙古人に、事のしさいを尋る処に、散々に舟よりいる、大船七八艘より、あさち原へ、おりたつ勢、一千人もあらんと見ゆ、其時、宗馬允、陣をとりて戦ふ、いはなつ矢に異國人、数しらす、いとらる、此中に大将軍と、おほし﹂︵2オ︶き者四人、あし毛なる馬にのりて、一はんに、かけむかふ者、宗馬弥二郎に右の乳の上を、いられて、馬よりおつ、此時、馬允に射倒さるゝ者、四人、宗馬允かく戦ふといへとも、終にうたれぬ、同子息宗馬次郎、養子弥二郎、同八郎親頼、刑部丞郎等に三郎、庄太郎、入道源八、在廰左近馬允手人、肥後國御家人、口井藤三、源三郎、已上十二人、同時に討死す、蒙古、佐須浦に火をつけて、焼拂ふよし、宗馬允か郎等、小太郎、兵衛次郎﹂︵2ウ︶博多にわたりて告しらす、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 193-194頁︶ (140)^ 江戸時代に対馬藩で編纂された﹃十九公実録﹄﹃宗氏家譜﹄などの資料では﹁宗助国﹂としているが、日蓮書簡や﹃八幡愚童訓﹄などの鎌倉時代、室町時代中期までの資料では通常、﹁宗資国﹂と書かれる。 (141)^ ﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁入對馬島、撃殺甚衆﹂ (142)^ ﹃金方慶墓誌銘﹄﹁又奉東征之命。甲戌、入討日本、俘馘甚多越。﹂︵﹃第5版 高麗墓誌銘集成﹄翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁︶ (143)^ ﹁去文永十一年︵太歳甲戌︶十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取ニシ、女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一八九六号︶ (144)^ 海老沢哲雄﹁元代奴婢問題小論﹂﹃社会文化史学﹄ 第8号、1972年7月 (145)^ ﹃高麗史﹄ 巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年﹁︵十二月︶庚午︵二十八日︶、侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人、獻王及公女。﹂ (146)^ ab﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁同十四日申時に壱岐嶋の西おもてに蒙古の兵船つく、其中に二艘より四百人はかりおりて、赤旗をさして東の方を三度、敵の方を三度拜す、其時、守護代平内左衛門尉景隆并御家人百餘騎、庄三郎か城の前にて矢合す、蒙古人か矢は、二時はかりいる間に守護代か方にも二人手負、異敵は大勢なり、終に叶ふへくもなかりけれは、城のうちへ引退て合戦す、同十五日に、攻めおとされ﹂︵3オ︶て城の内にて自害す、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 194頁︶ (147)^ ﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、﹂ (148)^ ﹃日蓮書状﹄<○日蓮上人遺文>﹁︵前略︶壹岐・對馬・九ヶ國のつはもの竝に男女、多く或はころされ、或はとらはれ、或は海に入、或はかけよりをちしもの、いくせんまんと云事なし、又今度よせなは、先にはにるへくもあるへからす、京と鎌倉とは、但壹岐・對馬の如くなるへし︵後略︶﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九八〇号︶ (149)^ ab﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁同十六□︵日カ︶、十七日の間、平戸、能古、鷹嶋の男女多く捕らる、松浦黨敗す。﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 194頁︶ なお、﹃八幡愚童訓﹄諸本のうち、橘守部が﹃八幡愚童訓﹄の文永・弘安の役部分の原本と看做している﹃八幡ノ蒙古記﹄には平戸、能古、鷹島の襲来についての記述があるが、﹃八幡愚童訓﹄の現存諸本のうち平戸、能古、鷹島の襲来について、菊大路本︵鎌倉時代末期︶、東大寺上生院本︵文明12年︶、文明本︵愛媛県八幡浜市八幡神社蔵本、文明15年︶など主要な諸本では記述がない。 (150)^ ﹃石志文書﹄源兼譲状案﹁譲与、字猟子所四至境見本證文合二箇所 石志︵肥前松浦郡︶土毛間事右、件於所領者、兼祖先相伝私領也、而蒙國人之合戦仁、嫡子二郎をハ相具天むけ候あいた、息災にてもとらん事もありかたく候へハ、れうしにあてゝ、所領のてつきせしむるところ也、若又、二郎いのちいきたらんにおきてハ、一後︵ママ︶のほとすこしのさまたけあるへからす、然者、相具代々手継證文等、無相違可令領知也、仍手継證文之状如件、文永十一年甲戌十月十六日 源兼在判又袈裟童御せん、妃童御前のために、せうせうの事をハあいはからいて、ふひんにあたり給候へく候、在判、︵裏書︶又かやうにゆつりたてまつりてのちに、たといいつれの子ありといふとも、四郎よりほかにたふへからす候、弘安四年辛巳壬七月十六日 源兼在判﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七二八号︶ (151)^ ﹃有浦文書﹄関東裁許状﹁︵前略︶蒙古合戦之時、房幷嫡子直・二男留・三男勇等殞命畢、︵後略︶﹂︵瀬野 精一郎編集﹃松浦党関係史料集︿第1﹀﹄続群書類従完成会 1996年 百三十号︶ (152)^ 円明院日澄撰﹃日蓮註画讃﹄巻第五 蒙古來﹁二島百姓等男或殺或捕、女集一所、徹手結附船、不被虜者、一人不害。肥前國松浦黨數百人、或伐或虜、此國百姓男女等、如壹岐對馬。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之二11頁︶ ﹃日蓮註画讃﹄は日蓮の書簡や﹃八幡愚童訓﹄に依拠しつつ室町時代に執筆されている。 (153)^ abc﹃築後高良神社文書﹄将軍家政所下文案﹁将軍家政所於博多津、去文永十一年蒙古襲來之刻、肥後・薩摩・日州・隅州之諸軍馳參之砌、筑後河神代浮橋、九州第一之難處之處、神代良忠以調略、諸軍轍打渡、蒙古退治之事、偏玉垂宮冥慮、扶桑永代爲安利之由、所仰如件、建治元年十月二十九日 別当相模守平朝臣︵北条時宗︶判﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二〇七八号︶ただし、﹃鎌倉遺文﹄の編者である竹内理三氏はこの書状を稍疑うべしとしている。 (154)^ 橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 194頁︶ (155)^ なお﹃大友文書﹄関東御教書案によれば、この時の武士らは自らの所領を守るとして大宰府に赴かなったり、戦場に臨んでも進んで戦おうとしない者が多数いたことが記されているが、近年の研究により、この文書は偽文書であったことが判明している。この文書は文永の役の際における武士らの怠慢を幕府が批判し、今後もし同様のことがあるならば罪科に問うことを大友家に対して全国の御家人等に普く伝えるよう命ずる文書である。歴史学者・村井章介によれば、通常の関東御教書は名宛人が守護職を持つ国名が書かれているのが通例であり、その記載が無く﹁普﹂文言を使う場合は、名宛人の権限が全国に及ぶ場合のみであり、この文書では大友頼泰の指揮権が全国の御家人に及んでいることや弘安年間に出家した大友頼泰が兵庫入道と称され出家しているなど当時の実情とは合わない記述があることから、偽造された文書であることを明らかにしている。村井章介は偽書が作成された背景として、1350年︵観応元年︶に肥前守護職を失い豊後国一国のみの領域に限定されるなど衰退していた後世の大友家が、鎌倉時代の自家の指揮権が全国の御家人らに亘っていたことを主張する意図があったとしている。村井章介﹃遥かなる中世18号--具書案と文書偽作 ﹁立花家蔵大友文書﹂所収﹁鎌倉代々御教書﹂についての一考察--﹄中世史研究会 2000年3月 ﹃大友文書﹄関東御教書案﹁異賊去年襲來之時、或臨戦場不進闘、或稱守當境不馳向之輩、多有其聞、甚招不忠之科歟、向後若不致忠節者、随令注申、可被行罪科也、以此旨、普可令相觸御家人等之状、依仰執達如件、建治元年七月十七日 武蔵守︵北条義政︶在判 相模守︵北条時宗︶同 大友兵庫入道︵頼泰︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一一九六二号︶ (156)^ abcde﹃福田文書﹄福田兼重申状写﹁右、去年十月廿日異賊等龍衣︵襲カ︶渡于寄︵ママ︶来畢︵早カ︶良郡之間、各可相向当所蒙仰之間、令馳向鳥飼塩浜令防戦之処、就引退彼山︵凶カ︶徒等令懸落百路︵道︶原、馳入大勢之中、令射戦之時、兼重鎧胸板・草摺等ニ︵ママ︶被射立箭三筋畢、凡雖為大勢之中、希有仁令存命、不分取許也、﹂︵外山幹夫﹃中世九州社会の研究﹄付録 吉川弘文館 1986年 334頁︶ (157)^ 1931年に著された歴史学者の池内宏による﹃元寇の新研究﹄以降、通説では元軍の上陸地点は今津、百道原、博多の三か所であり、百道原から上陸したのが高麗軍、今津と博多から上陸したのが蒙古・漢軍であったとされているが︵池内宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 149〜150頁︶、元軍が今津、博多、百道原の三か所から分かれて上陸したとする史料は存在しない。史料としては、蒙古・漢軍が博多から上陸したとする史料はなく、今津から上陸したことがうかがえるのが宗教書である﹃八幡愚童訓﹄の1点史料のみである。対して百道原があった早良郡から上陸したとする史料は、参戦していた肥前国御家人・福田兼重の書状である﹃福田文書﹄福田兼重申状に﹁去年十月廿日異賊等龍衣︵襲カ︶渡于寄︵ママ︶来畢︵早カ︶良郡之間﹂とあり、他に捕虜の元兵の証言が収録されている日朝﹃朝師御書所見聞 安国論私抄﹄にも﹁モモミチハラニオルルナリ﹂と記載され、鎌倉時代末に編纂された﹃一代要記﹄においても﹁攻來筑前國早良郡﹂とある。また、元側の史料﹃高麗史﹄にも﹁三郎浦﹂なる地点から上陸したことが記されており、﹁三郎﹂という単語と﹁早良﹂が音が通じるため、﹁三郎浦﹂とは﹁早良郡﹂であった可能性もある。以上のように百道原があった早良郡から上陸したとする史料が他を圧倒しており、元軍は百道原を中心に上陸したとみられる。また、通説である百道原から上陸したのが高麗軍のみとする説は、蒙古・漢軍に属していた捕虜の元兵が百道原から上陸したことを証言したことが﹃朝師御書所見聞 安国論私抄﹄に載っており、上陸したのが高麗軍のみとする説は誤りである。 (158)^ ab日朝﹃朝師書所見聞 安国論私抄﹄ 第一 文永十一年蒙古責日本之地事﹁或記云蒙古ノイケドリノ白状ニ云、蒙古ノ年號ハ至元十一年三月十三日ニ蒙古國ヲ出テ高麗國ノカラカヤノ城ヲコシラヘテ、船ソロヘヲシ勢ヲ集テ、同九月二日ニカラカヤノ津ヲ出シニ、ノキタノ奥ニテ船一艘ニヘ入ル、蒙古ノ物三人生殘リ了、又四日ニ當ニ船一艘燒亡出來テ燒ケ死ス、十月六日對嶋ニヨセ來レリ、同十四日壹岐嶋ニ寄タリ、同二十日モモミチハラニオルルナリ、又船ノ數ハ一ムレニ百六十艘、總ジテ已上ハ二百四十艘也、船一艘別ニ兵三百人水主七十人馬五疋ハシラカス、カナツル四ツツナリ、﹂︵﹃日蓮宗宗学全書 御書所見聞集 第1﹄日蓮宗宗学全書刊行会 1922年17頁︶ (159)^ abc﹃蒙古襲来絵詞﹄詞四﹁たけふさ︵武房︶にけうと︵凶徒︶あかさか︵赤坂︶のちん︵陣︶をか︵駆︶けお︵落︶とされて、ふたて︵二手︶になりて、おほせい︵大勢︶はすそはら︵麁原︶にむ︵向︶きてひ︵退︶く。こせい︵小勢︶はへふ︵別府︶のつかハら︵塚原︶へひ︵退︶く、﹂ (160)^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 58. (161)^ ab﹃蒙古襲来絵詞﹄詞七﹁日のたいしやう︵大将︶たさい︵太宰︶のせうに三らうさゑもんかけすけ︵少弐三郎左衛門景資︶、はかた︵博多︶のおき︵息︶のハま︵浜︶をあひかた︵固︶めて、一とう︵一同︶にかせん︵合戦︶候へしと、しきりにあひふれられ候しによて、すゑなか︵季長︶ゝ一もん︵門︶そのほか︵他︶、たいりやく︵大略︶ちん︵陣︶をかた︵固︶め候なかをいて候て、﹂ (162)^ ab﹃蒙古襲来絵詞﹄詞一﹁あかさか︵赤坂︶はむま︵馬︶のあしたち︵足立ち︶わろく候。これにひか︵控︶へ候ハゝ、さためてよ︵寄︶せきたり候ハんすらん。一とう︵一同︶にかけて、をものい︵追物射︶にい︵射︶るへきよし申さるゝにつきて、けんしち︵言質︶のやくそく︵約束︶をたか︵違︶へしとて、をのゝゝ︵各々︶ひか︵控︶へしあいた、﹂ (163)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄詞三﹁はかた︵博多︶のちん︵陣︶をう︵討︶ちいて、ひこ︵肥後︶のくに︵国︶[ ]一はん︵番︶とそん︵存︶し、すみよし︵住吉︶のとりゐ︵鳥居︶の[ ]す︵過︶き、こまつはら︵小松原︶をうちとを︵通︶りて、あかさか︵赤坂︶には[ ]かふところに、あしけ︵芦毛︶なるむま︵馬︶に、むらさきさかおもたか︵紫逆沢潟︶のよろひ︵鎧︶に、くれなゐ︵紅︶のほろ︵母衣︶をか︵懸︶けたるむしや︵武者︶、そのせい︵勢︶百よき︵余騎︶はか︵計︶りとみへて、けうと︵凶徒︶のちん︵陣︶を[ ]り、そくと︵賊徒︶を︵追︶ひお︵落︶として、くひ︵首︶二たち︵太刀︶となきなた︵長刀︶のさき︵先︶につら︵貫︶ぬきて、さう︵左右︶にも︵持︶たせてま[ ]とゆゝしくみ︵見︶へしに、たれ︵誰︶にてわたらせ給候そ、すゝ︵涼︶しくこそみ︵見︶え候へと申に、ひこ︵肥後︶のくに︵国︶きくち︵菊池︶の二郎たけふさ︵武房︶と申すもの︵者︶に候、かくおほせられ候ハたれ︵誰︶そとと︵問︶ふ、をな︵同︶しきうち︵内︶たけさき︵竹崎︶の五郎ひやうへすゑなか︵兵衛季長︶、か︵駆︶け候、御らん︵覧︶候へと申ては︵馳︶せむ︵向︶かふ。﹂ (164)^ abcdef王惲﹃秋澗先生大全文集﹄巻四十 汎海小録﹁兵仗有弓刀甲、而無戈矛、騎兵結束。殊精甲往往代黄金為之、絡珠琲者甚衆、刀製長極犀、銃洞物而過、但弓以木為之、矢雖長、不能遠。人則勇敢視死不畏。﹂川越泰博 1975, p. 28掲載 (165)^ 佐藤鉄太郎 ﹃蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究﹄錦正社史学叢書 錦正社 2005年4月 286~288頁 (166)^ abc文永の役の激戦地ともなった鳥飼、百道原、姪浜はいずれも早良郡に属している。角川日本地名大辞典編纂委員会編纂﹃角川日本地名大辞典 第40巻 福岡県﹄1988年 949、1343、1356頁 (167)^ abcd﹃蒙古襲来絵詞﹄詞四﹁つかハら︵塚原︶よりとりかひ︵鳥飼︶のしほ[ひ]かた︵汐干潟︶を、おほせい︵大勢︶になりあハむとひ︵退︶くをお︵追︶かくるに、むま︵馬︶ひかた︵干潟︶にはたハ︵倒︶して、そのかたき︵敵︶をのハ︵逃︶す。けうと︵凶徒︶ハすそはら︵麁原︶にちん︵陣︶をとりて、いろゝゝ︵色々︶のはた︵旗︶をた︵立︶てなら︵列︶へて、らんしやう︵乱鐘︶ひま︵暇︶なくして、ひしめきあ︵合︶ふ。すゑなか︵季長︶は︵馳︶せむ︵向︶かふを、とうけんたすけみつ︵藤源太資光︶申す。御かた︵味方︶ハつゝき候らん、御ま︵待︶ち候てせう人をた︵立︶てゝ御かせん︵合戦︶候へ、と申を、きうせん︵弓箭︶のみち︵道︶さき︵先︶をも︵以︶てしやう︵賞︶とす、たゝか︵駆︶けよとて、をめいてか︵駆︶く。﹂ (168)^ ab﹃蒙古襲来絵詞﹄詞四﹁けうと︵凶徒︶すそハら︵麁原︶より、とりかいかた︵鳥飼潟︶のしほや︵塩屋︶のまつ︵松︶のもと︵下︶にむ︵向︶けあハせてかせん︵合戦︶す。一はん︵番︶にはたさしむま︵旗指馬︶をい︵射︶られては︵跳︶ねを︵落︶とさる。すゑなか︵季長︶いけ︵以下︶三き︵騎︶いたて︵痛手︶を︵負︶ひ、むま︵馬︶い︵射︶られては︵跳︶ねしところに、ひせん︵肥前︶のくに︵国︶の御け人︵御家人︶しろいし︵白石︶の六郎みちやす︵通泰︶、こちん︵後陣︶より大せい︵大勢︶にてか︵駆︶けしに、もうこ︵蒙古︶のいくさ︵戦︶ひ︵引︶きしり︵退︶そきて、すそはら︵麁原︶にあ︵上︶かる。むま︵馬︶もい︵射︶られすして、ゐてき︵異敵︶のなか︵中︶にか︵駆︶けい︵入︶り、みちやす︵通泰︶つゝ︵続︶かさりせハ、し︵死︶ぬへかりしみなり、﹂ (169)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄詞七﹁はかた︵博多︶のちん︵陣︶をう︵打︶つい︵出︶て、とりかひ︵鳥飼︶のしおひかた︵汐干潟︶には︵馳︶せむ︵向︶かひ候て、さき︵先︶をし候てかせん︵合戦︶をいたし、はたさ︵旗指︶しのむま︵馬︶、おな︵同︶しきの︵乗︶りむま︵馬︶をいころ︵射殺︶され、すゑなか︵季長︶、三井の三郎、わかたう︵若党︶一人、三き︵騎︶いたて︵痛手︶をかうふ︵被︶り、ひせん︵肥前︶のくに︵国︶の御け︵家︶人しろいし︵白石︶の六郎せう︵証︶人にた︵立︶て候て、かけすけ︵景資︶のひきつ︵引付︶けに一はん︵番︶につき候し事、﹂ (170)^ ab﹃都甲文書﹄大友頼泰勘状写 ﹁蒙古人合戦事、於筑前国鳥飼濱陣、令致忠節給候之次第、已注進関東候畢、仍執達如件、文永十一年十二月七日 ︵大友︶頼泰 都甲左衛五郎︵惟親︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七七一号︶ (171)^ ﹃財津氏系譜﹄日田永基伝﹁文永十一年十月二十日、拒異賊於筑前國姪濱百路原両所一日二度大破之。﹂︵芥川 竜男・福川 一徳編校訂﹃西国武士団関係史料集 ︿1﹀財津氏系譜﹄文献出版 1991年29頁︶ (172)^ ﹃日田記﹄﹁文永十一年十月二十日蒙古ノ賊襲来ス 日田弥次郎永基 筑前国早良郡ニ軍ヲ出シ姪ノ浜百路原両処ニ於テ一日二度ノ合戦二討勝テ異賊ヲ斬ル事夥シ﹂︵財津 永倫、芥川 竜男、財津 永延﹃日田記﹄文献出版 1977年61〜62頁︶ (173)^ ﹃武藤系圖﹄少弐景資伝﹁弘安︵文永カ︶蒙古出來時、蒙古大将於百道原射留ラル﹂︵﹃続群書類従﹄巻百四十九 系図部︶ (174)^ ﹃新元史﹄巻一百四十三 列傳第四十 劉復亨﹁戰于百道原、復亨披赤甲、縱横指揮、鋒鋭甚。日本將三郎景資射復亨墜馬、乃引軍還、﹂ただし、洪鈞の﹃元史訳文証補﹄や同時期の民国時代に編纂された屠寄の﹃蒙兀児史記﹄に比べ典拠を明らかにしない事で有名な﹃新元史﹄の通例に漏れず、﹃新元史﹄の編者・柯劭忞はここでも記述のもととなった典拠資料を記載していない。 (175)^ abcdefghij﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁諸軍與戰、及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、﹃兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰﹄、忽敦曰、﹃兵法小敵之堅、大敵之擒、策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍﹄復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死、到合浦、﹂ (176)^ 少弐景資と大友頼泰は鳥飼潟の戦いに引付︵参陣・戦功を記録すること︶を行い竹崎季長や都甲惟親に書下を与えている。合戦に加わらず引付を行うことはあり得ないことから両名がこの戦いに加わっていたと推測される。佐藤鉄太郎 2003, p. 61 (177)^ ab佐藤鉄太郎 2003, p. 61. (178)^ ﹃福田兼重申状﹄及び﹃大友頼泰勘状写 都甲文書﹄︵﹃鎌倉遺文﹄一一七七一号︶ (佐藤鉄太郎 2003, p. 61) (179)^ abcde橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁太宰小貳三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬やにのり、旗をあけて攻めかゝる、こゝに前小貳入道覺慧孫﹂︵4オ︶わつかに十二三なるか、矢合の為とて小鏑を射出したりしに、蒙古一度に、とつと笑ひ、大皷をたゝき、とらを打て鬨をつくる事おひたゝし、日本の馬も、これにおとろき、をとり、はねくるふほとに、馬をこそ刷ひしか、向はんとする時の、おくれけるうちに、射かけらる、蒙古か矢、みじかしといへとも、矢のねに毒をぬりたれは、ちともあたる処、とくに氣にまく、かくて敵より数百人、矢さきを、そ﹂︵4ウ︶ろへて雨のことくに、いけるに、向ふへくもあらす、楯、鉾、長柄、物の具の、あき間をさして、はつさす、一面にたちならんて、もし、よする者あれは、中に包て引退て、左右より端をまはし合せて、とりこめて、皆ころしける、其中に、よくふるまひ死したるをは、腹をさき肝をとりてそ、のみにける、もとより牛馬の肉を、うまきものとする國なりけれは、人のみならす、いころさる□馬をも、とりて﹂︵5オ︶食とせり、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 194〜195頁︶ (180)^ abcdefghi橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁鎧かろく、馬に、よくのり、ちから、つよく、命をします、豪盛勇猛、自在きはまりなく、かけ引せり、大将は高き所にあかりゐて、引へき所は、逃皷をうち、駈へき時には攻皷を鳴し、それにしたかふて、ふるまへり、その引ときに、てつほうとて、鉄丸に火を包て烈しく、とはす、あたりおちて、わるゝ時、四方に火をとはし、火烟を以て、くらます、又、其音、甚高けれは、心を迷はし、きもをけ﹂︵5ウ︶し、目くれ耳ふたかりて、東西をしらすなる、これかために、打るゝ者、多かり、日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり勝負とおもふ処に、此合戦は、大勢一度に、より合、足手のうこく所、われもゝゝと取つきて、おし殺し、又は生捕けり、この故に、かけ入ほとの日本人に、一人として、もれたる者こそなかりけれ、其中にも松浦いさみたりし故、おほく打れぬ、原田一類、澤田に、おひこまれ﹂︵6オ︶て、うせにけり、日田、青屋二三百騎はかりにて、ひかへたり、青屋かのりたる馬、口つよくして、しねんに敵陣にそ引れたる、主人入しかは、かの手に、したかふものとも、つゝいて、かけ入たりけるに、ひしゝゝと巻こめられて、残りすくなく打死にす、主人ののりし馬、御方の陣、へ歸しにこそ、青屋伐れたりとは、しられたれ、肥後國御家人、竹崎五郎兵衛尉季長、天草城主大矢野種保兄弟、船にかゝりしほ﹂︵6ウ︶とは、よくふるまひたれと、此所にいたりて、得かゝらす、白石六郎通泰も、えすゝます、こゝに山田か若者五六人、蒙古に、おひたてられ、赤坂をくたりて、のけ兜になりて、にくる処に蒙古三人、もみにもみてそ、おひかけたる、されとも、とくにけ延し事、一町あまりなりしかは、蒙古ちからなく、せめての事にや、尻をかきあけて、此方へむかひてそ、をとりける、この時、山田の逃武者とも、口をし﹂︵7オ︶き事かな、奴原に、かく追立らるゝ事よと、精兵を、えらひて、いあつへきには、あらすとも、遠矢射て見む、南無八幡大菩薩、此矢、敵に當させ給へとて、何にあつよもなく、はなちけるに、あやまたす、かの二人とも射殺しつ、此とき、日本人は一度に、とつと、わらへとも、蒙古は音もせす、手負を掻具して、にけさりつ、大菩薩の御罸にあらさるほか、いかにして、かの矢の、あたるへき事あらんと、貴はさる人なく、うれし︵7ウ︶さ、はかりなかりけり、されとも蒙古、次第につよく、かちに乗じて攻来、今津、佐原、百道、赤坂まて乱入して、松原の中に陣を取てそ居たりける、かほとの事あるへしとは、兼ては、おもはさりけれは、妻子眷属をかくしもおかすして、数千人そ捕られにたる、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 195〜196頁︶ (181)^ 橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁はしめより軍立、思ひしにたかひて、おもてを、むくへきやうもなく、御方追々に引退て、一人も、かゝる者こそ、なくなりに﹂︵8オ︶けれ、こゝに菊池次郎、おもひ切て、百騎はかりを二手に分て、おしよせて、さんゝゝにかけちらし、上になり下になり、勝負をけつし、家のこ、らうたう等、多くうたれにけり、いかゝしたりけん、菊池はかりは、うちもらされて、死人の中より、かけいて、頸とも数多とりつけ、御方の陣に入しこそ、いさましけれ、是偏に、大菩薩を深く信して、もし、勧賞あるならは、賜ひたらん一はんの物を、手向奉らん﹂︵8ウ︶との立願なりし故なりとて、後に太宰府よ︵ママ︶より注進して、京都より賜はりし甲冑を當社へそ納めける、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 196〜197頁︶/東大寺上生院本﹃八幡愚童記﹄﹁蒙古ハ、次第ニ、勝ニ乗︵ノリ︶テ責入テ、赤坂マテ乱入ル、松原ノ中ニ陣ヲトル、︵中略︶爰ニ菊地ノ次郎ハ、思切テ、百騎計ヲ二手ニ分テ押寄セ、散々ニ、カケ散シ、取重ナリテ勝負ヲス、蒙古ニ、郎等多ク打セテ、イカゝシタリケン、菊池計ハ死人ノ中ヨリ、ヲキ挙リ、頸共アマタ取テ、城内ヘ入シコソ、名ヲ後代ニ留ケレ﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 442頁︶ (182)^ abc橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁小貳入道か子息、大将三郎左衛門尉景資、并、平四郎入道子、小太郎左衛門等を始として、大矢野、竹崎、白石等、更により合て、さんゝゝに戦ふ、此外、名ある者、恥をおもひ、大事をなけく者あつまりて攻しかとも、物のかすともせす、蒙古ひたやふりに破て、佐原、筥崎、宇佐まてこそ乱れ入﹂︵9オ︶たりけれ、異國かせん、何ほとの事あらんと、あなつりて、妻子、老人を隠しおかさりしよと、なけくも、かひなし、在々所々に、おし入て、いく萬人を奪取けん、みな人々︵カ︶、はしめは、ふんとりせんとするに、御方多くして、一人に一人は當つかすあるへきにやなと、いさみ進みしに、たゝ一旦の戦ひに、あきれさわきて、いふかひなく、軍、辰刻より、はしまりしか、日もくれかたに、なりしかは、あなたこなたに、さゝやき事こそ、多くなり﹂︵9ウ︶にけれ、何事にかあらんと、あやしみしに、しよせん武力及はす、水木城に引こもり、さゝへてみんと、逃したくをこそ、かまへたりけれ、これをきくより、おそしやとて、われさきに落ゆくか、多かりけれは、いよゝゝおくひやう神にさそはれて、今は一人も戦はんとおもふ者こそ、たえにけれ、爰に大将小貳景資、蒙古の大将とおほしくして、長七尺はかりの大男、ひけは臍邊まて、おひさかりたるか、﹂︵10オ︶あか︵カ︶鎧に、あし毛なる馬にのり、十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して、おひかくる、その時、景資か旗の、せみくちを、鳩かけりしかは、八幡大菩薩の御影向と、たのもしく思ひ、究竟の馬廻に、弓の上手かありしかは、それに下知して、逸物の上馬にのせ、一鞭うちて、はせ出させたり、かの奴原を見かへりて、よつひき、はなつ矢、一はんにかけたる大男の、直中を射つらぬき、逆にこそ、おちたりけれ、つきそひ﹂︵10ウ︶たる郎等とも、これをおとろき抱へ入ける紛れにそ、景資、水木城の方へ引かへす、その時、同し、あし毛馬に金作のくらおきて、馳出たる異敵を、おひ廻し捕へたり、此者に、かの大男を尋ぬれは、蒙古一方の大将、流将公と云うものなりとそ、又申けるは、出たつより、あやしや、鳩、翔りて、既に吾か大将軍を、うちてけりと云にそ、八幡宮の降伏、めてたく、たふとき事を知て、皆人かんしける、さて、水木城と﹂︵11オ︶申すは、前は深田にて、路一すちあるのみ、うしろは野原ひろくつゝきて、水木おほく、ゆたかなり、馬蹄、飼場よく、兵粮潤澤なり、左右、山あひ、三十餘町をすかして、石もて高くきひしく筑たり、城戸口には、磐石門を立たり、今は礎石はかりになりたり、南山近くて、あひそめ川なかれたり、右山の腰には、深くひろく堀を、とほして、二三里廻れり、これ、いにしへの、みよゝゝ、異賊をふせかんた﹂︵11ウ︶めに、帥の大将を、おかれたりし、大城なり、かくゆゝしき古城なれとも、あまたの軍勢、一日の戦に、たへかねて、博多、筥崎を、うちすてゝ、おち入けれは、末は、いかになり行ものかと、あやしの賤山かつまて、泣まと︵カ︶ひ、かなしまさるそ、なかりける、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 197〜198頁︶ (183)^ ﹃高麗史﹄金方慶伝に﹁︵劉復︶亨、中流矢、先登舟﹂とある。﹃八幡愚童訓﹄甲種本に﹁少弐入道ガ子三郎右衛門景資、︵中略︶究竟ノ馬乗、弓ノ上手也シカバ、逸物ノ馬ニハ乗リタリ、一鞭打テ馳延ビ見帰テ放ツ矢ニ、一番ニ懸ケル大男ガ真中射テ、馬ヨリ逆様ニ落シケリ。︵中略︶葦毛ノ馬ニ金覆輪ノ鞍置タルガ走廻リシヲ捕テ後ニ尋ヌレバ、蒙古ノ一方ノ大将軍流将公之馬也ト、生捕共申ケリ﹂︵﹁八幡愚童訓 甲﹂﹃寺社縁起 日本思想大系20﹄︵桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年︶p.185︶とあり、この﹃八幡愚童訓﹄のいう﹁流将公﹂は﹁劉復亨︵流将公?︶﹂の訛伝であろうと考えられている (184)^ 明治時代以前に指摘されている﹁流将公=劉復亨﹂説の一例としては、大橋訥庵﹃元寇紀略﹄では﹃東国通鑑﹄の﹁劉復亨中流矢﹂という記述を引用して、﹃八幡愚童訓﹄で少弐景資が射倒したという﹁賊将﹂は劉復亨のことであり、﹃八幡愚童訓﹄が﹁流将公﹂としているのは﹁国音﹂が近いための誤りである、としている。 (185)^ ab/橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁廿一日なり、あしたに松原を見れは、さはかり屯せし敵も、をらす、海のおもてを見わたせは、きのふの夕へまて、所せきし賊船、一艘もなし、こはいかに、いつくへは、かくれたる、ようへまて、いねもらやれす、︵中略︶よくゝゝ見れは、異賊の兵船一艘、志[賀]嶋にかゝりて、逃のこれるも見えにけり、さりけれと、あまり恐れて、さうなく、むかふ者しもあらす、かの陣とりし跡所の、いとあやしく荒れたるを見つゝ行に、こは、たゝ事なたしと、おもへと、なを、さても、おちをのゝきたる、心くせの、はなれぬは、蒙古か方より手をあはせて、をかみけれと、我ゆかんというふ人なく、たゆたひてあるに、賊とも、助船もよせこさるは、降るをたにもゆるさゝる心にこそと、おもひ切て、その中の大将、海に入てそ、うせにける、のこる敵とも、御方の地に、わたりきて、弓箭をすて、兜を脱く、其時はしめて、われもゝゝと、おしよせて高名かほに生捕にける、残る賊ともを水木岸に、引ならへて、二百二廿人、斬てけり、やうゝゝこれを、見きゝて、蒙古退散しにけり︵以下略︶﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄p.200.︶ (186)^ abc橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁語りあへるは、こたひすてに武力つきはてゝ、かゝる大勢、敗北して、にけうせにしは、國の危きかきりなりき、今はかうと見えし、夕過︵カ︶る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろへて射ると見えしは、神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出けるに、あやしき火もえめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまゝゝ沖に、にけたるは、大風に吹しつけられにけり、此事さき□︵にカ︶生捕[た]﹂︵16ウ︶る日本人の、其夜歸来て、かたると、今朝生捕たる蒙古か云と、同し事なりけれは、更に、あやまり有へからす、﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 200〜201頁︶ (187)^ 橘守部旧蔵﹃八幡ノ蒙古記﹄﹁もし、此時、日本の軍兵、一騎なりとも、ひかへたりせは、大菩薩の御戦と、いはれすして、わか高名にて、おひ返せしとも、申なさましを、一人もなく落失てのち、よるになりて、さはかりなる異賊ともの、おち恐れて、あるひは、つふ︵カ︶れ、あるひは、逃かへりしは、偏に神軍の威徳厳重にして、不思議、いよゝゝ顕然とあらはれ﹂︵17オ︶たまひけりと、ふしをかみ貴はぬ人こそ、なかりけれ 建○○○ 此下、紙四五枚うせににけり﹂︵17ウ︶﹂︵小野尚志﹃八幡愚童訓諸本研究 論考と資料﹄三弥井書店 2007年 201頁︶ (188)^ ab﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁至元十一年冬十月、入其國敗之、而官軍不整、又矢盡、惟虜掠四境而歸、﹂ (189)^ ﹃元史﹄巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇﹁︵至元十一年︶八月、授東征右副都元帥、與都元帥忽敦等領舟師二萬、渡海征日本、拔對馬、一岐、宜蠻等島、﹂。なお、洪茶丘伝にある﹁宜蠻﹂については、江戸時代の﹃蒙古寇紀﹄の著者・長村靖斎は平戸島と音が通じているために﹁宜蠻﹂とは平戸島であるとしている︵長村靖斎﹃蒙古寇紀﹄2巻︶。一方で歴史学者の池内宏は﹁イマツの對音であらう﹂としており、﹁宜蠻﹂とは島ではなく、博多湾の今津であるという説を挙げている︵池内宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 150頁︶。 (190)^ abcd﹃高麗史﹄ 巻一百四 列伝十七 金方慶﹁入對馬島、撃殺甚衆、至一岐島、倭兵陳於岸上、之亮及方慶婿趙卞逐之、倭請降、後來戰、茶丘與之亮卞、撃殺千餘級、捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當、倭兵突至衝中軍、長劍交左右、方慶如植不少却、拔一嗃矢、厲聲大喝、倭辟易而走、之亮忻卞李唐公金天祿申奕等力戰、倭兵大敗、伏屍如麻、忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此、﹂ (191)^ ab﹃高麗史節要﹄巻十九 二十五葉 元宗十五年十月十一日条﹁諸軍終日戰、及暮乃解、方慶、謂忽敦茶丘曰、﹃我兵雖少、已入敵境人自為戰。即孟明焚舟、淮陰背水者也。請復決戰﹄。忽敦曰、﹃小敵之堅大敵之擒、策疲乏兵大敵、非完計也﹄而劉復亨中流矢、先登舟、故遂引兵還、會夜大風雨、戰艦觸巖崖多敗、金侁墮水死、﹂ (192)^ 該当部分の出典不明。﹃旧唐書﹄などに近似した文言が見られる。﹃旧唐書﹄本紀太宗上﹁太宗曰、金剛懸軍千里、深入吾地、精兵驍將、皆在於此﹂ (193)^ ﹃孫子﹄謀攻編﹁故善用兵者、屈人之兵、而非戰也。‥拔人之城、而非攻也。‥毀人之國、必以全爭于天下、故兵不頓、利可全、此謀攻之法也。故用兵之法、十則圍之、五則攻之、倍則分之、敵則能戰之、少則能守之、不若則能避之。故小敵之堅、大敵之擒也﹂ (194)^ 叡尊﹃金剛仏子叡尊感身学正記﹄﹁十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多︵博多︶、即退散畢﹂ (195)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 元宗十五年︵十一月︶己亥︵二十七日︶の条﹁己亥、東征師還合浦、遣同知樞密院事張鎰勞之、軍不還者無慮萬三千五百餘人。﹂ (196)^ ﹃呉文正集﹄巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状︵呉澄撰︶﹁率兵征伐、亦不収功、駆有用兵、民取無用地土、猶珠弾雀、已為失策﹂ (197)^ abc﹃元史﹄巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣﹁況日本海洋萬里、疆土濶遠、非二國可比、今次出帥、動衆履險、縱不遇風、可到彼岸、倭國地広、徒衆猥多、彼兵四集、我帥無援、万一不利、欲發救兵、其能飛渡耶、隋伐高麗、三次大擧、數見敗北、喪師百万、唐太宗以英武自負、親征高麗、雖取數城而還、徒增追悔、且高麗平壤諸城、皆居陸地、去中原不遠、以二國之衆加之、尚不能克、况日本僻在海隅、與中国相懸萬里哉、帝嘉納其言、﹂ (198)^ ab﹃高麗史﹄ 巻八十七 表巻第二﹁十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人﹂ (199)^ ﹃元史﹄失里伯伝では、シリバイ︵失里伯︶は文永の役に参加した記述は無く、バヤン︵伯顔︶に従い、南宋侵攻に従軍している。﹃元史﹄巻一百三十三 列傳第二十 失里伯﹁十年、遷昭勇大將軍、爲耽羅國招討使。奉旨入見上都、改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。從丞相伯顔等渡江、破獨松關、下長興、取湖州、行安撫司事。﹂ (200)^ 鄭思肖﹃心史﹄大義略叙﹁先忽必烈遣失里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海。辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人與船倶陥、又大敗而回。﹂︵陳福康校点﹃鄭思肖集﹄上海古籍出版社 1991年5月 174頁︶ (201)^ ﹃金綱集﹄ 第十二 雑録 異賊襲我国事﹁仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○︵十︶余人也、或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三羡六郎・四劉保兒也、﹂ (202)^ ﹃皇年代略記﹄後宇多院﹁文永十一年十︵月︶五︵日︶蒙古賊船着岸。卅大宰府言上賊船百餘艘漂倒。﹂︵塙保己一編﹃群書類従﹄第三輯 帝王部 巻第三十二 続群書類従完成会 1960年 266頁︶ (203)^ abc広橋兼仲﹃勘仲記﹄文永十一年十一月六日条﹁晴、或人云、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來、吹歸本國、少々船又馳上陸上、仍大鞆式部大夫︵大友頼泰︶郎從等凶賊五十餘人許令虜掠之、皆搦置彼輩等、︵裏書︶六日下、召具之。可令參洛云々、逆風事、神明之御加被歟、無止事可責、其憑不少者也、近日内外法御祈、諸社奉幣連綿、無他事云々﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1﹄八木書店 2008年5月85頁︶ (204)^ ab﹃薩藩旧記 前編巻五 国分寺文書﹄大宰府庁下文﹁就中蒙古凶賊等来着于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹、異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二一二号︶ (205)^ ﹃福岡県史﹄第一巻下冊 福岡県 1962年64頁 (206)^ 広橋兼仲﹃勘仲記﹄文永十一年十月二十九日条﹁廿九日、辛未、土成 大歳前、厭對、陰、異國賊徒責來之間、興盛之由風聞、武家邊︵関東︶騒動云々、或説云、北条六郎︵時定︶幷式部大夫時輔等打上云々、是非未決、怖畏無極者也、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第149回配本 勘仲記1﹄八木書店 2008年5月︶ (207)^ ﹃東寺百合文書ヨ﹄関東御教書﹁蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵︵少弐資能︶所注申也、早来廿日以前、下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月一日 武蔵守︵北条義政︶在判 相模守︵北条時宗︶在判 武田五郎次郎︵信時︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四一号︶ (208)^ ﹃長府毛利家文書﹄関東御教書﹁蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵︵少弐資能︶注申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依仰執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守︵北条長時︶在判 相模守︵北条時宗︶在判﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四三号︶ (209)^ ﹃諸家文書纂十一﹄関東御教書案﹁蒙古人襲来対馬壱岐、既致合戦之由、覚恵︵少弐資能︶注進申之間、所被差遣御家人等也、早来廿日以前、下向石見国所領、彼凶徒寄来者、随守護人之催促、可令禦戦、更不可有緩怠之状、依執達如件、文永十一年十一月三日 武蔵守長時判 相模守時宗判﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一七四四号︶ (210)^ 村井章介﹃北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む﹄日本放送出版協会 2001年 111頁 (211)^ abc﹃帝王編年記﹄﹁六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之二50頁︶ (212)^ abc﹃五檀法日記﹄﹁仰去月︵十一月︶六日申刻、自鎮西飛脚上洛。去月十九日廿日両日合戦。廿日蒙古軍兵船退散了。﹂︵塙保己一編﹃続群書類従﹄26上 釈家部 巻第七百三十六 続群書類従完成会 1957年︶ (213)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄詞八﹁御ふんの御くた︵下︶しふみ︵文︶は、ちき︵直︶にしん︵進︶すへきおほ︵仰︶せに候、いま百二十のくゑんしやう︵勧賞︶ハ、さいふ︵宰府︶におほ︵仰︶せくたされ候、﹂ (214)^ ab﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王六年︵十一月︶己酉︵十一日︶の条﹁又於昔東征時、五千三百軍齎去衣甲弓箭、多有棄失、僅得収拾、頓於府庫不堪支用、﹂ (215)^ ab﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年正月庚辰︵八日︶の条﹁庚辰、遣侍中金方慶大将軍印公秀如元、上表曰、小邦近因掃除逆族︵三別抄︶、惟大軍之糧餉、既連歳而戸収、加以征討倭、民修造戦艦、丁壮悉赴工役、老弱僅得耕種、早旱晩水、禾不登場、軍國之需、斂於貧民、至於斗升、罄倒以給、已有採木實草葉而食者、民之凋弊、莫甚此時、而況兵傷水溺不返者多、雖有遺噍、不可以歳月期其蘇息也、若復擧事於日本則其戦艦兵糧、實非小邦所能支也、﹂ (216)^ 2010年度時点における日本文教出版、帝国書院、扶桑社、日本書籍出版協会、清水書院などの出版社の歴史教科書。包黎明 & 2010年, p. 98 (217)^ 陸上自衛隊福岡修親会 編集﹃元寇―本土防衛戦史﹄1964年96頁 (218)^ 荒川秀俊 1958. (219)^ ﹃関東評定衆伝﹄文永十一年条﹁十月五日蒙古異賊寄來着對馬嶋。討少貳入道覺惠代官藤馬允。同廿四日寄來太宰府與官軍合戰異賊敗北。﹂︵﹃群書類従﹄第四輯 補任部巻 第四十九 続群書類従完成会 1960年 324頁︶ (220)^ 関 幸彦﹃神風の武士像―蒙古合戦の真実︵歴史文化ライブラリー︶﹄吉川弘文館 2001年99頁 (221)^ 京都大学附属図書館所蔵 平松文庫︵流布本︶﹃一代要記﹄後宇多天皇 文永十一年十月条﹁十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、同二十日始合戰、宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、﹂ (222)^ ﹃肥前武雄神社文書﹄武雄社大宮司藤原国門申状﹁<是/五>又永則十月廿日夜、鏑矢音出、自御神殿差賊船方響、廿一日賊徒退散、<是/六弘安>亦七月廿九日、午時、紫幡三流、出自上宮、懸飜青天上、飛テ行賊船方之間、緇素驚目、尊卑合掌畢、其時大風吹賊船、悉漂波、異国降伏ノ霊瑞、自御在世之音、迄御垂跡之今掲焉也、争無御帰敬哉、<是/七>武雄武内共以勝軍之名称置而不論、随而宇佐香椎武雄三所大菩薩号也、尤是武家御尊敬之準的<是/八>重訪故実、至異国合戦者、不謂京家凡下浪人非御家人、令致忠者、可被行賞之旨、被定置之間、不論貴賎、所被忠賞也、誠不被捨一土之功勲之条、令相叶先世之兵法歟、然者、上下潤恵、遠近欹徳、人倫恩賞巳無用捨、神明忠勤争被棄置哉、雑掌抱理運、多年雖疲長訴為仰 上裁、少為重述短慮悲哀之至、勒事状、言上如件、延慶二年六月 日﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第三十一巻 東京堂出版 二三七二一号︶ (223)^ 関 幸彦﹃神風の武士像―蒙古合戦の真実︵歴史文化ライブラリー︶﹄吉川弘文館 2001年 101頁 (224)^ abc包黎明 & 2010年, p. 101. (225)^ ab佐藤和夫 2003, p. 14. (226)^ 関幸彦﹃神風の武士像―蒙古合戦の真実︵歴史文化ライブラリー︶﹄吉川弘文館 2001年43〜45頁 (227)^ ﹃薩藩舊記﹄島津久時書下案﹁爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 ︵島津︶久時在判 大隅五郎殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九三号︶ (228)^ ﹃薩藩舊記﹄島津久時書下案﹁爲高麗征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月五日 ︵島津︶久時在判 吉富次郎殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九四号︶ (229)^ ﹃肥前武雄神社文書﹄少弐経資書状案﹁爲異國征伐、被遣武士候、同可罷渡之由、被仰下候也、恐ゝ謹言、建治二年三月廿一日 ︵少弐︶經資在判 武雄大宮司殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六九号︶ (230)^ ﹃肥前深江文書﹄少弐経資石築地役催促状﹁異國警固之間、要害石築地事、高麗發向輩之外、課于奉行國中、平均所致沙汰候也、今月廿日以前、相具人夫、相向博多津、請取役所、可被致沙汰候、恐ゝ謹言、建治二年三月十日 少貳︵少弐経資︶︵花押︶ 深江村地頭殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六〇号︶ (231)^ ab﹃東寺文書﹄関東御教案﹁明年三月比、可被征伐異國也、梶取・水手等、鎭西若令不足者、可省充山陰・山陽・南海道等之由、被仰太宰少貳經資了、仰安安藝國邊知行之地頭御家人・本所一圓地等、兼日催儲梶取・水手等、經資令相觸者、守彼配分之員數、早速可令送遣博多也者、依仰執達如件、建治元年十二月八日 武蔵守︵北条義政︶相模守︵北条時宗︶在判 武田五郎次郎︵信時︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二一七〇号︶ (232)^ ﹃野上文書﹄大友頼泰書下﹁異國發向用意條ゝ 一 所領分限、領内大小船呂數幷水手梶取交名年齢、可被注申、兼又以來月中旬、送付博多津之様、可相構事、一 渡異國之時、可相具上下人數年齢、兵具、固可被注申事、以前條ゝ、且致其用意、且今月廿日以前、可令注申給、若及遁避者、可被行重科之由、其沙汰候也、仍執達如件、建治二年三月五日 前出羽守︵大友頼泰︶︵花押︶ 野上太郎︵資直︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二五二号︶ (233)^ ﹃石清水文書﹄肥後窪田庄僧定愉請文﹁爲異國征伐、可注申勢幷兵具・乘馬等之由事、今月廿五日當所御施行、同廿九日至來、謹以令拝見候畢、仰任被先度仰下候旨、愚身勢幷兵具員數、去十日既雖令付于押領使河□□︵尻兵カ︶衛尉之候、今重任被仰下候旨、所令注進之候也、以此旨、可有御被露候哉、定愉恐惶謹言、建治二年三月卅日 窪田庄︵肥後飽田郡︶預所僧定愉﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七一号︶ (234)^ ﹃石清水文書﹄肥後窪田庄僧定愉注進状﹁肥後國窪田庄︵飽田郡︶預所僧定愉勢幷兵具乘馬等事 一 自身歳三十五 郎從一人 所從三人 乘馬一疋 一 兵具 鎧一兩 腹卷一兩 弓二張 征矢二腰 大刀 右、任被仰下候旨、注進之状如件、建治二年三月卅日 窪田庄預所僧定愉﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二七五号︶ (235)^ ﹃石清水文書﹄井芹秀重西向請文﹁︵前略︶一 人勢弓箭兵杖乘馬事 西向年八十五、仍不能行歩、嫡子越前房永秀年六十五在弓箭兵杖、同子息彌五郎經秀年三十八弓箭兵杖、腹卷一□︵領カ︶、乘馬一疋、親類又二郎秀尚 年十九弓箭兵杖、所從二人、一 孫二郎高秀 年樠四十弓箭兵杖、腹卷一領、乘馬一疋、所從一人、右、任御下知状、可致忠勤也、仍粗注進状言□︵上カ︶如件、建治二年壬三月七日 沙彌西向︵裏花押︶﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九七号︶ (236)^ ﹃石清水文書﹄尼眞阿請文﹁建治二年三月廿五日御書下、昨日閏三月二日到來、畏拝見仕候了、仰被仰下候爲異國征伐、人數交名幷乘馬物具數等事、子息三郎光重・聟久保二郎公保、以夜繼日企參上候へハ、可申上候、以此旨、且可有御披露候、恐惶謹言、︵建治二年︶閏三月三日 北山室地頭尼眞阿︵裏︶﹁花押﹂﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二九二号︶ (237)^ ﹃石清水文書﹄持蓮請文﹁異國征伐事、今年二月廿日大宰少貳︵経資︶殿御奉書案、同廿八日城次郎殿御奉書案、已上三通、謹以拝見仕候了、仰佛道房城次郎︵肥後守護代城盛宗︶殿御使鎌倉︵へ脱カ︶まいられて候、持蓮分注進状進之候、恐ゝ謹言、︵建治二年︶三月十一日 持蓮︵花押︶ 進上 惣公文殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十六巻 東京堂出版 一二二六二号︶ (238)^ ﹃福岡県史﹄第一巻下冊 福岡県 1962年61頁 (239)^ ab﹃薩摩比志島文書﹄少弐経資書下﹁蒙古警固結番事、以使者民部次郎兵衞尉國茂、令啓候、被聞食候て、可令被露給候、恐々謹言、︵文永十二年︶二月四日 大宰少貳經資在判 進上 竹井又太郎殿 蒙古警固結番事 春三ヶ月<筑前國/肥後國>夏三ヶ月<筑前國/豐前國>秋三ヶ月<豐後國/筑後國>冬三ヶ月<日向國/大隅國/薩摩國> 文永十二年二月 日﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十五巻 東京堂出版 一一八〇五号︶ (240)^ ab﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁︵至元︶十二年二月、遣禮部侍郎杜世忠、兵部侍郎何文著、計議官撒都魯丁往、使復致書、亦不報、﹂ (241)^ abcde﹃鎌倉年代記裏書﹄﹁今年四月十五日、大元使着長門國室津浦、八月、件牒使五人被召下關東、九月七日、於龍口刎首、一、中須大夫禮部侍郎杜世忠、年卅四、大元人、作詩云、出門妻子贈寒衣、問我西行幾日歸、來時儻佩黄金印、莫見蘇秦不下機、二、奉訓大夫兵部郎中何文着、年卅八、唐人、作頌云、四大元無主、五蘊悉皆空、兩國生靈若︵苦カ︶、今日斬秋風、三、承仕郎回々都魯丁、年卅二、回々用人、四、書状官薫畏國人杲︵果︶、年卅二、五、高麗譯語郎將徐、年卅三、作詩云、朝廷宰相五更寒、々甲將軍夜過關、十六高僧甲︵由カ︶未起、算來名利不如閑、今度刎首事永絶、窺覦不可攻之策也、其後警固事有沙汰、鎭西撰補守護人器用之發遣海邊國々、止京都大番役、被差置左︵在カ︶京人、公家武家減省公事、行儉約、休民庶、皆是爲軍旅用意也、﹂︵竹内 理三編集﹃続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記﹄臨川書店増補版 1979年9月53頁︶ (242)^ 蘇秦が外交交渉に失敗して家に帰ってきた際、蘇秦の妻は機織りの手を休めず、出迎えもしなかったという逸話を基にしている (243)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年︵九月︶戊子︵二十一日︶の条﹁元遣使、與劍工内來、古内在元言、高麗有路可徑至日本、故遣之。﹂ (244)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年︵十月︶壬戌︵二十五日︶の条﹁以元將復征日本、遣金光遠爲慶尚道都指揮使、修造戰艦。﹂ (245)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王元年︵十一月︶癸巳︵二十七日︶の条﹁癸巳、分遣部夫使于諸道。/元遣使來作軍器、以起居郎金磾、偕往慶尚全羅道、斂民箭羽鏃鐵。﹂ (246)^ ﹃元史﹄巻一百六十 列傳第四十七 王磐﹁帝將用兵日本、問以便宜、磐言、當用吾全力、庶可一擧取之。若復分力東夷、恐曠日持久、功卒難成。俟宋滅、徐圖之未晩也。﹂ (247)^ ﹃高麗史﹄巻二十八 世家二十八 忠烈王一 忠烈王二年︵正月︶丙子︵十日︶の条﹁丙子、帝命除造戰船及箭鏃。﹂ (248)^ abc﹃元史﹄巻一百八十 列傳第六十七 耶律希亮﹁十二年、既平宋、世祖命希亮問諸降將、日本可伐否、夏貴、呂文煥、范文虎、陳奕等皆云可伐、希亮奏曰、宋與遼金攻戰且三百年、干戈甫定、人得息肩、俟數年、興師未晩、世祖然之、﹂ (249)^ ﹃元史﹄巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年八月戊子の条﹁戊子、范文虎言、臣奉招征討日本、比遣周福、欒忠與日本僧齎詔往諭其國、期以來年四月還報、待其從否、始宜進兵、又請簡閲舊戰船以充用、皆從之、﹂ (250)^ ab﹃鎌倉年代記裏書﹄﹁今年︵弘安二年︶六月廿五日、大元將軍夏貴、范文虎、使周福、欒忠相具渡宋曉房靈杲、通事陳光等着岸、牒状之旨如前々、於博多斬首、﹂︵竹内 理三編集﹃続史料大成 別巻 鎌倉年代記・武家年代記・鎌倉大日記﹄臨川書店増補版 1979年9月54頁︶ (251)^ 中原師守﹃師守記﹄弘安二年六月二十六日・七月二十五日条﹁弘安二年六月廿六日異國牒船到着對馬嶋之由風聞、筑紫使者通關東云々、七月廿五日於院有評定、大宋國牒状︵入大 函有銘︶有沙汰、件返牒可通好之趣也、無其儀者、令責日本歟云々、彼牒状昨日自關東進上云々、﹂︵藤井貞文、小林花子校訂﹃史料纂集 古記録編 第44回配本 師守記9﹄続群書類従完成会 1975年 178頁︶ (252)^ 広橋兼仲﹃勘仲記﹄弘安二年七月二十五日条﹁廿五日 晴、參殿下、次謁信輔、宋朝牒状自關東去夕到來、今日於仙洞有評定、殿下已下皆參、左辨宰相束帶、讀申牒状云々、如傳聞者、宋朝爲蒙古已被打取、日本是危、自宋朝被告知之趣歟、今日人々議不一揆云々、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2﹄八木書店 2008年5月 114頁︶ (253)^ ﹃元史﹄巻十 本紀第十 世祖七 至元十六年二月甲申の条﹁以征日本、敕揚州、湖南、贛州、泉州四省造戰船六百艘﹂ (254)^ abc﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年二月己丑の条﹁福建省左丞蒲壽庚言、詔造海船二百艘、今成者五十、民實艱苦、詔止之。﹂ (255)^ ﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年五月甲寅の条﹁造船三千艘、敕耽羅發材木給之。﹂ (256)^ ﹃元史﹄巻一百五十三 列傳第四十 賈居貞﹁十七年、朝廷再征日本、造戰艦於江南、居貞極言民困、如此必致亂、將入朝奏罷其事、未行。﹂ (257)^ ﹃元史﹄巻一百六十 列傳第四十七 徐世隆﹁會征日本、世隆上疏諫止、語頗剴切、當路者不即以聞、已而帝意悟、其事亦寢。﹂ (258)^ ab﹃元史﹄巻一百三十二 列傳第十九 昂吉兒﹁日本不庭、帝命阿塔海等領卒十萬征之。昂吉兒上疏、其略曰、臣聞兵以氣爲主、而上下同欲者勝。此者連事外夷、三軍屢衄、不︵可︶以言氣、海内騷然、一遇調發、上下愁怨、非所謂同欲也、請罷兵息民。不從。既而師果無功。﹂ (259)^ ab﹃元史﹄巻一百六十 列傳第四十七 王磐﹁日本之役、師行有期、磐入諫曰、日本小夷、海道險遠、勝之則不武、不勝則損威、臣以爲勿伐便。帝震怒、謂非所宣言、且曰、此在吾國法、言者不赦、汝豈有他心而然耶。磐對曰、臣赤心爲國、故敢以言、苛有他心、何爲從反亂之地、冒萬死而來歸乎。今臣年已八十、況無子嗣、他心欲何爲耶。明日、帝遣待臣以温言慰撫、使無憂懼。﹂ (260)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王五年八月の条﹁梢工上左引海一沖等四人、自日本逃還言、至元十二年、帝遣使日本、我令舌人郎將徐賛及梢水三十人、送至其國、使者及賛等見殺、王遣郎將池瑄、押上左等如元以奏。﹂ (261)^ ﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月己丑の条﹁日本國殺國使杜世忠等、征東元帥忻都、洪茶丘請自率兵往討、廷議姑少緩之、﹂ (262)^ ﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十七年二月辛丑の条﹁賜諸王阿八合、那木干所部、及征日本行省阿剌罕、范文虎等西錦衣、銀鈔、幣帛各有差。﹂ (263)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁十八年正月、命日本行省右丞相阿剌罕、右丞范文虎及忻都、洪茶丘等率十萬人征日本。二月、諸將陛辭。帝敕曰、始因彼國使來、故朝廷亦遣使往。彼遂留我使不還。故使卿輩爲此行。朕聞漢人言、取人家國、欲得百姓土地。若盡殺百姓、徒得地何用。又有一事、朕實憂之、恐卿輩不和耳。假若彼國人至、與卿輩有所議、當同心協謀、如出一口答之。﹂ (264)^ abcd﹃禅の世界﹄世界文化社、ほたるの本シリーズ、2006年 (265)^ 王惲﹃秋澗先生大全文集﹄巻四十 汎海小録﹁省︵征日本行省︶大帥欣都、都副察灰︵洪茶丘︶、次李都帥牢山︵李庭︶、次降将范殿帥文虎惣二十三、南︵江南軍︶一十三。隋唐以来出師之盛未之見也。﹂︵川越泰博 1975, p. 28︶ (266)^ ab冲止﹃圓鑑国師集﹄東征頌﹁皇帝御天下、神功超放勲、徳寛包有截、沢広被無垢、車共千途轍、書同九域文、唯残島夷醜、假息鼎魚羣、但恃滄溟隔、仍図疆場分、苞茅曾不入、班瑞亦無聞、帝乃赫斯怒、時乎命我君、一千龍鵲舸、十万虎貔軍、問罪扶桑野、鼓聲轟巨侵、旌旆拂長雲、︵中略︶斫営應瞬息、献捷在朝曛、玉帛争修貢、干戈尽解紛、元戎錫圭卣、戦卒返耕耘、快劒匣三尺、良弓嚢百斤、四方歌浩浩、八表楽欣欣、烽燧収辺警、風塵絶塞氛、当観聖天子、万歳奏南薫、﹂︵南基鶴﹃蒙古襲来と鎌倉幕府﹄臨川書店 1996年 230-232頁︶ (267)^ ﹃呉文正集﹄巻八十八 大元故御史中丞贈資善大夫上護軍彭城郡劉忠憲公行状︵呉澄撰︶﹁南方新附舊軍、十餘年間老病逃亡出征損、折向來精鋭於海東、新招軍數皆非習武藝慣爭戰陣、之人用此制敵必然敗事、﹂ (268)^ abc﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁忻都茶丘等、以累戦不利、且范文虎過期不至、議回軍曰、聖旨令江南軍、與東路軍、必及是月望、会一岐島、今南軍不至、我軍先至数戦、船腐糧尽、其将奈何、方慶黙然、旬余又議如初、方慶曰、奉聖旨齎三月糧、今一月糧尚在、俟南軍来、合攻必滅之、諸将不敢復言﹂ (269)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年八月乙未︵二十六日︶の条﹁茶丘曰、臣若不擧日本、何面目復見陛下、於是約束曰、茶丘忻都、率蒙麗漢四萬軍發合浦、范文虎率蠻軍十萬發江南、倶會日本一岐島、两軍畢集、直抵日本、破之必矣、﹂ (270)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二﹁忠烈王七年 五月戊戌︵三日︶、忻都茶丘及金方慶朴球金周鼎等、以舟師征日本。﹂ (271)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年四月癸未︵十八日︶の条﹁大閲干合浦。﹂ (272)^ ﹃高麗史﹄ 巻一百四 列伝十七 金方慶﹁方慶與忻都茶丘朴球金周鼎等發、至日本世界村大明浦﹂ 武田 幸男︵翻訳︶﹃高麗史日本伝︵下︶﹄︵岩波文庫、2005年︶によると世界村大明浦とは対馬上県郡佐賀村の大明神浦説が有力であるとしている。 (273)^ ﹃高麗史﹄ 巻一百四 列伝十七 金方慶﹁至日本世界村大明浦、使通事金貯激喩之、周鼎先與倭交鋒、諸軍皆下與戦、郎将康彦康師子等死之﹂ (274)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年五月癸亥︵二十八日︶の条﹁是月二十六日、諸軍向一岐島忽魯勿塔、船軍一百十三人梢水三十六人遭風、失其所之、﹂ (275)^ 広橋兼仲﹃勘仲記﹄弘安四年六月十四日条﹁自武家邊内々申云、今日宰府飛脚到來、異賊舟三百艘着長門浦了、云々、閣鎭西直令着岸之条、怖畏之外無他、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2﹄八木書店 2008年5月 229頁︶ (276)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄六月十五日条﹁異國賊船襲來長門□︵興︶□…﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (277)^ ﹃元史﹄巻十一 本紀第十一 世祖八 至元十八年六月壬午の条﹁日本行省臣遣使來言、大軍駐巨濟島、至對馬島、獲島人言、太宰府西六十里、舊有戌軍、已調出戰、宜乘虚擣之、詔曰、軍事、卿等當自權衡之、﹂ (278)^ abc﹃予章記﹄﹁通有。弘安四年。蒙古襲來ス。志賀、鷹、能古等島々海上ニ充満セリ。夷國退治之事ハ家ノ先例ナル間。大將トテ筑前國ニ進發ス。日本ノ諸勢、博多、筥崎、上下三十里ノ海涯ニ築地ヲ高ク築キ。此方面々馬ニテ馳上ル様ニ土ヲ築キ上テ。面ニ亂杭逆茂木ヲ付タリ。海上ヨリ見ハ危峰ノ江ニ臨ムカ如シ。然レ共河野ノ陣ニハ海ノ面、幕一重ニテ後ニ築地ヲツカセタリ。是敵ヲ轍ク引入一戦ノ勝負ヲ可決ト也。背ニ逃道アラハ。味方ヤ逃。トカクシテ一人モ引セシト也。從是河野ノ後築地ト云付タリ。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之四30頁︶ (279)^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 66. (280)^ abcde﹃元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘﹄﹁︵至元︶十八年、樞密院檄君、仍管新附□□︵軍百?︶率所統、堦千戸岳公琇、往征倭、四月□︵發?︶合浦登海州、以六月六日至倭之志賀島、夜将半、賊兵□□來襲、君與所部據艦戦、至暁、賊船廻退、八日、賊遵陸復來、君率纏弓弩、先登岸迎敵、奪占其□要、賊弗能前、日晡、賊軍復集、又返敗之、明日、倭大會兵來戦、君統所部、入陣奮戦、賊不能□︵支?︶殺傷過□︵當?︶賊敗去。﹂︵池内宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 229頁︶ (281)^ abc﹃高麗史節要﹄巻二十 十四葉 忠烈王七年六月壬申︵八日︶﹁六月壬申︵八日︶、金方慶金周鼎朴球朴之亮荊萬戸等、與日本兵力戰、斬首三百餘級、官軍潰、茶丘乗馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、﹂ (282)^ abcdなお﹃高麗史節要﹄では東征都元帥・洪茶丘は馬に乗って敗走したことになっている。﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁六月、方慶周鼎球之亮荊萬戸等、與日本兵合戰、斬三百餘級、日本兵突進、官軍潰、茶丘棄馬走、王萬戸復横撃之、斬五十餘級、日本兵之退、茶丘僅免、翼日復戰敗績、﹂ (283)^ ab﹃蒙古襲来絵詞﹄詞十四﹁陣にをしよせて合戦をいたしきすをかふり候事、ひさなか︵久長︶のて︵手︶の物信濃國御家人ありさかのいや︵弥︶二郎・ひさなか︵久長︶のをい︵甥︶しきふ︵式部︶の三郎﹁のて︵手︶の物いはや︵岩谷︶四郎さゑもんかねふさ︵左衛門兼房︶、これをせう︵証︶人にた︵立︶つ﹂頼承てお︵手負︶ひてのち︵後︶、ゆみ︵弓︶をす︵捨︶てなきなた︵長刀︶をと︵取︶りてを︵押︶しよ︵寄︶せよ、の︵乗︶りうつ︵移︶らむ、とはや︵逸︶りしかとも、これも水手ろ︵櫓︶をす︵捨︶てを︵押︶さゝりしほとに、ちからなくのりうつ︵移︶らさりし物なり。同日むま︵午︶の時、季長なら︵並︶ひにて︵手︶の物、きす︵疵︶をかふ︵被︶るものとも、き︵生︶のまつはら︵松原︶にて、守護のけさむ︵見参︶にい︵入︶りて、當國一番にひきつ︵引付︶けにつ︵付︶く。鹿嶋にさ︵差︶しつか︵遣︶はすて︵手︶の物、同日巳剋に合戦をいた︵致︶し、親類野中太郎なかすゑ︵長季︶郎従藤源太すけミつ︵資光︶いたて︵痛手︶をかふ︵被︶り、の︵乗︶りむま︵馬︶二疋ゐころ︵射殺︶されし證人に、豊後國御家人はしつめ︵橋詰︶の兵衛次郎をた︵立︶つ。土佐房道戒うちし︵討死︶にの證人にハ、盛宗の御て︵手︶の人たまむら︵玉村︶の三郎盛清をた︵立︶てけさむ︵見参︶に入て、同御ひきつ︵引付︶けにつ︵付︶く。﹂ (284)^ ﹃筑前右田家文書﹄大友頼泰書下案﹁豊後國御家人右田四朗入道道円代子息彌四郎能明申今年六月八日蒙古合戦刻、自身并下人被疵由事、申状如此、彼輩防戦之振舞、發向之戦場、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五一四号︶ (285)^ ab﹃福田文書﹄平国澄起請文写﹁以去年六月八日押寄于志賀嶋、抽合戦之忠、国澄被二疵候之時、兼重子息兼光類船令致合戦候之刻、下人云、被疵子細云、被射折弓子細如申状無相違候、﹂︵外山幹夫﹃中世九州社会の研究﹄付録 吉川弘文館 1986年 335頁︶ (286)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄絵十一は志賀島の戦いで負傷した竹崎季長が同じく負傷した河野通有を見舞う場面である。このことから通有が負傷したのは志賀島の戦いであったことがわかる。佐藤 鉄太郎﹃蒙古襲来絵詞と竹崎季長﹄櫂歌書房 1994年 171-177頁 (287)^ ﹃高麗史﹄巻一百四 列伝十七 金方慶﹁軍中又大疫、死者三千餘﹂ (288)^ abcd郭預﹃感渡海﹄﹁扶桑之海遠不極。萬里蒼蒼接天色。有夷生寄海中央。水道纔通變難測。聖明本自置度外。邊將貪功謀欲得。受命東征自往年。東南師期在六月。千艘駕浪會一岐。十丈風帆檣欲折。相望渉夏不交鋒。辛苦何須爲君説。炎氣瘴霧熏著人。滿海浮屍冤氣結。淫舒虧盈潮落生。九月︵七月︶已當三十日。是時八極顚風來。撃碎夢衝何太疾。蒼皇誰借千金壺。枉教壯士探蚊室。哀哉十萬江南人。攀依絶嶼赤身立。如今恨骨與山高。永夜羈魂向天泣。當時將帥若生還。念此能無增鬱悒。壯哉萬古烏江上。恥復東歸棄功業。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之四63頁︶ (289)^ ab﹃金周鼎墓誌銘﹄﹁辛巳、以右翼萬戸征□、軍中多疾□不能相恤、公□軍以公力□卒□保護多護全□、又因大風船艦大敗、人物湮流於□洋者□、公□見□而載出所全活亦四百餘人、士卒由是益附還。﹂︵﹃第5版 高麗墓誌銘集成﹄翰林大学校出版部 2012年1月5日 402頁︶ (290)^ ab﹃金方慶墓誌銘﹄﹁帝、授中奉大夫、管高麗軍都元帥。辛巳夏、又入日本。南宋軍後期三月、因以淹留、腐船而疫興、上國群師毎誘以還軍、公力爭不可累戰、而還。﹂︵﹃第5版 高麗墓誌銘集成﹄翰林大学校出版部 2012年1月5日 407頁︶ (291)^ ab﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁今年︵至元十八年︶三月、有日本船爲風水漂至者、令其水工畫地圖、因見近太宰府西有平戸島者、周圍皆水、可屯軍船、此島非其所防、若徑往據此島、使人乘船往一岐、呼忻都茶丘來會、進討爲利、帝曰、此閒不悉彼中事宜、阿剌罕輩必知、﹂ (292)^ ﹃元史﹄巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕﹁十八年、召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事、統蒙古軍四十萬征日本、行次慶元、卒于軍中、﹂ (293)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁︵至元十八年︶六月、阿剌罕以病不能行、命阿塔海代總軍事、﹂ (294)^ 許有壬撰﹃至正集﹄巻第四十五 碑志二 勅賜推誠宣力定遠佐運功臣太師開府儀同三司上桂國曹南忠宣王神道碑銘并序﹁十八年、入覲賜王帯弓矢、進光禄大夫中書省左丞相、行中書省事、統帥四十餘万征日本、次明州而薨、﹂ (295)^ 陸文圭撰﹃墻東類稿﹄故武徳将軍呉侯墓志銘﹁十八年、汎海征日本、授宣武將軍、壽春副萬戸、先鋒。抵島上、颶風驟起、眾散而歸。﹂ (296)^ 呉澄撰﹃呉文正集﹄巻六十六 有元懐遠大将軍処州万戸府副万戸邢侯墓碑﹁軍随日本行中書省官至耽羅山、抵倭國界、領軍船守平戸島、﹂ (297)^ abc﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王八年六月己丑︵一日︶の条﹁蠻軍把總沈聰等六人、自白本逃來言、本明州人、至元十八年六月十八日、従吉剌歹萬戸上船至日本、値悪風船敗、衆軍十三四萬、同栖一山、十月初八日、日本軍至、我軍飢不能戰、皆降日本、擇留工匠及知田者、餘皆殺之、王遣上將軍印侯郎將柳庇、押聰等送干元。/︵八月︶甲午︵九日︶、蠻軍五人、自日本逃來﹂ (298)^ 広橋兼仲﹃勘仲記﹄弘安四年六月廿四日条﹁自宰府飛脚到來、宋朝船三百餘隻、着對馬嶋云々、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2﹄八木書店 2008年5月 235頁︶ (299)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄六月二十七日条﹁異國又襲來、鎮西合戦之由、早馬先□…﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (300)^ abcdefg﹃元史﹄巻一百六十五 列傳第五十二 張禧﹁十七年、加鎭國上將軍、都元帥、時朝廷議征日本、禧請行、即日拜行中書省平章政事、與右丞范文虎、左丞李庭同率舟帥、泛海東征、至日本、禧即捨舟、築壘平湖島、約束戰艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸撃、八月、颶風大作、文虎、庭戰艦悉壞、禧所部獨完、文虎等議還、禧曰、士卒溺死者半、其脱死者、皆壯士也、曷若乘其無回顧心、因粮於敵以進戰、文虎等不從、曰、還朝問罪、我輩當之、公不與也、禧乃分船與之、時平湖島屯兵四千、乏舟、禧曰、我安忍棄之、遂悉棄舟中所有馬七十匹、以濟其還、至京師、文虎等皆獲罪、禧獨免、﹂ (301)^ ﹃歴代鎮西要略﹄外山幹夫 2008, p. 70 (302)^ ﹃薩摩比志島文書﹄比志島時範軍忠状案﹁件條、去年六月廿九日蒙古人之賊船數千余艘襲來壹岐嶋時、時範相具親類河田右衛門尉盛資、渡向彼嶋令防禦事、大炊亮殿御證状分明也、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号︶ (303)^ ﹃薩摩比志島文書﹄島津長久證状﹁當國御家人比志嶋五郎次郎時範令申□戦之間事、去年六月廿九日五郎次郎幷親類河田右衛門尉盛資相共、罷乗長久之乗船、渡壹岐嶋候事實正候、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号︶ (304)^ ﹃山代文書﹄肥前国守護北条時定書下﹁肥前國御家人山代又三郎栄申壹岐嶋合戦證人事、申状如此、子細見状、任見知實正、載起請文之詞、可被注申候、仍執達如件、弘安五年九月廿五日 平︵北条時定︶︵花押︶ 船原三郎殿 橘薩摩河上又次郎殿﹂︵瀬野 精一郎編集﹃松浦党関係史料集︿第1﹀﹄続群書類従完成会 1996年 百四十三号︶ (305)^ ﹃龍造寺系図﹄龍造寺季時伝﹁弘安中蒙古襲来時、季時合戰壱岐島瀬戸浦、顕高名討死﹂︵﹃大宰府・太宰府天満宮史料﹄第8巻 太宰府町︵福岡県︶1972年︶ (306)^ ﹃肥前龍造寺文書﹄肥前守護北条時定書状﹁去年異賊襲來時、七月二日、於壹岐嶋瀬戸浦令合戦之由事、申状幷證人起請文令被見畢、可令注進此由於関東候、謹言、弘安五年九月九日 時定︵花押︶ 龍造寺小三郎左衛門尉︵家清︶殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六九六号︶ (307)^ ﹃元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘﹄﹁行中書﹇省﹈賜賞有差、賜君幣帛二、軍還至一岐島、六月晦︵二十九日︶、七月二日、賊舟兩至、皆戰敗之、獲器仗無□︵算?︶﹂︵池内宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 290頁︶ (308)^ ﹃武藤少弐系図﹄﹁資時。弘安四年。與蒙古戦於壹岐島前討死。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之四19頁︶ (309)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄七月十二日条﹁異國賊船等退散之由、風聞、實説可尋記之、﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (310)^ abcd鄭思肖﹃心史﹄中興集 元韃攻日本敗北歌﹁辛巳六月半、元賊由四明下海、大船七千隻、至七月半、抵倭口白骨山、築土城駐兵対塁。晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。船僅廻四百余隻、二十万人、在白骨山上、無船渡帰、為倭人尽刎。山上素無人居、唯多巨蛇。相伝、唐東征軍士、咸隕命此山。故曰白骨山。又曰枯髏山。﹂石原 道博︵翻訳︶﹃新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝﹄︿2﹀岩波文庫 1986年 212頁 (311)^ ab﹃元敦武校尉管軍上百戸張成墓碑銘﹄﹁︵七月︶二十七日、移軍至打可島︵鷹島︶、賊舟復集、君整艦、與所部、日以繼夜、鏖戰至明、賊舟始退、﹂︵池内宏﹃元寇の新研究﹄東洋文庫 1931年 308頁︶ (312)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄七月二十一日条﹁異國賊船重襲來之由、昨日飛脚來云々、□︵事︶躰非無怖畏歟、返々驚□︵遂︶□…﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (313)^ ﹃宇都宮系図﹄﹁貞綱。弘安四年正︵五︶月。蒙古以十萬兵爲攻日本。兵船六萬艘著肥前平戸島。于時自六波羅爲大將。引率中國之勢赴筑紫。蒙古既雖聞敗亡。猶至九州。異賊襲來爲防戰之備。而歸洛。﹂︵塙保己一編﹃続群書類従﹄6下 系図部 巻第百五十二 続群書類従完成会 1957年︶ (314)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄七月六日条﹁六日、依異國警固、鎭西九ヶ國幷因幡伯耆□石見、不可濟年貢、可點定、又件國々、雖□莊園同下知之由、去夜自關東令申云々、異賊未入境、洛城欲滅亡歟、上下諸人之歎、不可有比類歟、實否猶可尋記之、異國合戰之間、當時兵粮米事、□要鎭西及因幡伯耆出雲石見國中□︵國︶□家本所一圓領得分、幷富有之□米穀令在者、可點□︵定︶□□︵申︶□︵可被︶□此旨可令申入春宮大夫□状如件、弘安四年六月廿□︵八︶日相模守□陸奧□︵守︶殿、越後左近大夫將監殿、﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (315)^ 広橋兼仲の日記﹃勘仲記﹄︵弘安四年閏七月一日条︶によると、翌閏7月1日にかけて京都でも暴風雨があったため、時期を考慮して台風であったと比定されている。広橋兼仲﹃勘仲記﹄弘安四年閏七月一日条﹁一日、甲子、雨降、參祖母禪尼、入夜暴風大雨如沃如叩、終夜不休、匪直也事也、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2﹄八木書店 2008年5月 235頁︶ (316)^ 気象庁. “台風の平年値”. 2013年6月27日閲覧。 (317)^ ﹃癸辛雑識-続集下﹄﹁至大︵元︶十八年、大軍征日本。船軍已至竹島、與其大宰府甚邇。方號令翌日分路以入。夜半忽大風暴作、諸船皆撃撞而碎、四千餘舟所存二百而巳。全軍十五萬人、歸者不能五之一、凡棄糧五十萬石、衣甲器械稱是。是夕之風、木大數圍者皆拔、或中折。葢天意也。﹂︵周密撰/呉企明点校/﹃癸辛雑識﹄唐宋史料筆記叢刊 中華書局 1997年 191頁︶ (318)^ ﹃元史﹄巻一百六十六 列傳第五十三 楚鼎﹁十八年、東征日本、鼎率千餘人、從左丞范文虎、渡海、大風忽至、舟壞、鼎挾破舟板、漂流三晝夜、至一山、會文虎船、因得達高麗之金州合浦海、屯駐散兵、亦漂泛來集、遂領之以歸、﹂ (319)^ 歴史学者・池内功によると、モンゴル軍は遠征に際して、家族等を同伴するのが通例であったが、弘安の役の頃になると、妻を同伴することができるのは、将校に限られるなど変化していた。(池内功 2015, p. 40) (320)^ 蘇天爵撰﹃滋溪文稿﹄巻二十一 碑誌十五 元故贈長葛県君張氏墓誌銘﹁及征日本、大風之夕、公方以王事爲重、奚恤其家、而縣君獨在舟中、身綰印章、未嘗舍去。及舟壞、乃抱折墻得達于岸。之豈尋常者所能及哉。﹂ (321)^ ﹃元史﹄巻一百三十一 列傳第十八 嚢加歹﹁召爲都元帥、管領通事軍馬、東征日本、未至而還、﹂ (322)^ ﹃元史﹄巻一百三十三 列傳第二十 也速䚟兒﹁江南平、録功進懷遠大將軍、管軍萬戸、領江淮戰艦數百艘、東征日本、全軍而還、有旨、特賜養老一百戸、衣服、弓矢、鞍轡、有加、﹂ (323)^ ﹃高麗史﹄によるとイェスデル︵也速䚟児︶は朝鮮半島の東寧府に赴いてから、日本征討に加わったとあることから東路軍の将であることが分かる。﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王六年九月丁卯︵二十九日︶の条﹁丁卯、元遣也速達崔仁著、以水韃靼之處開元北京遼陽路者、移置東寧府、使之将赴征東。﹂ (324)^ abcd﹃高麗史﹄巻二十九 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年︵八月︶丁未︵十九日︶の条﹁忠烈王十八年 丁未、世子謁帝于紫檀殿、鄭可臣柳庇等随入、有丁右丞者奏、江南戦船、大則大矣、偶觸則毀、此前所以失利也、如使高麗造船、而再征之、日本可取、帝問征日本事、洪君祥進言曰、軍事至大、宣先遣使問諸高麗、然後行之、帝然之。﹂ (325)^ 王惲﹃秋澗先生大全文集﹄巻四十 汎海小録﹁大小戦艦多為波浪揃触而砕、唯句麗︵高麗︶船堅得全、遂班師西運、﹂︵川越泰博 1975, p. 28︶ (326)^ 文化庁﹃発掘された日本列島2012 新発見考古速報﹄朝日新聞出版 2012年55頁 (327)^ ab﹁たかしまのにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候をはらいのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候、と申に…﹂︵﹃蒙古襲来絵詞﹄後巻・詞11・第9紙‥大倉隆二 ﹃﹁蒙古襲来絵詞﹂を読む﹄海鳥社、2007年 145頁︶ (328)^ 虞集撰﹃道園類稿﹄巻四十九 趙夫人墓誌銘﹁夫人姓趙氏浚儀人、故宋宗室秦邸諸孫弋陽縣主簿、其之女也、諱時妙字妙眞、﹂ (329)^ ab虞集撰﹃道園類稿﹄巻四十九 趙夫人墓誌銘﹁征倭之助、先將軍以其軍陸還、夫人以舟別行、颶風駭浪莫知東西、有青鳥導其前、舟人隨之、七日、出澉浦三於東呉。﹂ (330)^ ﹃蒙古襲来絵詞﹄詞十一﹁閏七月五日、御くりや︵御厨︶のかいしやうかつせん︵海上合戦︶は、とりのとき︵酉の刻︶にをしむかて、かつせん︵合戦︶をいたす﹂ (331)^ ﹃筑後五條文書﹄少貳景資書状写﹁筑後国大小屋地頭香西小太郎度景申、□弘安四年閏七月五日於肥前国御厨子︵千カ︶崎海上、蒙古賊船三艘内、追懸大船致合戦、乗移敵船、度景令分取、舎弟廣度異賊入海中、親類□被□被疵、郎従或令打死、或負手、令分取候子細、致見知候由、所立申證人也、﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第二十巻 東京堂出版 一五一五〇号︶ (332)^ ab﹃肥前武雄神社文書﹄黒尾社大宮司藤原経門申状﹁肥前国御家人黒尾社大宮司藤原資門謹言上 欲早且依合戦忠節、且任傍例、預勲功賞去弘安四年遺賊合戦事、右、遺賊襲来之時、於千崎息乗移于賊船、資門乍被疵、生虜一人分取一人了、将又攻上鷹嶋棟原、致合戦忠之刻、生慮二人了、此等子細、於鎮西談議所、被経其沙汰、相尋証人等、被注進之処、相漏平均恩賞之条、愁吟之至、何事如之哉、且如傍例者、到越訴之輩、面々蒙其賞了、且資門自身被疵之条、宰府注進分明也、争可相漏平均軍賞哉、如承及者、防戦警固之輩、皆以蒙軍賞了、何自身手負資門不預忠賞、空送年月之条、尤可有御哀憐哉、所詮於所々戦場、或自身被疵、或分取生慮之条、証人等状幷宰府注進分明之上者、依合戦忠節、任傍例欲預平均軍賞、仍恐々言上如件、永仁四年八月 日﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第二十五巻 東京堂出版 一九一三〇号︶ (333)^ 服部英雄﹃蒙古襲来﹄山川出版社、2014年。ISBN 978-4-634-15061-4。 (334)^ 服部英雄﹃蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実﹄中央公論新社︿中公新書﹀、2017年11月。ISBN 978-4-12-102461-9。 (335)^ “蒙古襲来と神風 -服部英雄 著|電子書籍|中央公論新社”. 2023年12月2日閲覧。 (336)^ 佐藤鉄太郎 2003, p. 71. (337)^ ﹃豊後都甲文書﹄大神惟親軍忠状﹁豊後国御家人都甲左衛門五郎大神惟親法師法名寂妙謹言上、欲早任傍例、預御注進、蒙抽賞、去弘安四年後七月七日、肥前国鷹嶋蒙古合戦事、右、蒙古凶徒、着岸肥前国鷹嶋之間、馳向当国星鹿、彼七日、寂妙渡当嶋、於東浜、依致合戦忠、寂妙子息四郎惟遠、令分取畢、其上、郎従三郎二郎重遠被疵旗差下人一人弥六末守被疵畢、此次第、同国志手筑後房円範、上総三郎入道所令見知也、早預御注進、為蒙抽賞、恐々言 上如件、弘安九年三月 日 ﹁︵自著︶沙弥寂妙︵花押︶﹂﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第二十一巻 東京堂出版 一五八六七号︶ (338)^ ﹃薩摩比志島文書﹄比志島時範軍忠状案﹁次月七月七日鷹嶋合戦之時、自陸地馳向事、爰時範依合戦之忠勤、爲預御裁許、粗言上如件、弘安五年二月 日﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四五八三号︶ (339)^ ﹃薩摩比志島文書﹄島津長久證状﹁同閏七月七日鷹嶋合戦之時、五郎次郎自陸地馳向候之条、令見知候了、若此條僞申候者、日本國中大少神罸可罷蒙長久之身候、恐惶謹言、弘安五年四月十五日 大炊助長久﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四六一一号︶ (340)^ ﹃江上系図﹄﹁西牟田彌次郎永家。弘安四年。大元大將督六万艘十万人。寇鎭西。此時永家戰于松浦之鷹島抽功。於是爲之賞。肥前國神崎郡中數箇。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之四30頁︶ (341)^ ﹃福田文書﹄丹治重茂起請文写﹁以去年後七月七日押寄于鷹嶋之賊船、抽合戦之忠候之時、兼重同押寄于彼所致合戦、令焼払賊船候之条、令見知候畢、﹂︵外山幹夫﹃中世九州社会の研究﹄付録 吉川弘文館 1986年 336頁︶ (342)^ 角川日本地名大辞典編纂委員会編纂﹃角川日本地名大辞典 第42巻 長崎県﹄1987年 588頁 (343)^ 山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之四40頁 (344)^ ab﹃諸家文書纂野上文書﹄六波羅御教書﹁︵前略︶一 異国降人等事、各令預置給分、沙汰未断之間、津泊往来船、不謂昼夜不論大小、毎度加検見、如然之輩、輙浮海上、不可出国、云海人漁船、云陸地分、同可有其用意矣、︵後略︶弘安四年九月十六日 左近将監︵北条時国︶︵花押︶ 野上太郎殿﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四五六号︶ (345)^ ab﹃大般若波羅蜜多経﹄巻第四百九十八﹁大唐国江西路瑞州軍人何三於 弘安九年四月上旬日補整﹂﹁元寇捕虜が大般若経修正、﹁重用示す﹂﹂﹃読売新聞﹄、2017年6月21日閲覧。 (346)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄閏七月十二日条﹁十二日、去夜鎮西飛脚到来云々、蒙古賊皆以滅亡、所残二千餘人、爲降人由、申上云々、冥助之至、不能□□︵左右︶事也、﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (347)^ 広橋兼仲﹃勘仲記﹄弘安四年閏七月十四日条﹁丁丑、自夜雨降、參殿下申条々事、參近衛殿、自宰府飛脚到來、去朔日大風︵動波︶、賊船多漂没云々、誅戮并生虜数千人、壹岐、對馬雖一艘無之、所下居異賊多以殞命、或又被生虜、今度事神鑑炳焉之至也、天下之大慶何事可過之乎、匪直也事也、雖末代猶無止事也、弥可尊崇神明佛陀者歟、﹂︵高橋秀樹、櫻井彦、中込律子校訂﹃史料纂集 古記録編 第157回配本 勘仲記2﹄八木書店 2008年5月 257頁︶ (348)^ ﹃弘安四年日記抄︵壬生官務家日記抄︶﹄閏七月廿一日条﹁自関東差遣鎮西使者両人、今日上洛、異國賊、無残誅了之由、申上云々、実説猶可尋之、﹂︵国民精神文化研究所編﹃元寇史料集﹄第二巻 國民精神文化研究所 1935年︶ (349)^ 月村辰雄・久保田勝一本文翻訳、フランソワ・アヴリル、マリー=テレーズ・グセ、小林典子・駒田亜紀子・黒岩三恵解説翻訳﹃全訳マルコ・ポーロ東方見聞録﹃驚異の書﹄fr.2810写本﹄岩波書店 2002年 147〜148頁 (350)^ ﹃兼仲卿記弘安五年七月・九月巻裏文書﹄某事書﹁爲異國征伐、大和國寺僧國民被召之間、可蒙免許事、副衆徒申状︵後略︶﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四六〇号︶ (351)^ ﹃東大寺文書﹄聖守書状﹁可被征伐高麗之由、自關東其沙汰候歟、少貳乎大友乎爲大将軍、三ヶ國御家人、悉被催立、幷大和・山城惡徒五十六人、今月中可向鎭西之由、其沙汰候、︵後略︶﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第十九巻 東京堂出版 一四四二二号︶ (352)^ ﹃福岡県史﹄第一巻下冊 福岡県 1962年63頁 (353)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王七年十月己亥︵七日︶の条﹁元勑、於本國金州等處、置鎭邊萬戸府、以印侯爲佋勇大將軍鎭邊萬戸、賜虎符及印、張舜龍爲宣武將軍鎭邊管軍總管。﹂ (354)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年正月丙寅の条﹁丙寅、罷征東行中書省。﹂ (355)^ ab﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年七月壬戌の条﹁高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。﹂ (356)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月壬申の条﹁敕平灤、高麗、耽羅及揚州、隆興、泉州、共造大小船、三千艘。﹂ (357)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年五月庚辰の条﹁庚辰、議於平灤造船、發軍民合九千人、令探馬赤伯要帶領之、伐木於山、及取於寺觀墳墓、官酬其直、仍命桒哥遣人、督之。﹂ (358)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年三月己未の条﹁御史臺臣言、平灤造船、五臺山造寺伐木、及南城建新寺、凡役四萬人、乞罷之、詔伐木建寺、即罷之、造船一事、其與省臣議。﹂ (359)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年七月丙辰の条﹁諭阿塔海、所造征日本船、宜少緩之、所拘商船、其悉給還。﹂ (360)^ ab﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁二十年、命阿塔海爲日本省丞相、與徹里帖木兒右丞、劉二拔都兒左丞、募兵造舟、欲復征日本。淮西宣慰使昂吉兒上言民勞、乞寢兵。﹂ (361)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年五月甲戌の条﹁甲戌、發征日本重囚、往占城、緬國等處、從征。﹂ (362)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年四月壬辰の条﹁壬辰、阿塔海求軍官習舟楫者、同征日本、命元帥張林、招討張瑄、總管朱清等行。﹂ (363)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年正月壬申の条﹁命右丞闍里帖木兒及萬戸三十五人、蒙古軍習舟師者二千人、探馬赤萬人、習水戰者五百人征日本。﹂ (364)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年三月卯朔︵一日︶の条﹁中郎將柳庇還自元、言、帝徴江南軍、將以八月東征日本。﹂ (365)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月庚申の条﹁建宣慰司獲倭國諜者、有旨、留之。﹂ (366)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元十九年九月戊寅の条﹁戊寅、給新附軍賈祐衣糧。祐言、爲日本國焦元帥婿、知江南造船、遣其來候動靜、軍馬壓境、愿先降附。﹂ (367)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年六月戊子の条﹁戊子、以征日本、民間騷動、盜賊竊發、忽都帖木兒、忙古帶、乞益兵禦寇、詔以興國江州軍、付之。﹂ (368)^ ﹃元史﹄巻一百七十 列傳第五十七 申屠致遠﹁時寇盜竊發、加之造征日本戰船、遠近騷然、致遠設施有方、衆賴以安。﹂ (369)^ ﹃元史﹄巻一百七十三 列傳第六十 崔彧﹁又言、江南盜賊、相挻而起、凡二百餘所、皆由拘刷水手、與造海船、民不聊生、激而成變。日本之役、宜姑止之。又江西四省軍需、宜量民力、勿強以土産所無、凡給物價及民者、必以實、召募水手、當從其所欲、伺民氣稍蘇、我力粗備、三二年后、東征未晩。世祖以爲不切、曰、爾之所言如射然、挽弓雖可觀、發矢則非是矣。﹂ (370)^ ﹃高麗史﹄巻二十九 世家二十九 忠烈王二 忠烈王九年五月己卯︵二十六日︶の条﹁鄭仁卿等還自元言、帝寢東征之議、王命罷修艦調兵等事。﹂ (371)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年八月丁未の条﹁浙西道宣慰使史弼言、頃以征日本船五百艘、科諸民間、民病之、宜取阿八赤所有船、修理、以付阿塔海、庶寛民力、并給鈔於沿海募水手。從之。﹂ (372)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年九月辛未の条﹁辛未、以歳登、開諸路酒禁、廣東盜起、遣兵萬人討之。﹂ (373)^ ﹃元史﹄巻十二 本紀第十二 世祖九 至元二十年十月庚子の条﹁建寧路管軍總管黄華叛、衆幾十萬、號頭陀軍、僞稱宋祥興五年、犯崇安、浦城等縣、圍建寧府。招卜憐吉帶、史弼等將兵二萬二千人討平之。﹂ (374)^ ﹃元史﹄巻一百六十二 列傳第四十九 劉国傑﹁會黄華反建寧、乃命國傑以征東兵會江淮参政伯顔等討之。﹂ (375)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月辛巳の条﹁罷高麗造征日本船。﹂ (376)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年二月丁未の条﹁命阿塔海、發兵万五千人、船二百艘、助征占城、﹂ (377)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年五月壬子の条﹁拘征東省印。﹂ (378)^ ﹃薩摩八田家文書﹄関東御教書﹁鎭西誓固事、蒙古異賊明年春可襲來云々、早向役所、嚴密可致用心、且守護御家人以下軍兵等、忩從守護所命、可致防戰忠、守護人亦不論親疎、注進忠否、可申行賞罰也、於背此仰輩者、永可被重科、次本所一圓地聞事、可催促之間︵旨︶、先日被成御教書畢、早存此旨、可令相觸薩摩國中之状、依仰執達如件、正︵弘︶安六年十二月廿一日 駿河守︵北条重時︶在判 相模守︵北条時宗︶在判﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第二十八巻 東京堂出版 二一三〇五号︶ (379)^ 西園寺公衡﹃公衡公記﹄弘安六年七月二日条﹁︵前略︶但異國事、近日其聞候、今年秋可襲來之由、令申云々、就中、文永牒状ニ、以至元廿一年、發大軍可襲來之由、載之候歟、明年當其年限候條、防御候計外、不可有他事候、︵後略︶﹂︵竹内理三編﹃鎌倉遺文﹄古文書編 第二十巻 東京堂出版 一四八九五号︶ (380)^ ab﹃善隣国宝記﹄巻上﹁南海觀音實陀禪寺住持如智海印接待庵記曰、癸未︵至元二十年︶八月、欽奉聖旨、同提擧王君治奉使和國、宿留海上八箇月、過黑水洋遭颶風云々、半月後、忽飄至寺山之外、幸不葬魚腹、大士力也、甲申︵至元二十一年︶四月、又奉聖旨、同︵洪西行省︶参︵知︶政︵事︶王積翁、再使倭國、五月十三日、開帆於鄞︵慶元︶、住耽羅十三日、住高麗合浦二十五日、七月十四日、舟次倭山對馬島。云々、危哉此時也、非大士孰生之、云々、至元二十八年、歳次辛卯六月日、宣差日本國奉使前住寶︵補︶陀五樂翁愚溪如智記﹂ (381)^ ﹃善隣国宝記﹄巻上﹁又記宣諭日本國詔文曰、上天眷命皇帝、聖旨諭日本國王、向者彼先遣使入覲、朕亦命使相報、已有定言、想置於汝心而不忘也、頃因信使執而不返、我是以有舟師進問之役、古者兵交、使在其間、彼轍不交一語、而固拒王師、據彼已嘗抗敵、於理不宣遣使、茲有補陀禪寺長老如智等陳奏、若復興師致討多害生靈、彼中亦有佛教文學之化、豈不知大小強弱之理、如今臣等賚︵齎︶聖旨宣諭、則必多救生靈也、彼當自省懇心、歸附准奉、今遣長老如智、堤擧王君治、奉詔往彼、夫和好之外、無餘善焉、戰爭之外、無餘惡焉、果能審此歸順、即同去使來朝、所以諭乎彼者、朕其禍福之變、天命識之故、詔示、想宣知悉﹂ (382)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十一年十月月甲戌の条﹁甲戌、詔諭行中書省、凡征日本船及長年篙手、并官給鈔增價募之。﹂ (383)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年四月丙午の条﹁丙午、以征日本船運粮江淮及教軍水戰。﹂ (384)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年六月庚戌の条﹁六月庚戌、命女直、水達達、造船二百艘及造征日本迎風船。﹂ (385)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月癸丑の条﹁癸丑、立征東行省、以阿塔海為左丞相、劉國傑、陳巌并左丞、洪茶丘右丞、征日本。﹂ (386)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条﹁仍敕習泛海者、募水工至千人者爲千戸、百人爲百戸。﹂ (387)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月丙申の条﹁丙申、赦囚徒、黥其面、及招宋時販私鹽軍習海道者爲水工、以征日本。﹂ (388)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月癸巳の条﹁癸巳、敕漕江淮米百萬石、泛海貯於高麗之合浦、仍令東京及高麗各貯米十萬石、備征日本。諸軍期於明年三月以次而發、八月會於合浦。﹂ (389)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十一月戊寅の条﹁戊寅、遣使告高麗發兵萬人、船六百五十艘、助征日本、仍令於近地多造船。﹂ (390)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十二月己亥の条﹁增阿塔海征日本戰士萬人、回回砲手五十人。己亥、從樞密院請、嚴立軍籍條例、選壯士及有力家充軍。敕樞密院、向以征日本故、遣五衞軍還家治裝、今悉選壯士、以正月一日到京師。江淮行省以戰船千艘習水戰江中。﹂ (391)^ ﹃元史﹄巻十四 本紀第十四 世祖十一 至元二十三年正月甲戌の条﹁甲戌、帝以日本孤遠島夷、重困民力、罷征日本、﹂ (392)^ ﹃元史﹄巻一百六十八 列傳第五十五 劉宣﹁連年日本之役、百姓愁戚、官府擾攘、今春停罷、江浙軍民、歡聲如雷。﹂ (393)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁二十三年、帝曰、日本未嘗相侵、今交趾犯邊。宜置日本、專事交趾。﹂ (394)^ 鄭思肖﹃心史・雑文・大義略叙﹄ ﹁辛巳六月、韃兵由明州渉海、至倭口、遭大風雨作、人与船倶陥、又大敗而回。倭遣使責占城不戦而附韃。占城有悟意、始背元韃。﹂ (395)^ abc﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁二十一年、又以其俗尚佛、遣王積翁与補陀僧如智往使。舟中有不願行者、共謀殺積翁、不果至。﹂ (396)^ ﹃元史﹄巻十三 本紀第十三 世祖十 至元二十二年十月丁卯の条﹁塔海弟六十言、今百姓及諸投下民、倶令造船於女直、而女直又復發爲軍、工役繁甚。乃顔、勝納合兒兩投下鷹坊、採金等戸獨不調。有旨遣使發其民。﹂ (397)^ 海老沢哲雄 1972, p. 43-44. (398)^ ﹃元史﹄巻二百九 列傳第九十六 外夷二 安南國﹁二十四年正月、發新附軍千人從阿八赤討安南。又詔發江淮、江西、湖廣三省蒙古、漢、券軍七萬人、船五百艘、雲南兵六千人、海外四州黎兵萬五千、海道運粮萬戸張文虎、費拱辰、陶大明運粮十七萬石、分道以進。﹂ (399)^ ﹃北条九代記﹄﹁正應五年七月、附商舶歸朝。大元燕公南獻牒状。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之五54頁︶ (400)^ ﹃元史﹄巻十七 本紀第十七 世祖十四 至元二十九年六月己巳の条﹁己巳、日本來互市。風壞三舟。惟一舟達慶元路。﹂ (401)^ ﹃元史﹄巻一百七十三 列傳第六十 燕公楠﹁二十七年、拜江淮行中書省參知政事。﹂ (402)^ ﹃高麗史﹄巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年十月庚寅︵三日︶の条﹁冬十月庚寅、以太僕尹金有成、爲護送日本人、供驛署令郭鱗、爲書状官、﹂ (403)^ ﹃北条九代記﹄﹁正應五年十月、高麗使金有成等到着。翌年被召下關東訖。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之五57頁︶ (404)^ ﹃高麗史﹄巻一百六 列伝十九 金有成﹁後日本僧鉗公來言、有成丁未七月五日病卒。﹂ (405)^ ﹃高麗史﹄巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十八年︵九月︶壬午︵二十四日︶の条﹁壬午、元遣洪君祥來、命我護送日本人還其國、君祥以帝旨、問征日本事、王對曰、臣既隣不庭之俗、庶當躬自致討、以効微勞、君祥獻馬、遂宴干香閣。﹂ (406)^ ﹃高麗史﹄巻三十 世家三十 忠烈王三 忠烈王十九年八月の条﹁八月、元遣萬戸洪波豆兒來、管造船、寶錢庫副使瞻思丁管軍糧、將復征日本也、﹂ (407)^ ab﹃高麗史﹄巻三十一 世家三十一 忠烈王四 忠烈王二十年︵正月︶癸酉︵二十二日︶の条﹁癸酉、世祖皇帝崩。/罷造戰艦、時王入朝、欲陳東征不便、且以甲戌辛巳兩年之役、濱水材木、斫伐殆盡、造艦實難、冀緩其期、會帝晏駕、洪君祥白丞相完澤、遂寢東征。﹂ (408)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁成宗大徳二年、江浙省平章政事也速答兒乞用兵日本。帝曰、今非其時、朕徐思之。﹂ (409)^ ﹃元史﹄巻二百八 列傳第九十五 外夷一 日本國﹁︵成宗大徳︶三年、遣僧寧一山者、加妙慈弘濟大師附商舶往使日本。而日本人竟不至。﹂ (410)^ ﹃妙慈弘済大師行記﹄﹁飃簸而著于博多。本朝正安元也。舶主以書曰元帥府。府議曰、敵國命使不活矣。或曰、使命不活。然奈僧儀何。先編置豆州修禪寺。﹂︵山田安栄編﹃伏敵篇﹄1891年 巻之六3頁︶ (411)^ ﹃元史﹄巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求﹁世祖至元二十八年九月、海船副萬戶楊祥請以六千軍往降之、不聽命則遂伐之、朝廷從其請。﹂ (412)^ ﹃元史﹄巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 瑠求﹁二十九年三月二十九日、自汀路尾澳舟行、至是日巳時、海洋中正東望見有山長而低者、約去五十里。祥稱是瑠求國、鑒稱不知的否。祥乘小舟至低山下、以其人衆、不親上、令軍官劉閏等二百餘人以小舟十一艘、載軍器、領三嶼人陳煇者登岸。岸上人衆不曉三嶼人語、爲其殺死者三人、遂還。﹂ (413)^ abc海津一郎﹃神風と悪党の世紀﹄講談社現代新書 1995年19頁 (414)^ abc王勇﹃中国史の中の日本像﹄人間選書 2000年 第六章第二節 (415)^ ab﹃元史﹄巻十七 本紀第十七 世祖十四 至元二十九年十月戊子朔の条﹁日本舟至四明、求互市、舟中甲仗皆具、恐有異図、詔立都元帥府、令哈剌䚟将之、以防海道。﹂ (416)^ ﹃元史﹄巻二十一 本紀第二十一 成宗四 大徳八年夏四月丙戌の条﹁夏四月丙戌、置千戸所、戍定海、以防歳至倭船。﹂ (417)^ ﹃元史﹄巻九十四 志第四十三 食貨二﹁︵大徳︶七年、以禁商下海罷之。﹂ (418)^ 太田弘毅 1988, p. 20. (419)^ ab鄭思肖﹃心史﹄中興集 元韃攻日本敗北歌﹁倭人狠不懼死、十人遇百人亦戦、不勝倶死。不戦死帰、亦為倭王主所殺。倭婦甚烈不可犯。幼歳取犀角、刔小珠種額上。善水不溺、倭刀極利。地高嶮難入、可為戦守計。﹂石原 道博︵翻訳︶﹃新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝﹄︿2﹀岩波文庫 1986年 213頁 (420)^ 王勇﹃中国史の中の日本像﹄人間選書 2000年 第六章第三節 (421)^ 呉萊﹃隣交徴書﹄二篇巻一 論倭﹁今之倭奴、非昔之倭奴也。昔雖到弱、猶敢拒中国之兵。況今之恃険、且十此者乎。郷自慶元、航海而来、艨艟数千、戈矛剣戟、莫不畢具。銛鋒淬鍔、天下無利鉄。出其重貨、公然貿易、即不満所欲、燔炳城郭、抄掠居民、海道之兵、猝無以応、︵中略︶喪士気弱国体、莫大於此。然取其地不能以益国、掠其人不可以強兵、﹂石原 道博︵翻訳︶﹃新訂 旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝―中国正史日本伝﹄︿2﹀岩波文庫、1986年、216頁 (422)^ 鄭舜功﹃日本一鑑﹄窮河話海巻六﹁備按、中国征伐四夷、自古有之、然而征伐夷、海外之夷倭、不嘗有也、抑伐倭者考、自呉大帝・晋慕容廆・元忽必烈而巳、︵中略︶抑呉・晋・元勒兵漲海之外、得其民安焉、用之喪兵足以為恥、﹂︵太田弘毅 2006, p. 20︶ (423)^ ab太田弘毅 2006, p. 19. (424)^ ﹃明史﹄巻三百二十二 外國三 日本國﹁十四年、復來貢。帝再却之、命禮官移書責其王、并責其征夷將軍、示以欲征之意。良懷上言、臣聞三皇立極、五帝禪宗。惟中華之有主、豈夷狄而無君。乾坤浩蕩、非一主之獨權。宇宙寛洪、作諸邦以分守。蓋天下者、乃天下之天下、非一人之天下也。臣居遠弱之倭、褊小之國、城池不滿六十、封疆不足三千、尚存知足之心。陛下作中華之主、爲萬乘之君。城池數千餘、封疆百萬里、猶有不足之心、常起滅絶之意。夫天發殺機、移星換宿。地發殺機、龍蛇走陸。人發殺機、天地反覆。昔堯・舜有德、四海來賓、湯・武施仁、八方奉貢。臣聞天朝有與戰之策、小邦亦有禦敵之圖。論文有孔・孟、道德之文章。論武有孫・呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將、起精鋭之師、來侵臣境。水澤之地、山海之洲、自有其備。豈肯跪途而奉之乎。順之未必其生。逆之未必其死。相逢賀蘭山前、聊以博戲。臣何懼哉。倘君勝臣負、且滿上國之意。設臣勝君負、反作小邦之羞。自古講和爲上、罷戰爲強。免生靈之塗炭、拯黎庶之艱辛。特遣使臣、敬叩丹陛、惟上國圖之。帝得表慍甚、終鑑蒙古之轍、不加兵也。﹂ (425)^ 野村育世﹁中世における後家相続﹂﹃家族史としての女院論﹄校倉書房、2006年、P37-59. (426)^ ab﹃概説日本思想史﹄吉原健雄 (427)^ ab佐藤鉄太郎 2003, p. 63. (428)^ 山形欣哉 2003, p. 14. (429)^ 日朝は﹁蒙古詞事﹂の文永の役に関する説明において、同時期の日蓮の書簡や﹃八幡愚童訓﹄等から引用しているが、﹁或記﹂とのみ書いており、具体的な典拠名を述べていない。また、現在確認出来る﹁日朝上人典籍目録﹂等の記録に見られる日朝の所持本には﹃八幡愚童訓﹄は含まれていない。しかし、日朝が引用する﹃八幡愚童訓﹄は、現在﹃安国論私抄﹄も蔵されている身延文庫所蔵の日意が明応3年︵1494年︶に書写した﹃八幡愚童訓﹄と文体等が多く一致しており、現在は逸書となっている日意写本の原本から参照した可能性が考えられる。また、日蓮自身は文永・弘安の役についての情報を日蓮に帰依していた信者やその類縁となっていた幕府関係者等から入手していたと推測されている。この﹁蒙古詞事﹂にある﹁或記﹂も、日朝が﹃安国論私抄﹄を著した文明11年︵1478年︶頃には身延山で参照し得た、現存の諸資料中の情報では確認出来ない資料のひとつと考えられる。伊藤英人﹁身延文庫蔵﹃朝師御書見聞 安国論私抄﹄の﹁蒙古詞事﹂中の朝鮮語について﹂﹃東京外国語大学論集﹄63号、 2002年、1-21頁 (430)^ ﹃高麗史﹄巻百四 列伝巻十七 金方慶伝 元宗十五年条﹁造船若依蛮様、則工費多将不及期。︵中略︶用本國船様督造﹂NDLJP:991070/125 (431)^ ﹁元寇船の底は二重構造、粗製乱造説見直しか﹂﹃読売新聞﹄、2012年10月10日閲覧。 (432)^ ﹁﹁元寇船﹂調査終了、新たに沈船探し…琉球大・池田教授﹂﹃読売新聞﹄、2012年10月15日閲覧。 (433)^ 山形欣哉﹃歴史の海を走る―中国造船技術の航跡﹄農山漁村文化協会2004年 52-54頁 (434)^ 杉山正明﹁モンゴル帝国、アジア征服の猛威︵総力特集 北条時宗と蒙古襲来︶﹂﹃歴史と旅﹄Vol.28、2001年2月号、秋田書店、30-35頁。奥富敬之﹃北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男﹄ 角川選書320、2000年、178-189頁などを参照。 (435)^ 例えば、1214年尾金朝の旧都・中都陥落と接収以前のモンゴル帝国軍の軍事行動の場合、﹁もともとモンゴルは、軍事行動を行ってきた金朝領の漢地において、一度戦勝しあるいは降伏させて占領しても、一時的に人と者を収奪すれば、あとは放置して立ち去り、長期的に領有・統治するという意思を示していなかった﹂。︵海老沢哲雄﹁モンゴルの対金朝外交﹂﹃駒澤史学﹄52号、1998年6月、p.203-204.︶ (436)^ ﹃元史﹄ 巻二百一十 列傳第九十七 外夷三 爪哇﹁至元二十九年二月、詔福建行省除史弼、亦黑迷失、高興平章政事、征爪哇。會福建、江西、湖廣三行省兵凡二萬、設左右軍都元帥府二、征行上萬戸四、發舟千艘、給粮一年、鈔四萬錠、降虎符十、金符四十、銀符百、金衣段百端、用備功賞。﹂ (437)^ 杉山正明﹃モンゴル帝国の興亡︵下︶世界経営の時代﹄講談社現代新書 1307、1996年6月20日、pp.129-135。 (438)^ 川添 2001, pp. 263–264. (439)^ 文化庁﹃発掘された日本列島2012 新発見考古速報﹄朝日新聞出版2012年57頁 (440)^ 第179回国会 質問主意書 質問第二六号 (441)^ 参議院議員秋野公造君提出長崎県松浦市鷹島沖で発見された元寇船の文化財指定及び保存の在り方に関する質問に対する答弁書 (442)^ ﹁元寇船2隻目を確認 長崎・鷹島沖の海底﹂﹃読売新聞﹄、2015年7月2日閲覧。 (443)^ ab今谷明﹁封建制の文明史観﹂︵PHP新書︶ (444)^ 今谷明はマムルーク朝軍と﹁蒙古軍﹂との戦闘として、イルハン朝の始祖フレグの時代の1260年にあった現パレスチナのアイン・ジャールートの戦い、およびアバカとマムルーク朝のカラーウーンの時代の1281年︵今谷は指摘していないが弘安の役と同年︶にダマスクスとアレッポの中間にあるヒムスでの戦闘の例を触れ、いずれにおいてもマムルーク朝軍が﹁蒙古軍﹂を破ったことを述べ、﹁エジプトのマムルーク軍団の精強さは組織︵システム︶としての完成されたものであり、さすがのモンゴルも歯が立たなかった﹂と評している︵今谷同書 68-69頁︶。今谷同書 (445)^ 今谷は、神聖ローマ帝国は1241年4月のワールシュタットの戦いで蒙古軍に敗北するが、6月のオルミュッツ城での攻防戦で蒙古軍を撤退させたと述べ、ギボンの﹃ローマ帝国興亡史﹄やドーソンの﹃蒙古史﹄︵岩波文庫版 田中粋一郎訳︶の記述を引用している︵今谷同書 58-62頁︶。しかし、今谷が引用するドーソンに依拠したこのシュテルンベルク公ヤロスラフ Jaroslaw de Sternberg とモンゴル軍によるオルミェツ城の攻防の逸話は、東洋文庫版のドーソン﹃モンゴル帝国史﹄︵第2巻︶で訳者 佐口透が訳注で﹁右のシュテルンベルクがオロモウツ (Olmütz = Olomouc) 城下でモンゴル軍を得たというのは伝説にすぎないと言われる。Vernadsky, The Mongols and Russia の注による﹂︵同書172頁︶と紹介しているように、現在、ヨーロッパの中世史研究では史実性が疑われている。ロシア史研究者ヴェルナツキー George Vernadsky :en は代表作﹃モンゴル帝国とロシア﹄ The Mongols and Russia (1958) においてバトゥのヨーロッパ遠征を述べる段の脚注において、この逸話の伝説性をチェコの歴史研究者 Václav Novotný :cs が﹃チェコ史﹄České dějiny (vol. 3, 1928) ですでに指摘し史実性について疑義を呈しているのに、近年でさえ高名な東洋学者であるドイツのシュプーラー Bertold Spuler や同じロシア中世史研究者のグレコフ Boris Grekov :en を名指しして﹁未だにこの神話がこの両人によって繰り返されている﹂と批判している (The Mongols and Russia, p.56)。 (446)^ ただし、佐藤次高は著書や論文でイクター制と封建制との問題が触れられる時は、ヨーロッパにおいてイクター制がヨーロッパの封建制と比較され﹁イスラム封建制﹂として捉えられる伝統があり、その影響を受けたアラブの研究者も含めてイスラム社会を考察する上での﹁認識の歪み﹂を生じさせて来たことを述べ、安易な同一視は避けるよう繰り返し述べているが、今谷はこれら佐藤の見解については触れていない。また、佐藤もたびたび紹介しているがイスラームの政治思想において国家システムを成り立たせている2つの重要な要素、軍事等を担当する﹁剣の人﹂と文書行政等を担当する﹁筆の人﹂という2種の職能の﹁公職﹂についての伝統的分類等についても、今谷は触れていない。︵佐藤次高﹁はしがき﹂﹃中世イスラム国家とアラブ社会﹄山川出版社、1986年 p. i-iv /佐藤次高﹁イスラームの騎士と官僚―﹁剣の人﹂と﹁筆の人﹂﹂﹃公家と武家IV官僚制と封建制の比較文明史的考察﹄︵笠谷和比古 編︶思文閣出版、2008年5月︶ (447)^ 清水和裕﹁マムルークとグラーム﹂﹃新版岩波講座 世界歴史10﹄1999年 (448)^ 今谷同書 71-73頁 (449)^ ﹃高麗史﹄元宗十三年 ︵二月︶己癸︵十日︶の条﹁惟彼日本 未蒙聖化。故發詔使 繼糴軍容 戰艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 庶幾勉盡心力 小助王師﹂﹃高麗史﹄世家巻第二十七 元宗十三年の三月己亥︵1272年3月11日︶に大元朝の中書省が発送した牒にある世子・諶︵後の忠烈王︶云の箇所 NDLJP:991068/217。 (450)^ 柳成龍 著、朴鐘鳴 訳﹃懲毖録﹄平凡社東洋文庫、1979年、40-43頁。ISBN 4582803571。 (451)^ 森平雅彦﹁駙高麗国王の成立 -元朝における高麗王の地位についての予備的考察-﹂﹃東洋学報﹄79-4、1998年3月。 (452)^ 関戸堯海﹁日蓮聖人の書簡執筆についての統計﹂﹃印度學佛教學研究﹄ 54-(1)、2005年12月、219頁 (453)^ 新倉善之﹁日蓮伝小考 --﹃日蓮聖人註画讃﹄の成立とその系譜--﹂﹃立正大学文学部論叢﹄10号、110-144頁、1959年1月 (454)^ 新倉善之﹁日蓮伝小考﹂110-111頁、119頁 (455)^ 川添昭二 1977, p. 70, 82, 89. (456)^ 川添昭二 1977, p. 89. (457)^ 川添昭二 1977, pp. 134–135. (458)^ 小倉秀貫﹃史学雑誌﹄第2篇第10号、1891年 (459)^ 川添昭二 1977, pp. 111–122. (460)^ 川添昭二 1977, pp. 121–122. (461)^ ab﹁︹按︺本書、徹手結舷ノ事。高祖遺文録王舎城ノ條ニハ︵女ヲハ或いハ取集テ。手ヲトヲシテ船ニ結付。︶太平記ニハ︵掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。︶トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。天智天皇二年紀ニ。︵百濟王豐璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。︶トアリ。以テ證スヘシ。北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。殘酷脧削ノ事。往々又彼史乘ニ見ユ。又西洋書中ニモ。蠻方ノ風俗ヲ記シ。貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。﹂山田安栄編﹃伏敵編﹄巻二、1891年6月、11-12頁。 (462)^ 例えば、建治二年閏三月五日に妙密に宛てた﹁妙密上人御消息﹂には、﹁日本国の人人は、法華経は尊とけれとも、日蓮房が悪ければ南無妙法蓮華経とは唱えましとことはり給ふとも、今一度も二度も、大蒙古国より押し寄せて、壹岐対馬の様に、男をは打ち死し、女をは押し取り、京鎌倉に打入りて、国主並びに大臣百官等を搦め取、牛馬の前にけたてつよく責めん時は、争か南無妙法蓮華経と唱へさるへき、法華経の第五の巻をもて、日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はす、うれしくそ侍りし、不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当て貴し貴し。﹂︵建治二年閏三月五日筆﹁妙密上人御消息﹂‥﹃鎌倉遺文﹄12295号、﹃鎌倉遺文﹄ 古文書編 第16巻、239頁︶ (463)^ ﹃寺社縁起 日本思想大系20﹄︵桜井徳太郎、萩原龍夫、宮田登 編、岩波書店、1975年︶p.181。 (464)^ ﹃続文献通考﹄巻二百三十四・四裔考・日本条﹁願蒙古戎狄莅華、以小国視我。乃趙良弼﹁言朮﹂我好語。初不知覘我国也。既而発舟数千襲我。﹂︵山本光朗 2001, p. 2︶ (465)^ 八代國治﹁蒙古襲来に就ての研究﹂﹃史学雑誌﹄29編1号、史学会、1918年1月 (466)^ “元冠の油絵 本仏寺 / うきは市”. うきは市生涯学習課 (2011年3月16日). 2022年12月11日閲覧。 (467)^ 近代デジタルライブラリー、朝日日本歴史人物事典、諏訪春雄記事。伊原敏郎﹃明治演劇史﹄ (468)^ 朝日日本歴史人物事典﹃勝諺蔵(3代)﹄ - コトバンク (469)^ 百合若大臣コトバンク参考文献[編集]
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- モンゴルの高麗侵攻
- モンゴルの樺太侵攻
- 得宗
- 鎮西探題
- 鎌倉幕府の高麗遠征計画
- 二月騒動
- 霜月騒動
- 南浦紹明
- 一山一寧
- 円覚寺
- 日元貿易
- 小茂田浜神社
- 新城神社
- 元寇史料館
- 壱岐神社
- 日本に対する侵攻の一覧
外部リンク[編集]
- 『蒙古襲来絵詞』 - 九州大学総合研究博物館
- 『蒙古合戦絵詞書 2巻 中島広足 写 文化14(1817)』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 『元寇の油絵 矢田一嘯によるパノラマ画 鎮西身延山本佛寺所蔵』 - うきは市
- 『全公開! 油画 蒙古襲来』 - iRONNA
- 『元寇』 - コトバンク
- Mongol Invasion of Japan - 1274, 1281 ‐ 蒙古軍、菊池武房軍、竹崎季長軍の動きを示すインタラクティブ・マップ。プリンストン大学