谷豊
谷 豊 たに ゆたか | |
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1940年頃の谷 | |
渾名 | マレーのハリマオ |
生誕 |
1911年11月6日 日本 福岡県筑紫郡曰佐村五十川 |
死没 |
1942年3月17日(30歳没) シンガポール |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1941年 - 1942年 |
最終階級 | 陸軍軍属 |
谷 豊︵たに ゆたか、1911年︿明治44年﹀11月6日 - 1942年︿昭和17年﹀3月17日︶は、昭和初期にマレー半島で活動した盗賊。福岡県筑紫郡曰佐村五十川︵現在の福岡県福岡市南区五十川︶出身で、イギリス領マレーに渡った後に盗賊となり﹁ハリマオ﹂として一躍知られる存在となった。その後、日本陸軍の諜報員となって活動した。ムスリム名﹁モハマッド・アリー・ビン・アブドラー﹂。
神本利男
そんな中、大東亜戦争が始まる。開戦にあたり、まずマレー半島攻略を第一目標とし、現地に精通した諜報員を欲していた日本陸軍参謀本部は、日本人でありしかもマレー半島を股にかけて活動する豊と彼の率いる盗賊団に目をつけ、彼らを諜報組織に引き込もうとした。その任務を請け負ったのが、満州国の警察官で諜報員・神本利男であった。
1941年1月下旬、昭和通商嘱託︵実質的な諜報員︶[2]としてバンコクに赴いた神本は、軍から用意された25バーツの保釈金をタイ警察に払い[3]、獄中の谷を釈放、そして軍へ協力するよう説得を試みた。当初、マレー人として生きていく事を望んでいた谷は軍への協力を拒んだが、マレーの習慣を学び、ゆくゆくはイスラムに帰依したいという神本の熱意に押され、ついに軍への協力を引き受ける事となる。
その際神本は谷をこのように説得した。
﹁もし戦争が始まったら、その戦争は、このマラヤの大地を、マレイ人のものにする戦いの始まりでもあると、おれは考えているんだ。
今のマレイ人の力では、とてもイギリス軍をこのマレー半島から追い出すことは不可能だが、日本軍の軍事力に、多くのマレイ人が協力してくれるなら、百五十年もマレー半島を支配したイギリス軍と収奪の植民地勢力を、このマレー半島の大地から追い出すことができると……﹂
それから数週間後、谷はかつての仲間たちを呼び寄せ、再び神本の前に現れた。こうしてハリマオ盗賊団は再結成された。
マレー半島北部のタイ国境近くにジットラという町がある。ここは当時アロースターを始めとする英軍の主要飛行場への玄関口にあたり、南下する日本軍にとっては是非とも攻略したい場所、逆に、守る英軍にとっては絶対負けられない重要な場所だった。
そこで英軍は飛行場を守るため、ここに強固な要塞地帯、通称﹁ジットラ・ライン﹂を構築することにした。イギリス軍はこの要塞で日本軍を3ヶ月は足止めできると豪語していたが、本来ジットラは湿地帯であり工事は難航、工事を請け負っていたタイ政府も半ば匙を投げかけていた。そこに谷と神本は目を付けた。ハリマオ一党はジットラ近辺の集落に拠点を構え、工事の妨害工作を行うことにした。まず谷が仲間とともにジットラ・ラインに潜入して測量を行い、神本の手によってそのデータはタイ王国公使館附武官の田村浩大佐に送られた。続いて一党は二人一組に分かれて労働者の中に紛れ込み、資材の投棄や建設機器の破壊などの実力行使に入った。
この結果、ジットラ・ラインの工事は大幅に遅れ、1941年12月12日、山下奉文中将率いる第25軍隷下の第5師団・佐伯挺進隊の猛突進により僅か1日で突破された。以降も、日本軍のマレー半島攻略は順調に進んでいった。
その後も豊は部下や特務機関﹁F機関﹂とともに諜報活動に従事していたが、その主な任務は敗走する英軍が橋に仕掛けた爆弾の解体だった。しかし、先回りして橋を爆破されていた事が少なくなく、また爆弾が何重にも仕掛けられていて全ての爆弾の除去に間に合わず失敗、と言う事も多々あった。そのもどかしさにさすがの谷も、﹁橋を爆破しろというなら俺の本業だから慣れているが、仕掛けた爆弾や爆破装置を除去せよという命令には参った﹂と神本に愚痴をこぼしていたと言う[4]。