金田秀太郎
金田 秀太郎︵かねだ ひでたろう、1873年︵明治6年︶1月28日 - 1925年︵大正14年︶6月11日︶は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。祖父に伊庭秀業、伯叔父に伊庭八郎・伊庭想太郎、孫に元海上自衛隊海将の金田秀昭がいる。
経歴[編集]
静岡県出身。金田武司︵伊庭秀業の次男︶・マスの長男として生まれる。1894年︵明治27年︶11月、海軍兵学校︵21期︶を卒業し、少尉候補生として﹁高千穂﹂に乗り組み日清戦争に出征。1895年︵明治28年︶12月に海軍少尉任官。砲術練習所で学んだ。 1898年︵明治31年︶12月、﹁出雲﹂回航委員としてイギリスに出張。1900年︵明治33年︶3月、﹁出雲﹂分隊長となり、﹁吾妻﹂分隊長を経て、海軍大学校で乙種学生、選科学生として学ぶ。1903年︵明治36年︶12月、﹁鎮遠﹂分隊長に就任し、﹁音羽﹂砲術長に転じ日露戦争に出征した。1905年︵明治38年︶1月、海軍少佐に昇進。 1905年︵明治38年︶6月、﹁壱岐﹂砲術長に就任し、砲術練習所教官兼分隊長を経て、同年12月、イギリス駐在の発令を受けた。1908年︵明治41年︶4月、艦政本部出仕となり、兼海軍砲術学校教官、兼東京帝国大学講師嘱託︵1911年︵明治44年︶7月まで︶を務め、1909年︵明治42年︶10月、海軍中佐に進級。1912年︵明治45年︶4月、艦政本部員に発令され、﹁生駒﹂﹁河内﹂の各副長、横須賀鎮守府付、艦政本部出仕、艦政本部員、兼海大教官などを歴任し、1914年︵大正3年︶12月、海軍大佐に昇進。 1915年︵大正4年︶3月、砲術学校教官を兼務し、海軍技術本部員兼海大教官兼砲術学校教官、欧州各国出張、海軍火薬廠設立準備委員、兼造兵監督官、横須賀海軍工廠造兵部長を務め、1919年︵大正8年︶12月、海軍少将に進級した。1921年︵大正10年︶12月、艦政本部第1部長となり、呉海軍工廠長、艦政本部出仕を経て、1923年︵大正12年︶12月、海軍中将に進んだ。1924年︵大正13年︶2月、待命そして予備役に編入された。栄典[編集]
- 位階
- 勲章等