長井時広
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長井時広 | |
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時代 | 鎌倉時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 仁治2年5月28日[1](1241年7月8日) |
改名 | 大江祝弘→長井時広 |
別名 | 法名:斎阿[1] |
官位 | 従五位上[1]、蔵人[1]、左衛門尉[1]、右近将監[1] |
幕府 | 鎌倉幕府 評定衆[2][1] |
主君 | 順徳天皇→源実朝→藤原頼経 |
氏族 | 大江姓長井氏 |
父母 | 父:大江広元[1] |
兄弟 | 親広[1]、長井時広、毛利季光[1]、那波宗元[1]、海東忠成[1]、尊俊[1]、藤原仲教室、高階惟長室、飛鳥井雅経室[1]、中原師業室[1]、藤原公国室[1]、藤原実国室 |
妻 | 北条時房娘 |
子 | 泰秀、泰重、泰元、泰茂、泰経 |
特記 事項 | 大江姓長井氏祖[1] |
長井 時広︵ながい ときひろ︶は、鎌倉時代前期の朝臣、武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府初代政所別当大江広元の次男。兄大江親広が承久の乱で失脚すると大江氏の惣領となり幕府中枢で活躍した。
生涯[編集]
出羽国置賜郡長井荘を所領としたため、在地名を取って長井氏を称し家祖となった。建保6年︵1218年︶5月に蔵人に任じられ[3]、6月源実朝が左近衛大将任命のお礼参りとして、鶴岡八幡宮拝賀の先払いをするため鎌倉へ下った。実朝が鶴岡八幡宮へ拝賀する際、殿上人として随行する[4]。7月実朝の御直衣始めに鶴岡八幡宮へ随行する[5]。8月20日実朝に対して二階堂行村を通じて、京都への帰還を願い出るものの許されず、翌21日北条義時の執り成しでようやく許しを得た[6]。その後京へ上り、10月叙留される[7]。程なく鎌倉へ戻る。 建保7年1月27日︵1219年2月13日︶実朝が右大臣に任官され、鶴岡八幡宮へ拝賀した際随行する︵このとき右衛門大夫︶。ここで実朝は公暁に暗殺され、兄大江親広とともに出家する[8]。承久3年︵1221年︶の承久の乱で、兄親広が後鳥羽上皇方に加わって失脚したため、嘉禄元年︵1225年︶父大江広元が亡くなると、大江氏の惣領となる。貞永元年︵1232年︶父広元の収集した記録文書等を北条泰時から賜る[9]。後に備後国守護職となる。嘉禎4年/暦仁元年︵1238年︶に所領の米沢に米沢城を築いたとも言われる。 仁治2年︵1241年︶に死去した[10]。嫡男長井泰秀が出羽長井荘を、次男長井泰重が備後守護を継承した。 堂森善光寺には山形県指定有形文化財の伝長井時広夫妻坐像が遺っている。 なお、﹃尊卑文脈﹄において関東評定衆と記載されているのは誤りであると﹃大日本史料﹄は断じている[11]。脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 田村哲夫編修 1980, p. 5.
- ^ 「尊卑文脈」『大日本史料』
- ^ 「吾妻鏡」六月小十四日条、『大日本史料』4編14冊702頁
- ^ 「吾妻鏡」六月小二十七日条、『大日本史料』4編14冊707頁
- ^ 「吾妻鏡」七月八日条、『大日本史料』4編14冊719頁
- ^ 「吾妻鏡」八月廿日条、二十一日条、『大日本史料』4編14冊744頁
- ^ 「吾妻鏡」十月十九日条
- ^ 「福原家譜」『大日本史料』5編13冊547頁
- ^ 「吾妻鏡」『大日本史料』5編8冊460頁
- ^ 『吾妻鏡』五月二十八日条、『大日本史料』5編13冊547頁
- ^ 『大日本史料』5編13冊547頁