長崎英語伝習所
長崎英語伝習所︵ながさきえいごでんしゅうじょ︶は、幕末期の安政5年︵1858年︶7月、江戸幕府によって英語通詞養成を目的として設置された学校である。幕末から明治において、外交で活躍する人材を輩出した。
英語伝習所はその後、英語稽古所⇒洋学所⇒語学所⇒済美館と改称を重ねた。明治維新後には長崎府管轄の広運館、官立の長崎英語学校などへの変遷を経て、1878年︵明治11年︶に旧・長崎県立長崎中学校となった。現在の長崎市立長崎商業高等学校、長崎県立長崎東高等学校、長崎西高等学校の源流となっている。
歴史[編集]
日本で最初に組織的に英語を教えたのは、ラナルド・マクドナルドである。マクドナルドは嘉永元年︵1848年︶に日本に密入国し、拘留先の長崎で、本国に送還されるまでの半年間、オランダ語通詞14人に英語を教えた。このときの教え子に森山栄之助がおり、マシュー・ペリー来航時には通訳を務めるが、半年の授業では英語で外交交渉を行う段階に達しておらず、結局オランダ語を介しての交渉となった。その後森山は小石川に英語塾を開いており、ある程度の英語教育は開始されていた。 嘉永7年3月3日︵1854年3月31日︶の日米和親条約を皮切りに、各国と和親条約が結ばれ、洋学研究と教育の必要性が生じると、幕府は蕃書和解御用で行われていた洋書翻訳事業を安政2年︵1855年︶8月に独立させて洋学所とし九段下に設置した。翌安政3年2月︵1856年3月︶には蕃書調所と改称する[1]。 さらには安政5年6月19日︵1858年7月29日︶の日米通商修好条約を始めとした安政五カ国条約が締結されると、本格的に英語の通訳を養成することが必要となった。 既に安政4年︵1857年︶に、幕府は長崎奉行に命じ、長崎海軍伝習所が設けられていた長崎西役所内に語学伝習所︵洋語伝習所、英語、フランス語、ロシア語︶を設立していたが、日米通商修好条約調印翌月の安政5年︵1858年︶7月には、立山役所の上手にある岩原目附屋敷内︵現・長崎歴史文化博物館の場所︶の奉行支配組頭永持亨次郎役宅に英語に特化する形で長崎英語伝習所が設立された[2][3]。 教師には長崎海軍伝習所で教えていたオランダ海軍将校ウィッヘルス︵ウヰッヘルス、ヴィッヘルス、Jhr.H.O.Wichers︶、出島に居留していたオランダ人デ・ホーゲル︵フォーゲル、L.C.J.A de Vogel︶、英国領館員のイギリス人ラクラン・フレッチャー︵フレッチェル、Lachlan Fletcher、後の横浜領事︶らが務め、頭取は楢林栄左衛門︵栄七郎、高明︶と西吉十郎︵成度︶が務めた[4][2][5]。教員は8人[6]。生徒はオランダ通詞、唐通詞、地役人の子弟のほか、英語を学びたい有志の者たちであったが、英語伝習所は外国人直伝ということで評判となり、西南諸国からも修業に出向いて来るものもあったといわれる[2]。 英語伝習所は文久2年︵1862年︶に、片淵郷の組屋敷内の乃武館︵だいぶかん、旧・長崎原爆病院跡地、旧・済生会長崎病院跡地︶の内に移転して、英語稽古所︵英語所︶と改称された[2]。頭取には、楢林栄左衛門︵高明︶の高弟・中山右門太、世話役には柴田大介︵大助、昌吉︶が就いた[7][2]。教員は4人[6]。 文久3年︵1863年︶7月には、英語稽古所は立山役所の東長屋に移転するが、これに際し、唐通事の何礼之助と平井義十郎︵希昌︶が同所頭取に任命された[2]。他に教師は4人[8]。同文久3年12月、英語稽古所は江戸町に移転し、洋学所と改称される。当時、何・平井両頭取、柴田教授会頭のほか、教師が12名がいたといわれ、グイド・フルベッキやチャニング・ウィリアムズも英語教師を務めた[2][9]。 翌元治元年︵1864年︶正月、大村町に語学所を設けることが計画され、英語、フランス語、ロシア語を教え、有志の者に入学を許可する旨が定められたが、大村町の語学所が完成するまでは、江戸町の仮語学所で教育が行なわれた。この仮語学所は、一般に語学所とも称されていた。しかし、大村町に語学所が設置される話は立ち消えになったと考えられ、江戸町の仮語学所︵語学所︶は、慶應元年︵1865年︶8月、新町の元長州屋敷跡に移転し、済美館と改称した[2]。学則も改められ、英、仏、露、清、蘭の語学以外に歴史、地理、数学、物理、経済の教授も開始された。また、これまで洋学書の取締方は運上所︵現在の税関︶において執行されてきたが、以後、済美館で行うこととなった[10]。 明治維新となり、済美館は明治政府により接収され、慶応4年︵1868年︶4月に、立山役所跡に移転し長崎府管轄の広運館となり[11]、外国語教育に限定せず、和漢洋の3学を講じることとなった。明治初年の広運館の英語学習者は百十一人︵全体の約三分の一︶であった。講義内容は英、仏、魯語以外に、歴史、地理、数学、物理化学、天文、経済の諸学科を教授した[12]。 現在、長崎市立山の長崎歴史文化博物館前に石碑が建っている。主な教師[編集]
●グイド・フルベッキ - 教授を務めたのは洋学所と改称された後 ●チャニング・ウィリアムズ - 洋学所教授、立教大学創設者[9] ●ヘンリー・スタウト - 広運館教授、フルベッキの後任主な生徒[編集]
●立石斧次郎 - 万延元年遣米使節の通訳 ●何礼之 - 後に教授︵学頭︶を務めた。岩倉使節団の一員 ●平井希昌︵義十郎︶ - 後に教授︵学頭︶を務めた。 ●大隈重信 - ウィリアムズ、フルベッキから英学を学んだ。後に佐賀藩の語学学校である致遠館にフルベッキをスカウト。 ●柴田昌吉 ●日下部太郎 ●山口尚芳 - 岩倉使節団の一員 ●馬場辰猪 - 岩倉使節団の一員 ●西園寺公望 - 1870年4月に広運館に入学し、フランス領事のレオン・ジュリーやフルベッキから語学を学んだ[13]。関連項目[編集]
●長崎海軍伝習所 ●長崎養生所 ●長崎英語学校・長崎県立長崎中学校 - 後身学校。 ●横浜仏語伝習所 ●開成所参考[編集]
●長崎大学薬学部 薬学年表 ●横浜山手外人墓地埋葬者 - ウェイバックマシン︵2015年6月1日アーカイブ分︶出典[編集]
(一)^ 精選版 日本国語大辞典 ﹃洋学所﹄ ‐ コトバンク
(二)^ abcdefgh茂住 實男﹁英語伝習所設立とその後﹂﹃英学史研究﹄第1980巻第12号、日本英学史学会、1979年、193-206頁、ISSN 1883-9282。
(三)^ 大久保 利謙﹁幕末英学史上における何礼之 : とくに何礼之塾と鹿児島英学との交流﹂﹃研究年報 1977﹄第6巻、鹿児島県立短期大学地域研究所、1978年3月、26-41頁。
(四)^ 日本英学史学会 月例報告 2005年12月
(五)^ 旅する長崎学・たびながコラム ﹃幕末の長崎2﹄
(六)^ ab長崎年表 ﹃江戸時代︵16︶﹄ 1858︵安政05︶
(七)^ 柴田は安政5年︵1858年︶に前身の英語伝習所の入学し、翌6年4月には同所世話役助、12月には世話役を命ぜられた人物であった。
(八)^ 長崎年表 ﹃江戸時代︵17︶﹄ 1863︵文久03︶
(九)^ ab杉本つとむ﹁続・幕末の洋学事情--近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育﹂﹃早稲田大学図書館紀要﹄第42号、早稲田大学図書館、1995年12月、1-55頁、ISSN 02892502、NAID 40003930216。
(十)^ 長崎年表 ﹃江戸時代︵18︶﹄ 1864︵文久04︶
(11)^ 長崎年表 ﹃明治時代︵1︶﹄ 1868
(12)^ 杉本つとむ﹁幕末の洋学事情-近代の発信地,長崎と蘭医と近代教育﹂﹃早稲田大学図書館紀要﹄第41号、早稲田大学図書館、1995年3月、1-31頁、ISSN 02892502、NAID 120006349576。
(13)^ ながさきプレス ながさき石碑めぐり第5話﹃西園寺公望仮寓跡石碑﹄