何礼之
何 礼之︵が のりゆき︵れいし︶、天保11年7月13日︵1840年8月10日︶ - 大正12年︵1923年︶3月2日︶は、江戸時代末期︵幕末︶から明治時代にかけて活躍した日本の翻訳家、幕臣、官僚、教育者。通称は礼之助。姓は﹁か﹂ではなく﹁が﹂と読む。幕末の長崎で創設した私塾は、塾生が300名を越え、維新後に活躍する多くの人材を育てた。開成所︵現・東京大学︶教授を務め、大阪洋学校︵現・京都大学︶の創設者でもある。岩倉使節団の一員としても活躍し、自由民権運動に大きな影響を与えるなど、教育者、外交官、翻訳者として、様々な立場で日本の近代化に多大な貢献をした[1][2]。翻訳局長、元老院議官、貴族院議員も務めた[3]。
略歴[編集]
英語の独習と通訳業[編集]
天保11年︵1840年︶肥前国長崎西上町に生まれる。父は唐通事で住宅唐人の子孫である何静谷︵栄三郎︶。天保15年︵1845年︶父の引退に伴い、5歳で家督を継ぐ[3]。幼い頃から唐通事界の先輩である鄭幹輔や呉泰蔵に従って唐話︵中国語︶を学んだ[4]。15歳の頃中国語を修めた。 この頃、外国艦が日本近海に迫り、開国を求める動きが加速していたため、西欧語の習得が必要性を増していた。礼之助は在長崎の唐人から華英辞典を求め、当初は独学で英語を学んだという。安政5年︵1858年︶に日米修好通商条約が締結されると、長崎も開港地となり通商が開始されたため、幕府から税関業務の従事を命ぜられた。また、幕府が設立した長崎英語伝習所で英語を学び、後には教師も務めた。 1859年に鄭幹輔に率いられて、長崎に停泊中のアメリカ船に赴き、宣教師で医師でもあるアメリカ人のマクゴーワン︵マガウアン、マゴオン、D.J.Macgowan、瑪高温︶に英語を学んだ。その後引き続き、チャニング・ウィリアムズ︵立教大学創立者︶、ジョン・リギンズ、ウォルシュ︵ウオルス、ワルシ、Richard James Walsh、ウォルシュ兄弟の3番目の弟︶、グイド・フルベッキより、通詞の同僚の平井希昌︵義十郎︶らとともに本式の英語を学び、次第に通訳・読書が上達し英語の達人となっていった[4][3]。文久元年︵1861年︶にロシアによって対馬が占拠される事件︵ロシア軍艦対馬占領事件︶が起きると、長崎奉行の退去交渉に通訳として随行した。 英語通訳の功績により、文久3年︵1863年︶7月に長崎奉行所支配定役格に任ぜられ、幕臣となった。ついで英語稽古所学頭に任じられた[2]。同年孝明天皇に攘夷を約束した幕府は12月に不可能を承知の上で横浜港の再封鎖を交渉するため、フランスへ外国奉行池田長発を全権とする交渉団を派遣することになったが、礼之助も通訳として随行を命ぜられる。この時、前島密も礼之助の従者として仕えた。しかし江戸へ向かう便船が途中で故障して遅延したため、随行は叶わなかった[5]。英語私塾開設[編集]
翌元治元年︵1864年︶には長崎の自邸で英語の私塾を開き、巻退蔵︵のち前島密︶、林謙三︵のち安保清康︶、中村某︵のち青江秀︶、瓜生雷吉︵のち瓜生震︶、その他数十名が塾生として学び、多くの弟子を育てる[6]。翌年には長崎奉行の支援で塾舎を新設。塾生は百数十名を数えた。この時期に何礼之の教えを受けた者には前島密︵内務省駅逓局長、逓信次官︶、高橋新吉︵英学者、日本勧業銀行総裁︶、前田正名︵農商務省大書記官、東京農林学校長︶、芳川顕正︵東京府知事、文部大臣、内務大臣など︶、高峰譲吉︵工学博士、薬学博士︶、白峰駿馬︵海援隊士、白峯造船所長︶、陸奥宗光︵海援隊士、外務大臣︶などがいる[3]。東洋のルソーといわれる中江兆民に蘭学を教えた萩原三圭︵日本初のベルリン大学医学生︶も塾生であった。また、兆民は蘭学の師匠である細川潤次郎の推薦で土佐藩留学生として来崎するが、何礼之の同僚の平井希昌︵義十郎︶に長崎でフランス語を学び、同郷の坂本龍馬とも親交を持った[7]。 何礼之は、英語稽古所の後身である幕府の洋学所や済美館でも平井希昌︵義十郎︶とともに学頭を務めた[7][8]。 その後、慶応3年︵1867年︶7月、幕府開成所︵現・東京大学︶教授並となり、江戸へ赴く。江戸でも私塾を開き、星亨︵衆議院議長、逓信大臣︶、中村六三郎︵三菱商船学校初代校長︶、土取忠良などに英語を教えた[6][3]。王政復古の後は、幕府陸軍総裁・勝海舟の通訳を務めた。維新後の活躍[編集]
明治維新後は明治元年︵1868年︶6月に新政府の開成所︵現・東京大学︶御用掛、訳官となる。続いて大阪行きを命ぜられ、外国事務局で小松清廉を補佐する一等訳官。また大阪中之島の高松藩邸でも開塾し、堂島川に架かる玉江橋に因んで﹁瓊江塾﹂と称した。ここでは濱尾新︵帝国大学総長、文部大臣︶、奥山政敬︵大阪英語学校長︶などに教えている。また、同明治元年︵1868年︶には長谷川芳之助︵工学博士、官営八幡製鐵所創設者の一人︶が学んだ[9]。この間、大阪洋学校︵現・京都大学、岡山大学医学部︶設立に奔走し[2]、明治2年9月に設立、12月に開校すると自ら教鞭を執るかたわら﹃経済便蒙﹄﹃西洋法制﹄などを訳出。明治4年には新政府による欧米派遣使節︵岩倉使節団︶に外務省六等出仕として随行した。使節団副使の木戸孝允に附属し、憲法の調査を行い、モンテスキューの﹃法の精神﹄を翻訳。のちに﹃万法精理﹄として刊行され、自由民権運動に大きな影響を与えた[3]。 明治6年︵1873年︶7月帰朝。翌年には内務省出仕翻訳事務局御用掛となり、洋書の翻訳・調査にあたった。明治9年︵1876年︶2月内務権大丞、10年︵1877年︶1月内務大書記官に進む。明治17年︵1884年︶12月元老院議官となり、同23年︵1890年︶帝国議会の発足に伴い元老院が廃止されるまで在職した。同年10月20日、錦鶏間祗候となる[10]。明治24年︵1891年︶12月22日貴族院勅選議員となり[11]、大和倶楽部、懇話会、庚子会、土曜会、同成会に属した。大正12年︵1923年︶、死去。享年84。墓は東京都港区の青山墓地にある。 著書はすべて訳書で、上記の﹃万法精理﹄のほか、ベンサムの﹃民法論綱﹄をはじめ、﹃政治略原﹄﹃英国賦税要覧﹄﹃世渡の杖﹄﹃開知叢書人事進歩編﹄﹃開知叢書人事退歩編﹄﹃法律類鑑﹄など。家族[編集]
●父・何静谷は唐年行司︵長崎奉行下の役人︶。寛永年間に先祖が明より長崎に渡来して帰化し、代々唐年行司を務めてきた。静谷で10代目[12]。 ●養子の武は林洞海の子。 ●孫の須磨子︵娘・婦美の娘︶は男爵赤松則良三男・何盛三の妻[12]。子に何初彦。栄典・授章・授賞[編集]
位階 ●1885年︵明治18年︶2月6日 - 従四位[13] ●1894年︵明治27年︶5月21日 - 正四位[14] 勲章等 ●1886年︵明治19年︶11月30日 - 勲三等旭日中綬章[15] ●1889年︵明治22年︶11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[16] ●1916年︵大正5年︶4月1日 - 旭日重光章[17]脚注[編集]
(一)^ 大久保 利謙﹁幕末英学史上における何礼之 : とくに何礼之塾と鹿児島英学との交流﹂﹃研究年報 1977﹄第6巻、鹿児島県立短期大学地域研究所、1978年3月、26-41頁。
(二)^ abc国立公文書館 アジア歴史資料センター ﹃何禮之 がのりゆき﹄
(三)^ abcdef静岡県立中央図書館 温故知新 明治初年の法律書︵その1︶ 英学者何礼之と﹃萬法精理﹄ (PDF) 静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介︵28︶ 平成13年8月1日
(四)^ ab許 海華﹁幕末明治期における長崎唐通事の史的研究﹂、関西大学、2012年9月20日、doi:10.32286/00000332。
(五)^ 郵政博物館 ﹃前島密一代記﹄
(六)^ ab許 海華﹁長崎唐通事何礼之の英語習得﹂﹃関西大学東西学術研究所紀要﹄第44巻、関西大学東西学術研究所、2011年4月、297-318頁、ISSN 02878151。
(七)^ ab村瀬寿代﹁長崎におけるフルベッキの人脈﹂﹃桃山学院大学キリスト教論集﹄第36号、桃山学院大学総合研究所、2000年3月、63-94頁、ISSN 0286973X、NAID 110000215333。
(八)^ 茂住 實男﹁英語伝習所設立とその後﹂﹃英学史研究﹄第1980巻第12号、日本英学史学会、1979年、193-206頁、ISSN 1883-9282。
(九)^ 名古屋大学大学院法学研究科﹃人事興信録﹄データベース﹃長谷川芳之助﹄初版 明治36(1903)年4月
(十)^ ﹃官報﹄第2195号、明治23年10月22日。
(11)^ ﹃官報﹄第2546号、明治24年12月23日。
(12)^ ab何禮之﹃人事興信録﹄第4版 [大正4(1915)年1月]
(13)^ ﹃官報﹄第479号﹁賞勲叙任﹂1885年2月7日。
(14)^ ﹃官報﹄第3266号﹁叙任及辞令﹂1894年5月22日。
(15)^ ﹃官報﹄第1027号﹁叙任﹂1886年12月1日。
(16)^ ﹃官報﹄第1929号﹁叙任及辞令﹂1889年12月2日。
(17)^ ﹃官報﹄第1218号﹁叙任及辞令﹂1916年8月21日。