高雄丸 (日本海軍)
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高雄丸 | |
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基本情報 | |
建造所 |
コーラントランアルク[1] (イギリス・グラスゴー[2]) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 運送船[1] |
建造費 | 購入金額:22,500ドル[3] |
艦歴 | |
竣工 | 1869年製造[1] |
就役 | 1874年10月17日購入[4] |
除籍 | 1880年3月25日[4]、同日売却[5] |
要目 | |
排水量 | 1,141.97英トン[1] |
トン数 |
722.44トン[6][7] または622.44トン[8] |
長さ |
223尺71[8](67.79m) または225 ft 4 in (68.68 m)[9] |
幅 |
32尺61[1](9.88m) または32 ft 5 in (9.88 m)[9][7] |
深さ |
14尺92[1](4.52m) または22 ft 5 in (6.83 m)[7] |
吃水 |
9尺39[1](2.85m) または前部12 ft (3.66 m)、後部12 ft (3.66 m)[7] |
ボイラー | 円缶 2基[9] |
主機 | 高低合圧機関[1] |
推進 | 外輪[1] |
出力 |
1,400IHP[9](250名馬力[1]) または300馬力[10] |
帆装 | 2檣ブリック型[1] |
速力 | 1880年時:平均8ノット[11] |
燃料 | 炭団:200英トン[9](336,000斤[1]) |
航続距離 | 燃料消費量:22英トン[9](36,960斤[1])/日 |
乗員 |
准士官以上12名、下士23名、火水夫82名[9] 1874年:100名[1] 1876年6月時定員:101名[8] |
兵装 |
8cm後装砲 3門、6ポンド砲 2門[9] または 砲 4門[12] 1880年3月時:4ポンド施條前装砲 2門[13] |
搭載艇 | 1880年3月時:ギグ3隻、カッター2隻[14] |
その他 |
船材:鉄[1] 番号:20[15] |
高雄丸︵たかおまる・たかをまる[2]︶は、日本海軍の運送船[4]。
﹃日本海軍艦船名考﹄によると艦名は京都の名所になる高尾による[4]。
﹃聯合艦隊軍艦銘銘伝﹄によると山岳名(同地にある高尾山)による[16]。
日本海軍の艦船名(高雄)として初代になり、その後4代まで続いた[16]。
艦型[編集]
2檣ブリック型の鉄製外輪船[1]。 機関はイギリス・グランドサンアルグで製造された[9]。 要目表の値は﹃記録材料・海軍省報告書第一﹄の明治7年艦船総数表[1]、﹃帝国海軍機関史﹄などに依った[9]。 その他の文献での要目は以下の通り。 ●﹃近世帝国海軍史要﹄:排水量1,191英トン[17] ●﹃日本海軍艦船名考﹄:排水量1,191英トン[4] ●﹃日本近世造船史 明治時代﹄:トン数1,422トン、長さ219 ft (66.75 m)、幅32 ft (9.75 m)[10]艦歴[編集]
元はイギリス・グラスゴーで[2] 1869年(明治2年)に竣工したイギリスの鉄製汽船シンナンジング[4] (ジンナンジンク[1])。1874年[編集]
イギリス人ビームスウィトールから[1] (または横浜のイギリス1番シャーデンマテソン商会から[3]、 ガルジーンマゼソン商社から[2]) 1874年(明治7年)10月17日に明治政府の代理として真木長義が横浜で購入した[9]。 翌18日に高雄丸と改称[18]、 高雄丸は試運転で品海まで回航し[19]、10月19日に受領[3][20]、10月22日に艦位5等と定められた[21]。 10月25日、支那事件により高雄丸は九州回航を命じられ、砲兵4門、海兵4小隊などを乗せ同日品川を出港[20]、11月2日に長崎着[22]、11日午前9時に長崎を出港し、14日午前4時に品海に帰着した[23]。 主船寮が調査した所、修理の必要な箇所が複数見つかり[24] (または石川島造船所で修理を行い[9])、11月27日に横須賀に回航された[25]。 横須賀造船所では入渠して船底検査が行われた[26]。1875年 - 1876年[編集]
翌1875年(明治8年)5月19日、高雄丸は会計局所轄に定められた[27]。 8月頃に熊本にある陸軍省の兵器類を運送した[28][29]。 10月28日、日本海軍は日本周辺を東部と西部に分け、高雄丸は東部指揮官所轄となった[30]。清派遣[編集]
11月18日、特命全権公使森有礼の清派遣のために高雄丸が指定され、24日に品川を出港した[31]。 しかし28日に明石瀬戸で右舷外輪が破損、高雄丸は曳航されて神戸港に引き返した[31]。 神戸で修理後は直ちに横須賀へ引き返し[9]、 結局清へは派遣されたかった[31]。江華島事件[編集]
高雄丸は1875年に起きた江華島事件に関連して朝鮮へ派遣された[2]。12月15日、黒田清隆辨理大臣が玄武丸に乗組み朝鮮へ出張するため、日進、孟春、高雄丸が釜山までの護衛を命令された[32]。 高雄丸は砲兵1小隊、歩兵1中隊が同乗し翌1876年(明治9年)1月6日品川を出港[32]、3月6日に品川に帰着した[33]。 なお﹃恩給叙勲年加算調査﹄では3月21日品海着となっている[34]。奥羽巡幸護衛[編集]
高雄丸は5月25日に横浜を出港し、春日、清輝、高雄丸の3隻は奥羽巡幸の護衛として6月6日に青森を出港した[35]。 高雄丸は6月27日に再び横浜港を出港し、行幸帰路(明治天皇は7月18日に函館で明治丸に乗船し7月20日横浜着[36])の供奉艦として青森港を出港、7月21日に横浜港に帰着した[37]。 高雄丸は函館港から品川への航海中に外輪の軸受けが異常に発熱し、海水で常に冷やして航海していた[38]。 軸受けにヒビが入っていて[39]、8月末の検査では修理に一カ月程度掛かると見積もられた[40]。 スリーブバルブから異音も発しており、こちらの修理に6カ月かかると見積もられたが[41]、10月に軸受けのみの修理と決定した[42]。1877年[編集]
大和行幸御召艦[編集]
1877年(明治10年)1月の大和行幸の際は、明治天皇が横浜から神戸まで高雄丸に乗艦すると、1876年12月5日に太政大臣から通達があった[43]。 1877年(明治10年)1月24日午前10時20分、明治天皇は高雄丸に乗艦、10時50分に高雄丸は横浜港を出港した[44]。1月25日午前7時30分頃から天候が悪くなり、高雄丸と随伴の各艦は鳥羽に向かった[44]。1月27日午前9時45分に明治天皇を乗せた高雄丸は鳥羽を出港、1月28日午前9時に神戸港に着、明治天皇は午前9時50分に上陸した[44]。西南戦争[編集]
ここで西南戦争により 川村純義が鹿児島へ派遣されることになり、高雄丸は彼を乗せて2月7日に神戸港を出港した[45]。 なお﹃恩給叙勲年加算調査﹄では2月24日神戸出港となっている[34]。7月7日からは長崎で機関の修理が行われた[9]。8月13日に修理は完成したが、同月31日に機関の螺旋が破損、第二丁卯に曳航され細島に回航[9]、 高雄丸は9月22日、長崎に到着した[34]。朝鮮派遣[編集]
9月20日、高雄丸に花房代理公使を乗せ朝鮮に回航することが決定し[46]、10月3日午後1時、高雄丸は長崎港を出港、朝鮮に向かった[47]。10月4日午後2時20分、高雄丸は釜山浦港湾冬柏島内に着港し花房代理公使らは釜山浦に上陸した[47]。 釜山では船内でコレラが発生し3人死亡、4人発症、コレラの疑いの有る者が4人となり[48]、10月8日午後2時15分(または2時31分[48])に高雄丸は1隻で長崎港に寄港した[47]。 長崎では患者を入院させ、乗員の検査と船内の消毒を行った[49]。10月29日午前10時10分(または午前10時[50])に高雄丸は長崎を出港し、再び朝鮮へ向かった[47]。 翌1878年(明治11年)1月6日、高雄丸は朝鮮から肥前田ノ浦に帰着した[34][51]。1月11日午前10時30分神戸着[52]1月18日午前10時に神戸を出港したが[53]、 同日機関が故障し一時停泊[9]、1月20日午後4時30分(または午後4時25分[54])、高雄丸は横浜港に帰港した[55]1878年[編集]
前年(1877年)11月に水路局から専用の測量船が必要との上申が有り[56]、 1878年(明治11年)1月に高雄丸が候補に上がった[57]。 同年2月6日、高雄丸は測量船とされ[58]、 東海鎮守府から水路局に所轄を変更[59]、2月16日に水路局へ引き渡された[60]。 なお高雄丸附属の御召船舟は浅間へ引き渡された[61]。大修理[編集]
測量任務の都合上、高雄丸を至急修理したいと3月1日に水路局から申し出があり[62]、3月4日に横須賀造船所へ至急修理の達が出され[63]、 高雄丸は3月8日に横須賀ヘ回航した[64]。 当初は測量航海に必要な修理のみの予定だったが、修理箇所が多く、この際は大修理が必要と見込まれ[65]、 期間は4月からの約8カ月間が必要とされた[66]。3月27日、高雄丸は修復船とされ[67]、 横須賀造船所所轄となり[68]、3月29日横須賀造船所に引き渡された[69]。 同年11月に来年の測量の関係上修理工事が急がれた[70]。11月30日に杉少佐から高雄丸船長青木少佐に引き継ぎされた[71]。1879年[編集]
1879年(明治12年)2月25日に高雄丸は機械の試運転で横浜沖まで行動した[72]。3月7日に高雄丸は修理が完成し、測量船として水路局へ所轄変更[73]、3月13日に引き渡された[74]。 しかし3月18日に東海鎮守府所轄の運送船に改められ[75]、3月25日に東海鎮守府へ引き渡された[76]朝鮮派遣[編集]
朝鮮国の開港する港の選定のために高雄丸と[77] 鳳翔が派遣されることになった[78]。3月27日に横須賀から横浜に回航、3月31日午後3時15分に横浜港を出港した[5]。 高雄丸には水路局員4名などが乗船し[79]、 花房義質代理公使も朝鮮へ派遣された[80]。 なお﹃恩給叙勲年加算調査﹄では3月31日兵庫発となっている[34]。 兵庫に4月2日着、4月13日に出港したが、播磨灘で機関が故障し翌日神戸に引き返した[5]。4月19日午後0時16分に改めて兵庫を出港し、4月21日から翌日は門司浦で停泊、4月23日午前6時40分に釜山浦に到着した[5]。 以後6月まで、所安島、庇仁、豊島、牙山の朝鮮各地を巡った[5]。6月27日に鳳翔と共に仁川湾を出帆し長崎に向かったが、濃霧のために度々航泊を余儀なくされた[81]。7月2日に霧が晴れて航海可能となり[81]、7月3日午後4時9分(または午後5時9分[82])に長崎に寄港した[5]。 長崎では石炭や消耗品の補充を行った他[82]、 高雄丸は同地でボイラーの修理を行った[9][83]。8月6日午後1時に高雄丸は長崎港を出港、再び釜山、牙山、仁川を巡ったが[5]、 船内に脚気の病人が多数出て[84]、9月8日午前7時27分(または午前7時30分[85])仁川を出帆[5]、9月10日午後8時10分に長崎港に帰着した[5]。9月27日午後0時(または午前11時[86])に長崎を再び出港、釜山浦、元山津を巡り10月16日釜山浦を出帆、10月17日下関着、翌18日午後11時30分に兵庫に帰着した[5]。 なお﹃恩給叙勲年加算調査﹄では10月17日に兵庫着としている[34]。 高雄丸は11月2日午前7時45分神戸出港、11月4日午前5時5分(または午前6時5分[87])に横浜港に帰港した[5]。 11月13日に横浜から品川に回航した[5]。 12月8日、高雄丸は水路局所轄の運送船と定められ[88]、12月15日に水路局へ引き渡された[89]。 高雄丸は12月28日に横須賀に回航し[5]、 翌29日午前に入湾し[90] 横須賀造船所で修理に着手、翌1880年(明治13年)1月9日に修理が完成[91]、 同日品川に回航した[5]。1880年[編集]
函館航海[編集]
1879年12月に函館で大火があり、12月24日に開拓使から高雄丸の借り入れが要請されていた[92]。 高雄丸は1880年(明治13年)1月14日午前8時30分に品川を出港[5]、 開拓使員なども乗船した[93]。 高雄丸は金華山、鍬ケ崎(現宮古市鍬ヶ崎)を経て1月21日午後2時35分に函館港に入港した[5]。 その後は小樽港へ回航し救援物資の米を同地で陸揚げする予定だったが[94]、 連日の大雪で安全な航海は出来がたく[95]、 米は函館に陸揚げされた[96]。 高雄丸は2月14日午前8時50分函館発、釜石港を経て2月19日午前11時30分に品川に帰着した[5]。売却[編集]
同年1月12日に長崎の豪商大浦慶と筑前国甘木の商人佐野弥平の連名で高雄丸の払い下げ願いが出された[97]。 大浦は幕末から戦後にかけて茶葉の輸出などで巨財を成した女傑であり、詐欺に遭い一旦は没落したが、借財を返済しこの頃は既に建て直していた。佐野は筑前1、2の富豪で[98]、 三菱会社に対抗して海運業の強化を考えていた[97]。2月26日、高雄丸は水路局所轄から除かれ[99]、 同日、主船局には代価算定をエルガー氏に依頼することや主船局が売却の事務手続きを行うこと、引渡可能な時期を調査し報告するよう令達された[100]。 価格は一括の場合で50,000円、分割の場合は即納30,000円、24カ月以内に残り30,000円の計60,000円と決定した[101]。 佐野弥平は一度に50,000円の用意はすぐ出来ないため相談の上[102]、3月18日に30,000円を上納、3月24日に残金20,000円を上納する形になり、高雄丸は3月25日に引き渡された[103][注釈 1]。 高雄丸の残務(事務)は4月13日に終了[104]、4月16日に太政大臣宛に高雄丸の払い下げが届出された[105]。その後[編集]
高雄丸は定繋港を東京に定められた[106]。 機関の運転に不慣れなため、小栗道孝海軍中機関士(非役中)が4月21日から6ケ月ほど乗り組み、指導することになった[107]。 高雄丸は4月21日品海を出港、九州に向かった[107][108]。 機関運転に慣れたために小栗中機関士は途中解約、7月23日に帰京報告が出された[108]。 また朝鮮元山津に日本海軍の石炭囲場を建設されることになり[109]、 兵庫からの石炭運送に高雄丸が使用された[110]。 高雄丸は石炭530,625斤(約314英トン)を搭載して8月28日に元山港に到着した[111]。船長[編集]
日本海軍 ※﹃日本海軍史﹄第9巻・第10巻の﹁将官履歴﹂に基づく。- 滝山正門 大尉:1874年10月18日[20] - 1874年11月3日[112]
- 今井兼輔 少佐:1874年11月3日[112] - 1875年6月5日[113]
- (船長心得)岡部政貫 大尉: 1875年6月5日[113] -
- 井上良馨 少佐:1875年12月15日[32] - 1876年3月22日[33]
- 有地品之允 中佐:1876年3月27日[33] - 1876年5月11日[114]
- 杉盛道 少佐:1876年5月17日[114] - 1876年11月29日[115]
- 伊東祐亨 中佐:1876年11月29日[115] - 1877年2月19日[45]
- 杉盛道 少佐:1877年2月19日[45] - 1878年11月25日
- 青木住真 少佐[116]:1878年11月30日引き継ぎ[71] -
- 民間船
- 片山常雄:1878年8月時[117]
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 3月31日付の読売新聞には、大浦が4万7千3百円で買ったと書かれている。
出典[編集]
(一)^ abcdefghijklmnopqrs#M1-M9海軍省報告書画像60-61、明治七年艦船総数表
(二)^ abcde中川努﹁主要艦艇艦歴表﹂#日本海軍全艦艇史資料篇p.32、高雄丸(初代)﹃たかおまる・たかをまる﹄
(三)^ abc#M7公文類纂14/貸借並売買受授(4)画像41、﹁事壱套坤大日記九十七 第二百七十三号 運送舩買入ノ義御届﹂
(四)^ abcdef#浅井(1928)pp.34-36、高雄 たかを Takawo.
(五)^ abcdefghijklmnopq#M12.7-M13.6海軍省報告書画像37-38、高雄丸航泊表
(六)^ #M7公文類纂14/噸数並馬力画像1-2
(七)^ abcd#M11公文類纂16/測量船御渡相成度他6件画像19-20、高雄丸請取之証
(八)^ abc#M1-M9海軍省報告書画像108-109、艦船表(明治9年6月30日現在)
(九)^ abcdefghijklmnopq#機関史(1975)上巻pp.477-479
(十)^ ab#造船史明治(1973)p.500
(11)^ #M13公文類纂前編11/西洋形船舶届出方通牒画像3
(12)^ ﹃日本海軍史﹄第7巻p.228
(13)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸付属品(1)画像49
(14)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸付属品(1)画像43-47
(15)^ #M7公文類纂13/名義並番号(1)画像23
(16)^ ab#片桐(2014)pp.92-94、高雄(たかお)
(17)^ #近世帝国海軍史要(1974)p.884
(18)^ #M7公文類纂13/名義並番号(1)画像21、﹁省中布告原因九十三 記三套大六十九号 今般英運送舩シンナンジング号当省江買入舩名高雄丸ト相定候條此段為心得布達候也 十月十八日 本省 省属各庁 七年十月十八日達済﹂
(19)^ #M7公文類纂15/航泊出入(6)画像43
(20)^ abc#M1-M9海軍省報告書画像57-58、明治7年10月。
(21)^ #M7公文類纂13/管轄(3)画像27、﹁事七套大日記七十四 無号 高雄丸 其舩位五等ニ被定候事 明治七年十月二十二日 海軍省 指揮官ヘ達ス﹂
(22)^ #M7公文類纂15/航泊出入(7)画像5
(23)^ #M7公文類纂15/航泊出入(7)画像7
(24)^ #M7公文類纂15/航泊出入(7)画像11
(25)^ #M7公文類纂15/航泊出入(7)画像13
(26)^ #M7公文類纂16/修覆(7)画像31
(27)^ #M1-M9海軍省報告書画像64-66、明治8年5月。
(28)^ #M8海軍省附水路寮/髙雄丸にて積取の量不分明画像1
(29)^ #M8海軍省附水路寮/兵器類髙雄丸廻漕入費画像1
(30)^ #M1-M9海軍省報告書画像68-70、明治8年10月。
(31)^ abc#M1-M9海軍省報告書画像70-72、明治8年11月。
(32)^ abc#M1-M9海軍省報告書画像72-73、明治8年12月。
(33)^ abc#M1-M9海軍省報告書画像78-80、明治9年3月。
(34)^ abcdef#S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/船舶特務艇(2)画像13-14
(35)^ #M1-M9海軍省報告書画像81-82、明治9年6月。
(36)^ #明治天皇行幸年表(1933)p.89
(37)^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像1-3、明治9年7月
(38)^ #M9公文類纂12/高雄丸修復の件画像6
(39)^ #M9公文類纂12/高雄丸修復の件画像5
(40)^ #M9公文類纂12/高雄丸修復の件画像1
(41)^ #M9公文類纂12/高雄丸修復の件画像7-8
(42)^ #M9公文類纂12/高雄丸修復の件画像11、﹁伺之通魁軸並属部丈ケ修理可候事﹂
(43)^ #M9-M10太政官命令簿/第24号大和行幸高雄丸御乗艦画像4-5
(44)^ abc#M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像17-20、明治10年1月
(45)^ abc#M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像20-24、明治10年2月
(46)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像8-11、明治10年9月沿革
(47)^ abcd#M10.7-M11.6海軍省報告書画像11-14、明治10年10月沿革
(48)^ ab#M10公文類纂後編14/高雄丸入港太政官へ届画像7、池田少佐電報訳文﹁高雄丸乗組ノ者釜山浦ニ於テ虎列刺病ニテ三人死亡外ニ右虎列刺病ニ罹ル者四人比類之者四人有リテ船内ニテ防キ難キニ付使臣ト協議之上高雄丸ノミ本日午後二時三十一分先ツ入港此旨御届仕候﹂
(49)^ #M10公文類纂後編14/高雄丸入港太政官へ届画像11
(50)^ #M10公文類纂後編14/高雄丸出帆東海鎮守府電報画像1、﹁高雄丸本日午前十時釜山ヘ向ケ長崎出帆ノ届アリタリ 明治十年十月廿九日﹂
(51)^ #M11公文類纂前17/高雄丸豊前田ノ浦え着船他3件画像1
(52)^ #M11公文類纂前17/高雄丸豊前田ノ浦え着船他3件画像3
(53)^ #M11公文類纂前17/高雄丸豊前田ノ浦え着船他3件画像5
(54)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像19-22、明治11年1月沿革
(55)^ #M11公文類纂前17/高雄丸豊前田ノ浦え着船他3件画像7
(56)^ #M11公文類纂16/測量船御渡相成度他6件画像1-6、測量舩御渡相成度義ニ付意見上申
(57)^ #M11公文類纂16/測量船御渡相成度他6件画像7
(58)^ #M11布達/2月画像5、明治11年2月6日丙第23号
(59)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像23-26、明治11年2月沿革
(60)^ #M11公文類纂16/測量船御渡相成度他6件画像20
(61)^ #M11公文類纂16/測量船御渡相成度他6件画像23-24、高雄丸附属御召船舟乃義ニ付御届
(62)^ #M11公文類纂前編19/高雄丸至急修覆他8件画像1-2
(63)^ #M11公文類纂前編19/高雄丸至急修覆他8件画像3
(64)^ #M11公文類纂前編19/高雄丸至急修覆他8件画像5,7
(65)^ #M11公文類纂前編19/高雄丸至急修覆他8件画像15-16
(66)^ #M11公文類纂前編19/高雄丸至急修覆他8件画像13
(67)^ #M11布達/4月画像1、明治11年3月27日丙第49号
(68)^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像26-28、明治11年3月沿革
(69)^ #M11公文類纂前編19/高雄丸至急修覆他8件画像25
(70)^ #M11公文類纂後編20/高雄丸修復の件水路局申出画像1-3
(71)^ ab#M11公文類纂後編20/高雄丸引渡の件水路局届画像1-4
(72)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸機械運転試画像1,3
(73)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸水路局え引渡方画像3,5
(74)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸水路局え引渡方画像13
(75)^ #M11.7-M12.6海軍省報告書画像23、所轄並在任
(76)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸水路局え引渡方画像27
(77)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸機械運転試画像11
(78)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸機械運転試画像15
(79)^ #M12公文類纂前編12/高雄丸え水路局員乗組の件画像1-2
(80)^ #M12公文類纂前編12/鳳翔艦並高雄丸朝鮮回航の件画像3
(81)^ ab#M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像7-9、明治12年7月3日、朝鮮仁川湾ヨリ長崎迄航海記事御届
(82)^ ab#M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像1
(83)^ #M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像3
(84)^ #M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像21
(85)^ #M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像23
(86)^ #M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像27
(87)^ #M12公文類纂後編15/高雄丸兵庫出帆他3件画像5
(88)^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像16、艦船所在並在任附改称及等級
(89)^ #M12公文類纂後編14/髙尾丸水路局所轄運送船他2件画像5
(90)^ #M13公文類纂前編11/高雄丸入湾の義画像1
(91)^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像21
(92)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸貸渡の義に付都合振開拓使へ照会画像1
(93)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸回航先にて物品陸揚費の義画像3-6
(94)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸貸渡に付出帆差支有無画像9
(95)^ #M13公文類纂前編11/高雄丸より小樽航行の義画像1
(96)^ #M13公文類纂前編11/高雄丸小樽航行の件回答画像3、﹁其艦進退開拓長官ニ問合セシ処小樽行ニ不及就而ハ積米函館ニ陸揚ノ上帰京スヘシ﹂
(97)^ ab#M13公文類纂前編13/高雄丸佐野弥平払下願画像3-9、海軍御省蒸気運送船高雄号御払下願
(98)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸佐野弥平払下願画像1-2
(99)^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像17、艦船所在並在任附改称及等級
(100)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸売渡事務担当方等画像1
(101)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸売渡代価納付方画像1
(102)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸払下の件願出福岡県添申画像3-4
(103)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸引渡済画像1
(104)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸残務取調済画像1
(105)^ #M13公文類纂前編13/高雄丸払下の義太政官へ届画像1
(106)^ #M13公文原書28/小栗中機関士高雄丸乗組画像3-4
(107)^ ab#M13公文類纂前編4/小栗中機関士高雄丸乗組届画像1
(108)^ ab#M13公文類纂後編3/小栗中機関士高雄丸退艦届画像3-4、帰京御届
(109)^ #M13公文類纂後編12/元山津へ石炭囲場建設天城艦達画像1
(110)^ #M13公文類纂後編12/元山津へ石炭運送画像3-4
(111)^ #M13公文類纂後編12/元山津へ石炭囲場建設総領事回答画像1
(112)^ ab#M1-M9海軍省報告書画像58-59、明治7年11月。
(113)^ ab#M1-M9海軍省報告書画像66、明治8年6月。
(114)^ ab#M1-M9海軍省報告書画像80-81、明治9年5月。
(115)^ ab#M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像11-13、明治9年11月
(116)^ #M12公文類纂後編15/高雄丸長崎入港他10件画像9
(117)^ #M13公文類纂後編12/元山津へ石炭囲場建設天城艦届画像1