黒崎幸吉
くろさき こうきち 黒崎 幸吉 | |
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生誕 |
1886年5月2日 山形県西田川郡鶴岡町(現:鶴岡市) |
死没 | 1970年6月6日(84歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治経済学科 |
職業 | 聖書学者、キリスト教伝道者 |
黒崎 幸吉︵くろさき こうきち、1886年︵明治19年︶5月2日 - 1970年︵昭和45年︶6月6日︶は、日本の聖書学者[1]、キリスト教伝道者、元住友本社社員。
人物・来歴[編集]
書家黒崎研堂の長男として生まれる[2]。 荘内中学校︵現‥山形県立鶴岡南高等学校︶、旧制第一高等学校を経て、1911年︵明治44年︶7月に東京帝国大学法科大学政治経済学科を卒業。帝大在学中に内村鑑三の聖書研究会に加わり入信する。同年8月に住友本社に入社[3]。住友家嗣子の教育掛となり、1915年︵大正4年︶にこれに随行し渡米留学する[2]。その後、大阪、東京、別子に勤務。21年の妻の死をきっかけとして、住友製鋼所副支配人を最後に住友を退社し[4]、無教会の伝道者と聖書学者として歩み出す[3]。 1922年︵大正11年︶から25年までドイツ、フランス、イギリスに留学。この間、24年にイングランドバーミンガム郊外の﹁セリオーク・カレッジ﹂︵セリー・オーク・カレッジズ︶へ滞在したことが、後に登戸学寮の着想につながった[5]。 帰国後、鶴岡に帰郷し聖書研究会を主宰する傍ら、旧制山形高等学校で語学講師を務めるが、健康を害し、1931年︵昭和6年︶に兵庫県に転居した[2]。太平洋戦争中には著した﹃永遠の生命﹄が反戦思想にあたるとして発禁処分を受け[3]、戦後は日本の再建は教育にあるとして著作に専念する[2]。1960年︵昭和35年︶8月から5ヶ月間に渡ってアメリカやヨーロッパ諸国を伝道して回った。 1970年6月6日、84歳で死去する[3]。登戸学寮[編集]
登戸学寮は、1955年︵昭和30年︶に黒崎が設立構想を公表し、58年に神奈川県川崎市多摩区に設けられた学生寮[5]。初代寮長は里見安吉︵フェリス女学院大学教授︶だった[5]。 当初は男子学生のみを受け入れていたが、2010年︵平成22年︶には女子寮が設けられた[1]。現在までに、出身者は600名を超えている[1]。-
エントランス
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男子寮部屋
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女子寮部屋
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女子寮キッチンスペース
親族[編集]
庄内藩家老の酒井了明は祖父。大泉県参事の酒井了恒、荘内蚕糸業組合長の酒井調良は伯父。婦人運動家の白井久井は伯母。京都で活動した婦人運動家の榊原弥生は従姉妹[6]。妹の祝は、友人江原万里の妻[7]。
NHK職員の黒崎めぐみは孫[8]。
著作一覧[編集]
著書[編集]
- 1931年(昭和6年)5月 - 『カルヴィンの教會觀』 一粒社
- 1932年(昭和7年) - 『教会の本質』 一粒社
- 1933年(昭和8年) - 『基督教の更生は日本より』 一粒社
- 『基督教の本質』 一粒社
- 1934年(昭和9年) - 『潔めの教理の誤謬』 一粒社
- 1935年(昭和10年) - 『ガラテヤ書講解』 一粒社
- 1947年(昭和22年) - 『共觀福音書和合表』 明和書院
- 1972年(昭和47年)- 1973年(昭和48年) - 『黒崎幸吉著作集』新教出版社 全7巻